たけし軍団(たけしぐんだん)は、日本の芸人グループ。ビートたけしのもとに弟子入りした人物らにより構成されている。1983年に正式に結成。基本的にはビートたけしの弟子。1980年代初期に弟子入りした「一軍」・「二軍」、1986年に弟子入りした「三軍」、それ以降に弟子入りした「若手」らで構成されている。この他にも番組などで関わった「外人部隊」も含み、歴代総数は100名を超えるが、ほぼ半数が離脱あるいは芸能界から引退していることから、グループとしては非常に流動的である。たけしは女性を弟子に取らないため、メンバーはすべて男性であり、野沢直子などが実際に弟子入りを志願したが全て拒否している。「たけし軍団」という名前自体が「石原軍団」のパロディであり、かつての二軍「たけし軍団セピア」は「一世風靡セピア」のパロディ、三軍「浅草キッドブラザース」は「東京キッドブラザース」のパロディである。テレビでは主に体を張ったリアクション芸を披露して、識者からは芸がないと批判されることが多かった。たけしは芸のないたけし軍団メンバーに、飲みに連れ歩いた10年間をかけて「間」を教えたと語っている。そのまんま東と大森うたえもんによるコンビのツーツーレロレロと、ピン芸人であった井手らっきょ(当時は、本名の井手博士名義)はビートたけしと同じく太田プロに所属していたが、それ以外の軍団メンバーは太田プロ所属ではなく、ビートたけしの弟子扱いで太田プロとは関係なくビートたけし預かりでポケットマネーから給料が出ていた。たけし軍団へのオファーはなく、ビートたけしの仕事にたけしとセットで出演する形になっていた。その後は太田プロに正式に所属したが、1988年のオフィス北野立ち上げ時にたけしとともに移籍している。たけし軍団への加入の仕方は、ビートたけしに心酔しての純粋な弟子入り、井手らっきょやダンカン、カージナルス(ガダルカナル・タカ、つまみ枝豆)のように芸人として既に活動していてキャリアの途中でたけしによるヘッドハンティングによる加入と、たけしに思い入れがなく芸能界への入り口として弟子入りした人たちの3種類であるという。軍団に加入した者はニッポン放送で放送されていた「ビートたけしのオールナイトニッポン」で出待ちをしていた人物と、草野球の助っ人で軍団入りした人物が多い。前者は当時芸能活動していない人物、後者は既に芸人として活動していた人物が多い。1軍3軍若手1981年に弟子入りしたそのまんま東(現:東国原英夫)が一番弟子であり、その後、大森うたえもん・松尾伴内・ダンカン・柳ユーレイ(現:柳憂怜)と弟子が増え、ツービートの活動が縮小するにつれ、相棒ビートきよし(現在はきよしもオフィス北野の所属となっている)の代わりのような存在として何かとひとまとめで団体芸をやりたいとして、1983年3月から『アイドルパンチ』(テレビ朝日)などに出演させたのをきっかけに、同年に正式に結成。なお、たけし軍団の名称は『アイドルパンチ』に出演した際にディレクターだった森昌行(現:オフィス北野社長)に付けられたもので、当初は「たけしアーミー」と書かれたトレーナーを着ていた。『たけしのお笑いサドンデス』がスタートした1983年10月頃よりたけし軍団の名前で呼ばれ始めた。このときの8人(そのまんま東、大森うたえもん、松尾伴内、ダンカン 、柳ユーレイ、ガダルカナル・タカ、ラッシャー板前、つまみ枝豆)が元祖たけし軍団である。結成当時の写真は、軍団員が裸で組体操(パンツは着用)「ピラミッド」をしているものがある。軍団結成の目的は、若い衆の面倒をみるのをやりたかったということと、漫才自体が限界になったので団体で芸をやりたかったとたけし本人は語っている。別の機会には、草野球のチームを組みたかっただけとも語っており、当初は8人体制を取っていた(後にグレート義太夫と井手らっきょが加入して10人体制に移行)。実際にガダルカナル・タカや井手らっきょらは草野球の助っ人から軍団入りしている。1984年2月からたけし司会の『スーパージョッキー』(日本テレビ)の企画「THEガンバルマン」に出演し、肉体的・精神的苦痛を伴うさまざまなゲームに身体を張って挑む姿が笑いを呼び人気を得た。「身体を張って笑いを取る」路線は、後の『お笑いウルトラクイズ』(日本テレビ)まで一貫している(ただし、亜仁丸レスリーや、ゾマホン・ルフィンのように、文化人的な軍団員は体を張って笑いを取る芸には参加しない)。なお、当時の軍団員はほとんどが20代だったこともあり、「Duet」などの雑誌に取り上げられ、追っかけが存在するなど一部でアイドル的な人気を持っていた。1980年代半ばになっても弟子志願者は絶えず、1985年頃にはたけし軍団の二軍として「たけし軍団セピア」、1986年には三軍として浅草キッドブラザースが誕生。たけしの番組でのスーパーサブ的な役割を担っていたたけし軍団だったが、1986年1月には冠番組『たけし軍団!