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祇園祭

祇園祭(ぎおんまつり)は、京都市東山区の八坂神社(祇園社)の祭礼で、明治までは「祇園御霊会(御霊会)」と呼ばれた。貞観年間(9世紀)より続く。京都の夏の風物詩で、7月1日から1か月間にわたって行われる長い祭である。祭行事は八坂神社が主催するものと、山鉾町が主催するものに大別される。一般的には山鉾町が主催する行事が「祇園祭」と認識されることが多く、その中の山鉾行事だけが重要無形民俗文化財に指定されている。山鉾町が主催する諸行事の中でもハイライトとなる山鉾行事は、山鉾が設置される時期により前祭(さきのまつり)と後祭(あとのまつり)の2つに分けられる。山鉾行事は「宵山」(よいやま、前夜祭の意。前祭:7月14日〜16日・後祭:7月21日〜23日)、「山鉾巡行」(前祭:7月17日・後祭:7月24日)が著名である。八坂神社主催の神事は「神輿渡御」(神幸:7月17日・還幸:7月24日)や神輿洗(7月10日・7月28日)などが著名で、「花傘連合会」が主催する花傘巡行(7月24日)も八坂神社側の行事といえる。宵山、宵々山、宵々々山には旧家や老舗にて伝来の屏風などの宝物の披露も行われるため、屏風祭の異名がある。また、山鉾巡行ではさまざまな美術工芸品で装飾された重要有形民俗文化財の山鉾が公道を巡るため、「動く美術館」とも例えられる。祇園祭は数々の三大祭のひとつに挙げられる。京都三大祭(他は上賀茂神社・下鴨神社の葵祭、平安神宮の時代祭)、日本三大祭(他は大阪の天神祭、東京の山王祭、神田祭)、日本三大曳山祭(他は岐阜県高山市の高山祭、埼玉県秩父市の秩父夜祭)、日本三大美祭(他は前述の高山祭と秩父夜祭)のうちの一つであり、日本を代表する祭りである。祇園祭という名称は、八坂神社が神仏習合の時代に、比叡山に属して祇園社と呼ばれていたことに由来する。祇園社の祭神の牛頭天王が仏教の聖地である祇園精舎の守護神であるとされていたので、祇園神とも呼ばれ、神社名や周辺の地名も祇園となり、祭礼の名も祇園御霊会となったのである。その後明治維新による神仏分離令により神社名が八坂神社となった際に、祭礼名も仏教色を排除するため「祇園御霊会(ぎおんごりょうえ)」から「祇園祭」に変更された(ただし「祇園」という名称自体は前述のとおり仏教由来である)。疫病の流行により朝廷は863年(貞観5年)、神泉苑で初の御霊会(ごりょうえ)を行った。御霊会は疫神や死者の怨霊などを鎮めなだめるために行う祭で、疫病も恨みを現世に残したまま亡くなった人々の怨霊の祟りであると考えられていた。しかし、その後も疫病の流行が続いたために牛頭天王を祀り、御霊会を行って無病息災を祈念した。869年(貞観11年)貞観地震などが発生したりして、全国の国の数を表す66本の矛を卜部日良麿が立て、その矛に諸国の悪霊を移し宿らせることで諸国の穢れを祓い、神輿3基を送り薬師如来を本地とする牛頭天王を祀り御霊会を執り行った。この869年(貞観11年)の御霊会が祇園祭の起源とされている。御霊会が生まれた直接の背景は、平安京がもともとが内陸の湿地であったために高温多湿の地域であったこと、建都による人口の集中、上下水道の不備(汚水と飲料水の混合)などにより、瘧(わらわやみ=マラリア)、裳瘡(天然痘)、咳病(インフルエンザ)、赤痢、麻疹などが大流行したこと。その原因が、先に大水害により挫折した長岡京遷都工事中に起きた藤原種継暗殺事件で無実を訴えながら亡くなった早良親王ら6人の怨霊の仕業との陰陽師らによる権威ある卜占があったこと、などである。さらに、1世紀後の970年(安和3年)からは毎年行うようになったとされる。これらの祭式は神仏混淆の儀式として成り立っていた。真夏の祭となったのは、上水道も冷蔵庫もなかった時代は、真夏に多くの感染症が流行し多くの人々が脱水症状等で亡くなったことが原因の一つと考えられる。中世の一時期、祇園社(現・八坂神社)は北野天満宮と共に比叡山の支配下に置かれた時期があった。この時期、祇園社は日吉神社の末社とされ、日吉神社の山王祭が行われない時に祇園御霊会も中止・延期させられる原因となった。さらに室町時代に至り、四条室町を中心とする(旧)下京地区に商工業者(町衆)の自治組織両側町が成立すると、町ごとに風情を凝らした山鉾を作って巡行させるようになった。応仁の乱の中断後の1533年(天文2年)には、先述の理由による延暦寺側の訴えにより、祇園社の祭礼が中止に追い込まれたが、町衆は「神事これ無くとも山鉾渡したし(神社の行事がなくても、山鉾巡行だけは行いたい)」という声明を出し、山鉾行事が既に町衆が主体の祭となっていたことを伺わせる。応仁の乱での33年の中断や第二次世界大戦での中断等はあるものの、廃絶することなく現在まで続けられており、1000年を超える歴史がある。室町時代以来、祇園祭のクライマックスは山鉾巡行であるが、現在では「巡行の前夜祭」である宵山に毎年40万人以上の人が集まるため、祇園祭といえば宵山を先に思い描く人も多い。第二次世界大戦後、京都市の中心部もドーナツ化現象が進んだことにより、多くの山鉾町の居住者が減少し、山鉾行事の運営に支障が出た。そのため曳き手をアルバイトに頼ったり町内にある企業に応援を依頼することが増えた。その後町内にマンションが建った場合も新しく転入した住民は「新住民」などと呼ばれ、以前は山鉾保存会に入会できなかった。1986年(昭和61年)以降、各山鉾町は順次新住民の保存会加入を認めるようになり、現在では新しく建つマンションの居住者に保存会加入を条件付けるところが多くなっている。近年は住居の都心回帰が進み、マンションの新設により多くの山鉾町が保存会会員不足から脱している。祭礼などの行事が国の重要無形民俗文化財に指定され、それとともに屋台・山鉾などの用具が重要有形民俗文化財に指定されているものは日本全国で5例のみで、そのなかの1つが祇園祭である。1965年(昭和40年)まで7月24日に巡行を行なっていた後祭を、大船鉾の再建にあわせて復活させる気運が高まり、2012年(平成24年)になって、2014年(平成26年)の巡行から大船鉾を巡行に参加させ、同時に後祭を復活させる方針を決めた。ただし、実際の復活には警察や地元町会等との調整が必要で正式の復活発表が遅れていたが、2013年(平成25年)8月に2014年(平成26年)の巡行から前祭の23基と後祭の10基に分かれて宵山や巡行を別日程で行うことになった。巡行コースは現在の巡行コースの逆ルートとなった。これは、かつての後祭のコースが三条烏丸をスタートして、三条寺町から寺町通を南下し、四条寺町から四条通を西行し、四条烏丸で解散するという時計回りのルートであったことに倣ったものである(そのために、後祭の南北に走る通りに建てられる山は北を正面にして山を建てる。前祭と合同巡行の2013年(平成25年)までは、曳山は四条通まで一旦バックしていた)。現在の三条通や寺町通は曳山の巡行が不可能な構造である(低い位置に電線が通っていたり、アーケードがあったりする)ため、既に巡行に対応済みの現在のルートを使用することになったが、将来的には三条通の巡行を検討する。山鉾の飾り付けは先祭と同様に宵々々山から開始するが、前祭同様その前日夕刻から飾り付けを開始する山鉾もある。有料観覧席は前祭は寺町御池から新町御池に至るまで設置されるが、後祭では京都市役所前に相当する河原町御池から寺町御池の間だけに設置される。ただ、この区間は山鉾巡行に引き続き花傘巡行が観覧できる場所である。寺町御池〜河原町御池〜四条河原町の間は山鉾巡行のコースと花傘巡行のコースが重複しており、両方の巡行が一度に観覧できる。後祭の復活は、祭を本来の姿に戻すという意味のほか、多くの問題の解決策という面もある。山鉾の復興が進んで33基にまで増加した山鉾の巡行は、最後の鉾が解散地点である御池新町交差点に到着するのが13時30分前後までかかり、交通規制が長時間になったことや、先頭から最後までの山鉾を全部見ると2時間を越え、後祭巡行列が来る頃には有料観覧席に空席が目立つようになるなどの弊害が目立っていた。宵山期間の人出の多さも問題となっており、後祭の日程追加により人出の分散が期待された。ただ、2014年(平成26年)の前祭巡行は前年度の山鉾巡行よりも9基も山鉾の数が減ったのに、巡行の終了は逆に20分増加した。また、宵山期間の人出も14日(宵々々山)の露店出店・歩行者天国を中止したところ、7月14日の人出は半分以下の8万6000人になり、7月15日・16日に人出が集中した。特に7月16日(宵山)は前年の27万人の人出から34万人へと大幅に増加するなど、課題を多く残した。後祭の2014年(平成26年)の人出は21日から23日までの宵山期間の人出はそれぞれ4万人・2万人・5万人で、前祭に比べればかなり少なかったが、落ち着いた雰囲気を評価する声も多かった。巡行は前祭の11万人に対し後祭は6万人を集め、前祭の半分以下の規模であることを考慮するとまずまずの集客であった。しかし、2015年(平成27年)の後祭宵山期間は天候や曜日配列に恵まれず、21日は7000人、22日は5000人、23日は1万7000人と大幅に減少し、集客面での課題を残した。反面、好天に恵まれた後祭の山鉾巡行は前年と同じ6万人を集め、悪天候だった前祭の山鉾巡行とほぼ変わらない集客となった。3年目となる2016年は、宵山期間は8000人、1万人、2万人と、2年目より少し増加した程度であったが、巡行は日曜日と重なったこともあり、10万人を集めた。諺で時機を逃して用を成さないことを「後の祭り」という。この語源は異説もあるが、前祭では豪華絢爛な鉾が多数巡行するのに対し、後祭では山鉾の数が少なく小規模であることから、前祭を見逃して残るは後祭しかないような状況を指すようになったという説もある。かつては、旧暦6月に行われていたが、現在ではグレゴリオ暦7月に行われている。新暦移行後も幾度も日程の変遷があるが、以下に示すものは2014年(平成26年)からの後祭復活後のものである。ここからが祇園祭山鉾のその年の巡行順をくじ引きによって決める儀式。激化した順番争いを収めるために、室町時代の1500年(明応9年)頃から行われている。元々は六角堂で開催されてきたが、1953年(昭和28年)から京都市役所の市会議場で開かれるようになり現在に至る。一般の傍聴席での見学は往復はがきで申し込み当選した人に限られている。前祭も後祭もこの日にくじ取りを行う。鴨川の水で神輿を清める神事。飾りを解いた状態の中御座を夕刻四条大橋へ運び出して行う。神幸祭に先立つ7月10日(先の神輿洗い)と還幸祭の後の7月28日(後の神輿洗い)の2度ある。これに関連する慣わしとして、「お迎え提灯」がある。これは町衆が神輿の到来を祝して自主的に始めた行列で、先の神輿洗いの日(7月10日)の夕方より行われ、後の神輿洗い(7月28日)には行われない。この神輿洗いで担がれる神輿は四基全ての神輿ではなく、素戔嗚尊をお載せする中御座(三若)、一基である。担ぎ手は神幸祭で東御座(四若)を担がれる四若神輿会が担当する。まず、大松明が八坂神社から四条大橋のあいだの四条通を清めたあと、3基ある神輿のうち、中御座だけが代表して四条大橋まで行く。朝の神用水清祓式で汲んだ水を榊に含ませて大きく振りかざし、神輿に振り掛けることにより清める。神輿洗いの名であるが、一般的に言うところの「洗う」訳ではない。この際榊に含まれた神用水は見物人を含めた周囲の人にも掛かる。飛沫を浴びると厄除けになるという。山鉾は普段は、各山鉾町が所有あるいは賃借している蔵や、円山公園にある収蔵庫である「祇園祭山鉾館」に解体して収められている。