ヒット&ビート』(テレビ朝日)を持つに至り、また同年5月からスタートした『痛快なりゆき番組 風雲!たけし城』(TBS)の出演でたけし軍団の人気は最盛期を迎える。しかし、同年の12月のたけしの「フライデー襲撃事件」にたけし軍団のうち11人が参加したことにより『ヒット&ビート』は打ち切られる。フライデー襲撃事件では、たけし軍団は1987年3月に不起訴処分が決定。謹慎が解けて以降は、たけし軍団としての活躍の場は再びたけしの番組のスーパーサブ的存在へと戻り、『お笑いウルトラクイズ』、『スーパージョッキー』、フジテレビ深夜のたけし枠の番組(『北野ファンクラブ』~『たけしのコマ大数学科』)、『朝までたけし軍団』シリーズなどに出演。また、たけしが出演していない番組で、軍団員が多く出演する番組としては、『オールスター感謝祭(島田紳助及び、今田耕司が司会。たけしも乱入という形で出演経験あり)』があり、そのまんま東とガダルカナル・タカが総合優勝経験がある。たけしの出演している番組で共演する機会の多い人物としては、たけしの相方のビートきよし、放送作家の高田文夫、たけしの友人である島田洋七と言った人物と、たけしが出演しない番組では、島田紳助(2011年に芸能界引退)、タモリ、明石家さんまといったたけしとは比較的共演の多い人物と共演する傾向がある。1999年3月に『スーパーJOCKEY』が終了して、たけしと軍団が毎週のように顔を合わせる仕事が終わり、軍団のメンバーが所帯を持つようになってたけしが頻繁に誘うこともなくなった。2000年代以降はたけしが、教養番組など、堅めの番組を多く持つようになり、たけし軍団のメンバーの方向性もバラバラとなって軍団として集まって出演する機会が年毎に減っていった。そんな中、たけしが軍団という呼び方もやめて、たけし軍団も卒業にしようと言い出し、2004年10月に『朝までたけし軍団』の番組中でたけし軍団の解散が発表された。しかしこの解散発表は、企画を練っているうちにテレビでのお笑いの企画のような形になり、周囲からも本気での解散と受け取られておらず、軍団当人たちも解散とは思っていないという。軍団員はたけしを「師匠」でなく「殿」と呼ぶ。師匠と呼ばれることに抵抗を感じていたたけしが、萩本欽一が大将と呼ばれていることも考えて、1984年5月から「師匠」と呼んだ場合に罰金を取るようになり、「殿」と呼ばせることをたけしが決めた。当初はバカ殿と呼ばせていた。ただし、トーク番組で軍団員では無い司会者等の第三者に対しては「たけしさん」と呼んだり、芸能界引退後の東国原英夫は政治家としてTVタックルなどでたけしと共演する際は「師匠」と呼んでいる。一軍であるたけし軍団内部に上下関係はなく横並びの関係で、軍団の形が出来た後に加入したグレート義太夫が敬語で喋っていたが、それ以外は年齢差や芸歴に関係なくタメ口だった。しかし軍団の人数が10人になり、さらに希望者が殺到するようになったため、ふるい落とすために希望者はダンカンの弟子の形で受け入れることし、以後はダンカンによる極端に上下関係を強いて、そこで認められた者のみがメンバーとして受け入れられるようになった。たけし軍団にリーダーは存在しないが、初期には太田プロ所属のすがぬま伸が隊長格の役割を果たしていた。年に一回、事務所(軍団)内で行われる酒席において年功序列が逆転する宴が催される。これによりたけしが最底辺の芸人となり、軍団メンバーからは(下部から上部へ)アゴでコキ使われ、雨あられの説教を受けるという逆転現象で盛り上がる余興がある。この宴会は、たけしが考案した宴会であり、師匠、弟子の垣根を取り払っての宴会は、元々、たけしの師匠である深見千三郎が、自分の事そっちのけで、弟子のたけしに酒を薦めるなど、師匠、弟子関係なく楽しむことを目的とした宴会を考えていたことを実行したものである。先輩の軍団員は後輩の軍団員を居候させるという方針を取る。これは、まだ芸人として生計が立てられない後輩の軍団員の保護策として機能している。このような先輩が後輩の面倒を見る制度は、たけしが、師匠である深見千三郎に非常に気に入られ、たけしが深見から破門されても、深見がたけしの面倒を見るなど、芸人を長く続けるようにすべきという意図があった(たけしと深見との師弟関係及び、深見がたけしを破門した経緯については、ビートたけし及び深見千三郎を参照)。一例としてダンカンは結婚するまで、最大で6人の軍団員を居候させていた。なお、軍団員が結婚した場合は、後輩軍団員を居候させることは免除され、別の軍団員の家に預けられる。変な芸名を付けられる。たけし曰く、芸人としてやっていく覚悟があるのかというたけし流の踏み絵の意図であり、同時に自分を安易に頼ってくる者を門前払いする脅しの意味があるのだという。ただし軍団員全員がたけしによる命名というわけではない。