高さの高い鉾や曳山と、小規模な舁山では建て方が異なるが、いずれにせよ釘を一切使わず、縄だけで組み立てていくのは共通している。大規模な鉾の組み立ては普通3日間かかる。初日は基礎部分の組み立てが行われる。2日目は基礎部分を横倒しにし、20メートル以上の高さがある真木や、曳山の場合は高い松の木が取り付けられ、梃子の原理を利用して引き起こされる。昼前後に行われる鉾の引き起こしは鉾建て最大の見どころである。引き起こしには山鉾によりウィンチを使ったり、昔ながらにロープを人力で引いたりするが、関係者だけで作業を行う山鉾が多い中、北観音山は周囲の観客にロープを引いてもらって山を引き起こす。鉾の場合、真木を取り付けたあとに御神体である天王人形の取り付けが行われる。ほとんどの鉾では群衆に御神体が間近で見えないように布で隠して取り付ける。布には紐がついており、鉾を引き起こして天王人形がある程度地上が離れてから紐を引いて布を取り外す。その他、菊水鉾は引き起こし直前に榊に付ける大量の白幣を付近にいる人たちに取り付けてもらうなどの、鉾による手順の差異がある。3日目は、屋根の取り付け、車輪の取り付け、飾り付けなどが行われる。曳山建ては岩戸山は3日間掛けるが、後祭の曳山(北観音山・南観音山)は2日で完成させる。この場合曳山の引き起こしは初日の15時〜16時頃に行われる。3日目の15時前後には「曳き初め」が行われる。これは、数百メートルの往復を行って巡行のテストを行うのであるが、曳き手に女人禁制のある鉾であっても、この時ばかりは付近にいる人なら、男女・老若・国籍に関係なく誰でも鉾や曳山を曳くことができる。ただし、悪天候時は幼児の参加を断る場合がある。一部の鉾・曳山では最後まで曳き初めに参加した人にお礼を渡す。鉾・曳山により、無料登鉾券であったり、厄除けのお札であったりする。子供限定で菓子や飲み物が渡されることもある。山鉾町にある企業や短期大学の女性が浴衣姿で参加したり、幼稚園児や小学校の生徒が団体で参加したり、外国人観光客が飛び入りしたりと、山鉾巡行とは違った姿が見られるが、囃子方や音頭方等が乗り込み、長刀鉾には稚児も乗り込むことは本番と変わらない。観客が本格的に祭に参加できるほぼ唯一の行事である。これが終わると鉾・曳山の前後に駒形提灯が取り付けられて灯が入れられ、祇園囃子の演奏が始まる。前祭の四条通・室町通に位置する鉾の鉾建ては7月10日から、新町通に位置する鉾・曳山の鉾建て・山建ては7月11日から行われる。後祭の鉾・曳山は7月18日から大船鉾建てが、7月19日から曳き山建てが開始される。舁山の組み立ては鉾の基礎部分だけの組み立てに似ており、普通は半日で組み立てが完了する。一部を除き宵々々山の前日の午前に山建が行われる。孟宗山や橋弁慶山のように宵々々山の日の早朝に山建てを開始し、昼ごろまでに完成させるところもある。前祭の蟷螂山と後祭の橋弁慶山は「舁き初め」が行われる。長らく橋弁慶山だけが舁山の舁き初めを行ってきたが、町内住民の増加により、2012年(平成24年)に蟷螂山も約140年ぶりの舁き初めを再開した。他の舁山でも非公式に組み立て終わった山を動かしてみる所もあるが、両山のように山を本番同様に飾り付けて舁き初めするところはない。橋弁慶山の舁き初めは関係者だけで行うが、蟷螂山の舁き初めは鉾のように引き綱を臨時に取り付けるので、鉾の曳き初めと同様に観客であっても参加できる。傘鉾は基本的には傘を開くだけなので、鉾本体の設置は簡単である。四条傘鉾は前祭の宵々々山である7月14日の朝に設置される。傘鉾の設置そのものよりも、駒形提灯の設置のほうが面倒となる。「古式一里塚松飾式」とも言う。7月14日の14時頃に松原中之町町会所の奥庭にある小祠である「松原中之町八坂神社」を参拝する形で行われる。八坂神社側の公式行事ではない。1955年(昭和30年)まで前祭巡行は松原通を通っていたが、その際に長刀鉾の稚児は長刀鉾町の「寄町(協力関係にある町)」であった巡行路途中の松原中之町の町会所でが休憩し、その際に町会所奥の祠(松原中之町八坂神社)に詣でていた。巡行路が変わり松原通を鉾が巡行しなくなったため、しばらく断絶した後、7月17日の巡行の日に松原中之町の人々が京都市役所前に出向いて、長刀鉾だけでなくすべての山鉾の関係者に冷たい茶や菓子を振る舞う行事となった時期もあった。現在では7月14日に稚児や八坂神社・長刀鉾町関係者が松原中之町町会所に出向いて神事を行う。稚児一行は山鉾町に隣接したところにある稚児の宿舎となっている高級ホテルを出発し、徒歩でまず保昌山の会所を詣でてから「祇園床」という床屋だった建物の奥にある松原中之町町会所に至る。神事の後、冷水で出した薄茶を稚児ら関係者に振る舞う。その後、旧・祇園床の建物の前で稚児を中心にして記念撮影をしたあと、再び徒歩で保昌山経由で宿舎のホテルに戻る。稚児が出発した後、付近にいる一般人にも町会所奥の祠の参拝が許される。以前は一般人にも薄茶を振る舞っていた。八坂神社側の行事ではなく松原中之町側の行事で、八坂神社や稚児等は招待客という扱い。この日の稚児や禿は白塗りの化粧をしておらず、唇あたりに薄く紅をしている程度である。また、稚児社参後ではあるが、非公式行事であるためか稚児は普通に地上を歩く。山鉾からは祇園囃子のコンチキチンという独特の節回しが聞かれる。現在のような囃子ができたのは江戸時代から。また、ゴブラン織をはじめとする豪奢な山鉾の飾りも見どころの一つである。山鉾の飾り付けは巡行の3日前から始まり、この日を宵々々山という。ただし、近年は宵々々山の前日の夕刻から飾り付けを開始するところが多くなっている。2日前が宵々山といい、前日だけが本来の宵山である。山鉾の前後には駒形提灯という提灯群が取り付けられ、夜に提灯に明かりが灯る様子は、巡行と並ぶ祇園祭の象徴的な光景である。宵山期間は、昼間から各山鉾町の町会所に展示されている宝物を無料で見学できる。ここでは各山鉾の御神体人形に因んだ利益があるとされるお守りや御札、粽を販売している。また、各町会所にはスタンプや朱印が設置されており、朱印集めをする人も多い。町会所は表通りに面したところもあれば、細い路地の奥にある所もある。町会所の中には100年以上前から伝えられた建物もある。祭の期間、一般の家や会社は白い提灯を掲げているが、町会所の入口だけには赤い提灯が設置されており、町会所の目印となっている。町会所には町の人々や関係者が詰めている。孟宗山のように町内居住住民がほとんどいないため、町内のオフィスビルの会社や銀行から従業員が浴衣姿で応援に出るところもあれば、蟷螂山のように近年町内に新しいマンションが次々に建ち、新住民の増加で町会所や粽売場が賑やかな所もある。重要文化財のベルギー・ブリュッセル製タペストリーを伝える鯉山の町会所飾りなどは人気が高く、時間帯により入場に長い時間がかかる所もある。また多くの山では小学生以下の少女が童歌を歌うのが名物となっている。歌の内容は「○○のお守りはここで発売しています。いつも売っているものではありません。宵山期間だけです。信心の皆さんは買って行って下さいな。蝋燭も一本どうぞ」といった、お守り・蝋燭等の販売促進を目的としてた内容であるが、素朴な雰囲気が人気となっている。昼間は少女たちが小学校に行っているため大人しかおらず、童歌はエンドレステープを流しているだけのことが多いが、夕方以降には少女たちが待機しており、随時歌い出す。土・日曜日は昼から待機することが多い。山によっては少年も歌に加わることがある。童歌の元祖は霰天神山と言われている。一部の山鉾町では、「南観音山あばれ観音」や「役行者山護摩焚き」などの伝統行事が宵山期間に行われる。巡行中に行われる両傘鉾の棒振り踊りは宵山でも披露される。また、前祭期間の宵々山と宵山の両日のみ露天商の夜店が出る。この両日の18時以降23時までは四条通と烏丸通の一部が歩行者天国となる。後祭期間は全日とも露天商の出店も歩行者天国もないが、その代わり宵々々山からの3日間、17時から22時の間「エコ屋台村」が5箇所に設けられ、地元のレストランのテイクアウト食品やスイーツ・地ビールの店などが出店する。後祭は前祭よりも人出が少ないことが予想されるため、2014年(平成26年)はスタンプラリーを行い、大人は手ぬぐい・子供はクリアファイルを貰える企画を行った。宵山期間、一部の旧家や商店では伝来の屏風等の家宝を通りから見えるように展示する。この行事ののことを「屏風祭」と呼び、宵山そのもののを屏風祭と呼ぶこともある。宵山期間は北観音山を除く鉾・曳山の上に一般客が搭乗(拝観)することができる。ただし、長刀鉾と放下鉾では女人禁制を今日に伝えているため、女性の搭乗はできないほか、喪中の人の搭乗の自粛を呼びかけるところもある。拝観期間は宵々々山から宵山の間が多いが、一部、曳き初めの日の夜から搭乗可能な鉾もある。搭乗料金は「拝観料」として金額が予め決まっているところ・粽やガイドブックなど何かをその鉾・曳山の販売所で買えば、サービスとして搭乗できるところ・前述の曳き初めに参加した人は無料搭乗できるところ・及びそれらの複合のところ(拝観料も決められているが、何かを買っても搭乗できるところや、宵々々山の日は何かを買うだけで拝観できるが、宵々山からは拝観券を買わなければいけないなど)がある。岩戸山ではその他に「Tシャツパスポート」と称して、販売しているTシャツを拝観受付で提示するか、そのTシャツを着用していると、その年も翌年以降も何回でも搭乗できるというサービスを行っている。一般的に四条通や室町通の鉾は混雑し、新町通の曳山は比較的空いている。祇園祭のハイライト。7月17日の神幸祭で街中の御旅所に神輿でお出ましに、7月24日の還幸祭で神社にお帰りになる神体の通行の前に、町衆が予め町・通りを清めるために始められた。そのために7月17日の前祭と7月24日の後祭の2つの巡行が生まれた。元々は付け祭りだったが、町単位で山鉾が出されたため、各町が贅を競い合うようになり、京の町衆の財力を背景にこちらの方がはるかに大規模で豪華になった。山鉾巡行は、交通規制の都合により1966年(昭和41年)より後祭巡行も17日に統合されたものの、2014年(平成26年)に旧に復した。山鉾の数は現在は33基(前祭の鉾9基・前祭の山14基・後祭の鉾1基・後祭の山9基)で、これも時代によって変化している。巡行の日は早朝から各山鉾街では、町会所などに展示してあった装飾品や神体人形を山鉾に取り付ける作業が行われる。また、出発前に町会所等では神事が行われたり記念撮影が行われる。出発地点を公式に出発する時間の30分から1時間前に町内を出発する山鉾が多い。ほとんどの山鉾は出発時に一旦バックして町内すべての家に「挨拶」してから出発地点に向かう。出発地点の手前でくじ順に並び直しをする。前祭の山鉾は長刀鉾を先頭に9時に四条烏丸を出発し、午前中から昼過ぎにかけてコースを回る。四条烏丸交差点で稚児の長刀鉾への乗り込みがある。鉾のそばまでハイヤーでやって来た稚児は、既に神の使いとなっており地上を歩かないことになっているため、男性強力の肩に乗せられて長刀鉾に掛けられた梯子で鉾に乗り込む。四条堺町交差点ではくじ改めが行われる。奉行に扮した京都市長に対し、山鉾町の代表者(町行司)が7月2日のくじ取り式で受けたくじ札を見せ、くじ順に巡行していることを確認する。町行司役は子供のこともある。いかに格好良く文箱の紐を解き、いかに粋な格好で奉行にくじ札を見せるかを各山鉾町が競い合う。確認が終了すると町行司は扇子を使って山鉾に通行して良い旨の合図を送るが、これも山鉾により異なる型がある。舁山は奉行に山の全面の懸装品を見てもらうために、山の回転を行う。くじ取らずの山鉾は奉行に挨拶だけを行う。四条麩屋町交差点では稚児による斎竹(いみたけ)の注連縄切りがある。