たけしとともに軍団に芸名の名付け親になっていた放送作家の高田文夫は、変な名前をつけるのは落語立川流の立川談志を見習っているからと語っている。軍団員の大半はたけしの映画監督作品(本名の北野武名義)に出演している。特筆すべき作品としてなお、現役軍団員の他、水島新太郎、太田浩介といった元軍団員が出演することもある。また、軍団員のダンカンは監督作品として「七人の弔」を制作している。当作品はダンカンの本名の「飯塚実」名義ではなく、「ダンカン」名義である。本人は端役で出演しているのみで、ダンカン以外の軍団員は出演していない。配給は、オフィス北野で、オフィス北野社長の森昌行もプロデューサーとして制作に関わっている。北野映画に出演している軍団員一覧たけし軍団の結成後、草野球チーム「たけし軍団」としても活動。2013年現在も神宮草野球場での「茜リーグ」に所属している。『スポーツ大将』では、アマチュア最強とも噂される強豪でノンプロ選手が参加する「東京ファイターズ」や、業界最強と言われたアパレルブランドNICOLEのチームに勝利するなど強い相手ほど勝負強くなる特性を見せた。助っ人には当時無名であった、とんねるずも参加しており、これをきっかけに、とんねるずはたけしとの交友が深まり、同時にたけしを尊敬するようになる。他にも、たけしとの親交が深かった逸見政孝の息子である逸見太郎も、軍団員の草野球に参加している。特筆すべきは1991年シーズンオフの11月23日、阪神タイガースのファン感謝デーにて阪神の二軍と対戦して最終回(この試合では特別ルールで6回まで)に逆転勝利したことである。「たけし軍団にも負けた阪神」と当時の阪神の弱さ(なおこの年の阪神はリーグ最下位だった)を象徴するエピソードになっている。また、翌1992年には千葉ロッテマリーンズのファン感謝デーにも招聘されて「非公式パリーグ入れ替え戦」の名目でマリーンズと対戦し(この年のマリーンズがリーグ最下位だったため)、2-1でたけし軍団が勝利を収めている。実はハンディキャップとして使用球は軟式球を使用していたが後に、ガダルカナル・タカが試合後に練習場を通ると軟球が用意されていてプロの対策は万全だった。また、他にもヤクルト・近鉄にも挑戦を出していて練習試合でヤクルトにも勝利し、結局プロ相手には無敗だった。スクウェア製作のゲーム「日米間プロ野球 FINAL LEAGUE」(2002年)には、たけしが監督として登場し、軍団員(井手らっきょ・つまみ枝豆など)も選手として登場する。1986年、そのまんま東・大森うたえもん・つまみ枝豆・ガダルカナル・タカの4人でユニット「たけし軍団COUNTDOWN」を組みレコード・デビュー。以下の作品を発表した。なお、その他のメンバーは音源リリースは見送られたものの、松尾伴内・ダンカン・柳ユーレイ・ラッシャー板前・井手らっきょで「たけし軍団IMAGEDOWN」が存在していた。堀越学園高校の同級生である水島新太郎とサード長嶋は「おぼっちゃま」として思わしい結果ではないが本格的な歌手活動を行い(発表した作品については水島新太郎#ディスコグラフィを参照)、コンサート専用ユニットとして、キドカラー大道・誰なんだ吉武の「ザ・ボーヤ」、大阪百万円・古田古・グレート義太夫の「The KITANAI」があった。過去に替え玉受験で問題になったなべおさみの息子のなべやかんをたけし軍団に迎え入れたことで、タレントなど(特にお笑い系)による不祥事が起きると「“たけし軍団”入りで再出発か」というネタのような話がよく出てくるのも特徴である。軍団ではないがスキャンダルを抱えた山本モナがオフィス北野に在籍していたことから、たけし自身、「『たけし再生工場』の評判は、芸能界じゅうに轟いているんだよ」と語っている。田代まさしが不祥事を起こした際も軍団入りの情報が出た。だが、田代が実刑判決を下された後に、たけしが「あんな野郎に関わりたくはない」とコメントとしたと報じられて、田代の軍団入りは実現していない。ただし、インタビューでは、車椅子の国会議員である八代英太をもじった田代英太という芸名で車椅子に乗せようとメールを送ったが、田代に断られたと話している。軍団で大きな不祥事にはフライデー襲撃事件(ラッシャー板前・井手らっきょ・つまみ枝豆は不参加)がある。それ以前には水島新太郎(漫画家・水島新司の息子)が芸能界を志向した際に「軍団で修行したらどうか」と提案したのが始まりである。芸名の候補として「チーチーバエミズシマ」というのも上がったが、軍団に止められた。その後、『おぼ土山』『おぼつちやま』という芸名でたけし軍団に所属。軍団を離れた後は、たけしの古巣である太田プロに移籍し、現在は水島プロに移籍している。
出典:wikipedia
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