神の使いである稚児が太刀を使って注連縄を切断して結界を開放し、神域への山鉾の進入を神に代わって許可する。太刀の使用には危険も伴うので、実際は稚児の後方の大人が二人羽織のように太刀を扱う。なお、現在の形での稚児によるの注連縄切りは1956年(昭和31年)から始まったものであるが、古い文献に見える注連縄切りを復活させたものとされる。その他にも傘鉾の棒振り踊りなど見所は多岐に渡るが、最も目を引く見所は辻回しと呼ばれる鉾の交差点での方向転換である。鉾の車輪は構造上方向転換が無理なため、路面に青竹(舗装以前は樫の丸太だった)を敷き、それに水を掛け、その上に車輪を乗せて引き綱を横から曳くことにより車輪を滑らせて向きを変える。一度で転換すると車輪や鉾本体を痛めるため、3回から4回ほどかけて90度の方向転換を行う。この時音頭方は通常の2人に加えて、前輪を股で挟んで固定する役の2人も加えて計4人となる。長刀鉾の稚児は新町御池で鉾から降り、ここで公式の山鉾巡行は終了して各山鉾は解散という形で、くじ順に関係なく各山鉾町内に向かう。舁山は一部は室町通を南下するが、背の高い鉾や曳山は新町通を必ず進む。新町通は鉾の巡行に備えて、一切の通りを横断する電線がないが、他の通りには電線があるためである。昔ながらの幅の新町通を次々と鉾が通過していくため、道路の端にいてもすぐ近くを車輪が通過していき迫力があり、新町通で巡行を見るファンも多い。囃子のある鉾や曳山では、町内に到着すると祇園囃子が到着・終了の曲となる。囃子の最後は多くの鉾で横笛の和音で終了し、付近の観客からは拍手が起こる。後祭の山鉾は7月24日の9時30分に烏丸御池を出発し、前祭の逆コースを行く。生稚児の乗る鉾がないため、注連縄切りはない。くじ改めは京都市役所前で行われる。以前は巡行時に鉾の上から囃し方が粽(ちまき)を観衆に投げていたが、粽を取り合った観客が怪我をしてからは危険とされ現在は禁止されている。この粽は厄除け用として作られており、笹の葉の中に餅は入っていない。近年になって一部の鉾町が食用の粽も販売しているが極一部に留まっている。なお、祇園祭に由来する祭である大津祭では、現在でも粽投げが行われる。囃子方になるためには(一部例外はあるものの)鉾町の住民の男子であるか、または鉾町以外でも現役の囃子方の推薦を受けた子供に限られている。2011年(平成23年)現在では学区の統廃合で一部の学校は無くなってしまったが、昭和の時代には明倫小学校や本能小学校等の地元の男子児童で鉾の囃子方であることも普通に見られる光景であった。山鉾巡行時の山鉾の曳き手は町内の住人であったり、学生アルバイト、留学生、ボランテイアなど多岐に渡る。元々舁山(かきやま・担ぐ山の意味)には車輪がついておらず神輿のように肩に担いでいたが、都市化により担ぎ役となっていた力自慢の近隣農家が減少し担ぎ手の確保が困難となったため、1963年(昭和38年)に保昌山が初めて車輪を取り付け、郭巨山を最後に現在はすべて車輪付きとなっている。それでも巡行の要所では今でも山を担いで回転させるパフォーマンスが見られる。巡行終了後、各山鉾町に戻った山鉾は、即座に解体・収納される。巡行中に疫神を引き受けた山鉾を即座に封印するためという説がある。山は数時間で解体・収納が完了するが、鉾・曳山は2日間かけて解体・収納するところが多い。山鉾巡行に直接携わる人々は、囃子方の一部の例を除き、現在でもすべて男性のみで構成されている。こちらが本来の神社の中心行事。八坂神社から中御座神輿(なかござみこし)・東御座神輿(ひがしござみこし)・西御座神輿(にしござみこし)の大神輿3基に召した神々が各氏子町を通って渡る神事。7月10日に鴨川で神輿洗いの神事の行われた後、八坂神社の舞殿に神輿三基は安置される。7月15日の宵宮祭で神輿に御霊が移され、7月17日に神幸祭が行われて(山鉾巡行で浄められた)四条寺町にある御旅所(平時は土産物を売っている「四条センター」)に還幸祭の行われる7月24日まで神輿が滞在する。974年(天延2年)に御旅所(現在と所在地は異なる)を朝廷より賜り、行われるようになった。また、子供神輿である東若御座神輿も参加する。神幸祭は朝の雅やかな山鉾巡行とは打って変わって、夕刻より行われる神輿渡御は勇壮豪快で荒々しいのが特徴である。3基の大神輿を総勢1000人以上もの勇猛な男達により担ぎ揉まれて神輿が暴れ狂う様は圧巻である。いわゆる暴れ神輿というものである。神社からの宮出しを完了した3基の大神輿と1基の子供神輿は交差点の楼門前に集結しての揃い踏みにて神輿全基連合で勇壮に担ぎ上げられ練り暴れて、楼門前は歓声に涌きかえる。その後は神輿はそれぞれ別ルートにて御旅所へ向かう。朝に山鉾が動く美術館の名をほしいままに巡行した都大路を今度は神輿が勇壮に練り暴れながらの渡御を行い、四条寺町の御旅所宮入りにて神幸祭での最後の豪快な練りを披露する。山鉾巡行を祇園祭のハイライトと呼ぶならば、神輿渡御はまさしく祇園祭のクライマックスと呼ぶにふさわしいものである。神輿の御旅所駐輿(ちゅうれん)中に、誰とも言葉を交わすことなく一晩で七度、御旅所に参詣すれば、願いが叶うという。無言参りという。還幸祭は神輿と神々が御旅所から各氏子町を通り、祇園祭発祥の地である御供社(又旅社)に立ち寄って八坂神社へ還る神事。今度は山鉾町をも含めた八坂神社の広大な氏子地域を練り暴れながら八坂神社に宮入を行う。八坂神社での宮入では、舞殿の周囲を3周する拝殿回しを行い、神輿3基がここぞとばかりに力を振り絞りながらの勇壮豪快な最後の練りを披露する。舞殿前にて神輿の最後の暴れながらの揉みが終わり、神輿が舞殿に上げられ安置されると境内は消灯され漆黒の闇となり御霊遷しが行われ、神輿に乗せられた祭神が本殿に戻され、神輿渡御は静かに終了するのである。7月28日の神輿洗では神社に戻ったあと神輿は神輿庫に収められる。なお、祇園祭の神輿を担ぐ時の掛け声は「わっしょい」ではなく「ほいっと、ほいっと」である。慎重に担ぐ場面では「よーさー」に変わる。神輿を振らずに練り歩く際は「よいやっさーや」の掛け声も使われる。神輿を担ぐ前後には「よーいとせーの チャチャチャ×3」(中御座)、「よーさの チャチャチャ(拍手3回)×3、ヨー!」(東御座、西御座)の掛け声で手締めを行う。又、神輿を担ぐ時は通常時は肩に乗せるが、腕を伸ばして神輿を持ち上げた状態を「差し上げ」、差し上げた状態で右回りに神輿を回転させる事を「差し回し」と言う。1966年(昭和44年)に後祭の山鉾巡行が7月17日に統合されたあと、代替として初められた行事。約1000人からなる行列である。子供神輿を先導とし、山鉾の古い形態を現代に再現したものとされる花傘(傘鉾)のほか、獅子舞・鷺舞・田楽・万灯踊等の古典芸能や、子供太鼓・馬長(うまおさ)稚児・児武者(こむしゃ)等の多くの子供の参加、舞妓・芸妓や「ミスきもの」、花笠娘等の女性の参加も多いことが、山鉾巡行との最大の違いである。鷺舞や舞・芸姑は八坂神社に到着後、芸能の奉納を行う。八坂神社の氏子地域には4つの花街があるが2つの花街が交代で参加する。西暦奇数年は先斗町が歌舞伎踊り・祇園東が小町踊りを、偶数年は宮川町がコンチキ音頭・祇園甲部が雀踊りを奉納する。京都織物卸商業組合が中心となって、八坂神社の氏子地域にある4つの花街のお茶屋組合、各種行事の保存会や八坂神社の諸組織、山鉾保存会などが共同で「花笠連合会」を作って行っている行事である。当初の巡行コースは八坂神社〜四条河原町〜河原町御池〜寺町御池〜四条寺町〜八坂神社であった。2014年(平成26年)から後祭の山鉾巡行が復活したあとも継続され、巡行ルートを変更し、八坂神社〜四条寺町〜寺町御池〜河原町御池〜四条河原町〜八坂神社となった。寺町御池から四条河原町の間は後祭山鉾巡行のあとに連続して巡行するようになる。本社神輿の3基については元禄年間ごろより三条台村の有志が三条台若中を組織し神輿渡御を行ったものに由来するが、後に中御座神輿(三若神輿)を除く2基の神輿渡御は他の地域により行うようになった。2000年(平成12年)に中御座神輿(三若神輿)の金箔が貼り直されたほか、翌年には東御座神輿(四若神輿)、さらにその翌年に西御座神輿(錦神輿)もそれぞれ金箔が新調された。山鉾はその形から5つに分類される。数の多い順に、「舁山(かきやま)」「鉾(ほこ)」「曳山(ひきやま)」「船鉾(ふねほこ)」「傘鉾(かさほこ)」である。2008年(平成20年)の山鉾巡行の際、河原町御池の辻回し手前地点で計測された山鉾の重量(懸装品・乗員を含む)は月鉾で12トン弱。その他の鉾・曳山は10トン前後。曳山としては小型の岩戸山で8トン余り。舁山は最重量が蟷螂山で1.2トン、最軽量が占出山で510Kgほどであった。傘鉾は台車を含めて400Kgほどのの重量であった。胴体は巡行の時だけ最も高級な懸装品で飾られ、宵山期間は略式の懸装品に代えるか、全く何も飾らず骨組みのままの場合がある。山の御神体人形や懸装品は宵山期間は町会所内に飾られる。悪天候の場合は懸装品をつけず、定紋入りの雨除けの覆いを回し、人形や神体を取り外して略式の巡行とすることもある。山鉾の源流は大嘗祭で曳かれていた標山であろうと考えられている。御神体人形(祠に御神体を祀る所もある)を乗せ、それによって中国や日本の故事・謡曲などの一場面を見せる趣向を主とし(町内に祀られている神仏を乗せる所もある)、人が舁いて(担いで)巡行する(現在は人出不足を理由に補助輪を付けて押している)。御神体人形には橋弁慶山の御神体を除き朱傘が掛けられるが、郭巨山のみ油紙の屋根が掛けられる。山の上には布で覆った籠を伏せて置き、「山」に見立て、そこから松(真松という・太子山のみ杉)を立てて疫神の依代とする。山には前面に穴をあけて洞に見立て、中に御神体人形等を入れることもある。真松には山ごとに異なる数の鈴を吊るす事が多いが、月・日に見立てた金属板を吊るす山もある。孟宗山は積雪を表現した綿を松に乗せており、保昌山は宵山期間に町会所で販売され願い事を書いて奉納された恋愛成就の絵馬が多数吊るされる。山の胴体には、染織品・刺繍・タペストリー等の懸装品で飾られる。なお、上に山を作らず、真松も立てない橋弁慶山・浄妙山・蟷螂山は厳密には「屋台」という形式になる。真木(しんぎ)という中心の柱を疫神の依代とし(これ自体がいわゆる“鉾”)、それが大型化して乗り物となり、稚児や囃子方を乗せる形となったものである。真木の先端には「鉾頭」という鉾ごとに異なる形のシンボルが取り付けられている。その下方には「天王人形」という小さな御神体人形が取り付けられている。その下方には「しゃぐま」という縄で作った突起状のものが作られ、鉾により数が決まっている。しゃぐまの中間に榊が取り付けられる。多くの鉾は真木の両側に突き出るように取り付けられるが、函谷鉾のみ円形に取り付けられる。大屋根は千鳥破風状に作られるが菊水鉾のみ唐破風である。乗員搭乗部は50人ほどが詰めあって乗り込め、囃子方などが乗り込む。最前部には長刀鉾のみ生稚児が、それ以外の鉾は稚児人形が乗る。胴体は懸装品で飾られる。胴体の下方には「石持」という巨大な角材がある。石持により鉾の重心を下げている。車輪にはクッションに相当するものがなく、縄で結ぶだけの柔構造により衝撃を少しは吸収している。乗員搭乗部の床には蓋があり、開けると基礎部の内部に出ることができ、巡行中に鉾の乗り降りをする急用ができた際に使われる。屋根にも穴が開けられており、屋根方の乗り降りに使われる。いずれも前祭の長刀鉾・函谷鉾・鶏鉾・月鉾・菊水鉾・放下鉾がこれに該当する。鉾同様に車輪を付け綱で引いて動かし、鉾のように囃子方も乗せている。鉾との最大の違いは屋根の上に舁山同様に真松を立てていることである。後祭の曳山の松には木彫の鳥が取り付けられる。初期の曳山には屋根がなく、大きめの舁山に車輪が付いているような形で、山の上は舁山と同じように御神体人形にちなむ一場面を見せる趣向であった。囃子方を雨や夏の日差しから守るため、簡略な日除けを設けていたが、寛政年間(1789年〜1801年)に、岩戸山が鉾と同形の屋根付きに改造されたのをきっかけに、他の曳山も次々と屋根付きに改造された。現在の曳山は鉾同様の姿であるが、巡行中に鉾のように稚児人形を乗せず、御神体人形を乗員搭乗部に乗せている。岩戸山は屋根の上にも御神体人形を安置する。前祭の岩戸山。後祭の北観音山・南観音山と後祭の休み山の鷹山がこれに該当する。鉾というが真木を立てない点で他の鉾と一線を画し、形が船という独特の構造をしている。独特な形の複雑な屋根を持つ。巡行中は鉾上に御神体人形を安置するところは鉾よりも曳山に近いが、真松を持たないので「山」ではない。船体軸部の縦横方向にX状に交差した二重の桔木(はねぎ)を設けて衝撃を吸収し、巡行中の変形・転倒を防ぐ合理的な構造になっている。江戸時代前半までは長い帆柱を立てたといわれ、今はその代わりとなる竿に吹流しをつけ、船尾に神紋を染め抜いた旗をかかげる。前祭の船鉾。後祭の大船鉾がこれに該当する。踊りの列や囃子方を有し、それらが大きな傘である鉾と一体で歩く行列である。鉾に乗ることはできないが鉾の古い形態と言われる。但し、綾傘鉾は北観音山の旧台車を譲り受け、1834年(天保5年)から1864年(元治元年)まで「曳鉾」型で巡行に加わっていた時期がある(踊り手は歩行)。また、綾傘鉾には稚児6名も参加するが、長刀鉾の稚児と異なり地上を歩く。前祭の綾傘鉾・四条傘鉾がこれに該当する。※印は、くじ取らず。度重なる大火や各山鉾町の事情によって現在は巡行していないが、宵山期間に残された御神体や宝物等を展示する「居祭」を行う山鉾。大火で木造部や宝物を焼失したり、町の借金返済のために宝物を売却したりして、巡行ができなくなり休山が発生する。なお、かつて存在したことが記録に残されているだけで、居祭を行っていない山(御射山など)は休み山とは言わない。かつては焼山(やけやま)と言った。第二次世界大戦後、菊水鉾・綾傘鉾・蟷螂山・四条傘鉾・大船鉾が相次ぎ復興したことにより現在は2つの山だけが残されている。太字は「くじ取らず」。2013年(平成25年)までの先祭と後祭の合同巡行時は、先祭の行列の終了後に引き続いて後祭の巡行を行っていた。そのため、後祭の山鉾が全体の23番目より前に巡行することはなく、逆に先祭の山鉾の巡行順が全体の24番目以降になることもなかった。最近の例を一覧表によって示せば次の通り。(山鉾の頭文字を表示、[ ]はくじ取らず)くじは全ての山鉾が引くわけでなく、くじを引かないでも予め順番が決まっているものもある。これを「くじ取らず」という。時代と共にその数と順序に変遷があるが、現在「前祭」に5基、「後祭」に4基のくじ取らずがある。前祭においては、先頭の長刀鉾、5番目の函谷鉾、21番目の放下鉾、22番目の岩戸山、23番目の船鉾(前祭巡行の最後)、後祭においては、先頭の橋弁慶山、2番目の北観音山、6番目の南観音山、10番目の大船鉾(後祭巡行の最後)が「くじ取らず」である。後祭は従来、先頭の橋弁慶山、最後尾の大船鉾、その一つ手前の鷹山だけがくじ取らずであったが、隔年で出る申し合わせだった2基の観音山の内、南観音山が大火の被害甚だしく不出となった折、北観音山が連続して巡行に出で、その後南観音山が復帰した後も両観音山は同時に参加することとなった1872年(明治5年)以降、先頭に北観音山(必然的に橋弁慶山は2番に後退)、最後尾に南観音山を配置し、これらをくじ取らずに加えた。しかし、142年ぶりに大船鉾が唐櫃で巡行に復帰した2012年(平成24年)に、くじ取らずの順序の見直しがなされ、後祭の先頭は140年ぶりに橋弁慶山に戻り、2番目が北観音山、最後だった南観音山は6番目に移り、かつて後祭の最後に巡行していた大船鉾が、復活後も最終に巡行することになった。将来鷹山が復活した時は、大船鉾の直前を行くくじ取らずとなる予定である。また、くじ取らずではないものの、限られた巡行順の中でのみくじによって位置を入れ替えるものもある。すなわち、月鉾・菊水鉾・鶏鉾の3基の鉾は巡行順が9番目・13番目・17番目と決められており、仮に「鉾1番」のくじだと全体の9番目を行く事になる。同様に綾傘鉾・四条傘鉾の2つの「傘鉾」は、巡行順が全体の7番目と15番目と決められており、「傘鉾1番」のくじだと全体の7番目ということになる。傘鉾の場合は古来舁山と同じ扱いでくじを引き、その度不規則に位置を変える慣わしであったが、1996年(平成8年)に「傘鉾」のくじが新設され、以来現在の形となった。以上よりくじ順の実際を整理すると、例えば「山7番」を引いた場合でいえば、先頭を行く長刀鉾の次に「山1番」の舁山が全体でいう2番めに巡行し、その後にくじ取らずの函谷鉾と「鉾1番」の鉾・「傘鉾1番」の傘鉾が入るため、全体では11番目の巡行ということになる。山鉾の運営基地となる建物。山鉾町の事務所として山鉾の収納、御神体の安置、祇園囃子の稽古場、懸装品の展観、授与物の頒布など、さまざまな用途に使われる。普通の町家と並んで存在するものは「表棟型町会所」と分類され、長刀鉾・月鉾・船鉾・放下鉾・北観音山・南観音山・山伏山・橋弁慶山・保昌山・郭巨山に古式なものが残る。大型の鉾・曳山の場合は、奥に立派な土蔵を備えている場合が多い。また表通りから狭い露地を通った奥に会所があるものは「奥棟型町会所」と分類され、舁山の町に多い。古式なものは役行者山・八幡山・鯉山・霰天神山・孟宗山・鈴鹿山・占出山の町内にある。祭礼期間以外は適宜な店子に賃貸され、商家として利用された。江戸時代には髪結床となっていた場合も多い。明治維新以後、町会所が所有者不明として収公され、山鉾の運営に窮することになったり、会所の所有権をめぐる争いが長引いて山鉾が出せなくなった事例もある。長期にわたる中絶の後に復興した菊水鉾では、町内の金剛能楽堂を会所の代わりにしていたが、能楽堂の移転によって、跡地に建設されたマンションの2階を町が購入し、会所として利用している。また最近復興した大船鉾では、旧町会所に近い古い町家を購入し、改造して町会所とする計画が進んでいる。なお、戦後の変革で町会所を失った山鉾のために、京都市は1970年(昭和45年)、八坂神社に隣接する円山公園の一角に「祇園祭山鉾館」を設け、山鉾の収納庫として利用されている。ここには岩戸山・孟宗山・黒主山・浄妙山・太子山・油天神山・郭巨山・伯牙山・芦刈山・木賊山が収納されている(展示・見学機能はない)。山鉾の運営を支えるために、豊臣政権下(1583年(天正11年)〜)で制定された制度。山鉾町周辺の特定の町や土地を指定し、課税に準じて各山鉾の運営資金「地ノ口米」を徴収した。町々への賦課は、最高は三石余り、最低は一斗以下とばらつきが大きいが、早くから金納になっていたものと思われる。寄町は山鉾の運営には直接かかわらないが、山鉾町より粽などが贈られた。1872年(明治5年)、寄町制度が廃止されたため、祇園祭を維持する目的で、八坂神社の氏子を母体とする「清々講社」が結成され、神輿渡御・山鉾巡行を経済的に後援することになった。寄町制度廃止後も、山鉾町との関係を保っている旧寄町もある。寄町一覧(【】内は山鉾町)祇園祭には稚児が参加する。現在では唯一、生身の稚児(生稚児)が乗る。かつては船鉾・大船鉾を除くすべての鉾に10歳前後の少年が稚児として乗っていたが、現在は長刀鉾以外は人形になっている。2000万円とも言われる費用がかかるため、京都市内の資産家等の家庭から禿(かむろ)と呼ばれる家来役の少年2名と共に選ばれ、祭りの年の6月頃に発表される。非常に費用がかかり誰でも稚児になることが困難であるため、特定の資産家に役割が集中し、稚児と禿が兄弟であったり、稚児の親も何十年も前に稚児であったり、兄弟が数年をおいて稚児になったりする例がある。このような例は葵祭の斎王代役にも見られる。かつては長刀鉾町の町内から稚児は選ばれたが、現在は大抵町外の資産家の子息であるため、形式的に町内の代表と養子縁組をする。7月1日の「お千度」(おせんど)を皮切りに数多くの行事に舞台化粧と同様の白塗り化粧で登場、7月13日午前中の「稚児社参」では狩衣に金の烏帽子で登場、「正五位少将」・十万石大名の位を授かる。これは高い鉾の上から貴人を見下ろしても不遜にならないようにするためと言われる。これ以降は神の使いとされ、食事の用意などに女子の手を一切借りず、食事も他の人とは別の火で作ったものを摂る。また、公式には地面を一切歩かないことになっており、公式行事の際には人前では絶対に地上を歩かない。巡行当日に長刀鉾に乗降する際は男性の肩に乗せられて長刀鉾に取り付けられた梯子で乗降する。ただし、14日の古式一里塚松飾式(中之町御供)は八坂神社側の公式行事でないため、稚児・禿は薄化粧で現れ、かつ稚児社参後であるが地上を歩く。7月17日の山鉾巡行では金襴の振袖に紋織りの袴、鳳凰の天冠で登場、禿を両脇に従え、鉾の中央で稚児舞を披露する。巡行後はすぐにハイヤーで八坂神社に向かい、正五位少将・十万石大名の位を返上する。お位返しと呼ばれる儀式である。正副6人出る。社参と巡行が主な仕事。巡行では各自朱傘を差しかけられ、一列になって囃子方の前を歩く。近世以前の画像資料によっては強力の肩に担われているものも見られるが、現在は終始徒歩で参列する。7月7日の稚児社参の時に「宣状」を受けて神の使いの認証を受ける。かつては綾傘鉾と同様に稚児が出たが、現在は途絶えている。道中で踊る児童らは傘鉾特有の棒振り囃子をする踊り方であって、稚児ではない。綾戸国中神社(南区久世上久世町)の氏子から毎年2人が選ばれる。こちらも、舞台化粧と同様の白塗り化粧で登場、額に黒と白の点を付ける。7月13日午後の「稚児社参」では2名揃って白の狩衣に紫紋入りの括り袴、金の烏帽子で登場する。神幸祭・還幸祭では1名ずつ登場、衣装は同じだが稚児天冠を被り、胸に国中神社の御神体である木彫りの馬の首(駒形)を胸に掛け、馬に乗って素戔嗚尊(すさのおのみこと)の和御魂(にぎみたま)が鎮まる中御座神輿(なかござみこし)の先導を務める。神幸祭に先立ち八坂神社で行われる神事により駒形稚児は素戔嗚尊の荒御魂(あらみたま)の鎮まる御神体と一体となり、稚児自身が神の化身として役目を終えるまで一切地に足を着けずに務める(長刀鉾の稚児は神の使いであり、化身ではない)。通常は神社の境内では長刀鉾の稚児はもとより皇族であっても下馬しなければならない(皇族下馬)が、久世駒形稚児は八坂神社境内に入っても下馬せず騎馬のまま本殿に乗りつける。お迎え提灯と花傘巡行には白塗り化粧をしてカラフルな水干を着た少年3名が馬長稚児(うまおさちご)として馬に乗って登場する。祇園祭の中では様々な古典芸能も上演される。鷺舞(さぎまい)は白絹の羽を纏い、雌雄の鷺に扮した成人男性の舞い手2人が囃子に合わせて優雅に舞い踊る郷土芸能。約600年前に存在した「笠鷺鉾」の周りで舞われていたが、江戸時代中期に途絶えた。1956年(昭和31年)に鷺舞保存会が、祇園祭の鷺舞を伝えていた島根県津和野町から舞を逆輸入して復活させ、経費を氏子組織(清々講社)が負担して八坂神社境内で奉納されていた。鷺舞は山口市、潟上市にもある。浅草寺(台東区)の「白鷺の舞」も、これを参考にした。通常は、宵山の7月16日と山鉾巡行・神幸祭の7月17日、花傘巡行・還幸祭の7月24日の3日間八坂神社境内で奉納されるが、2006年(平成18年)以降は鷺舞保存会と神社、氏子組織の対立が深まったために行われず、代りに、次項の子鷺踊りが奉納された。上記の鷺舞をアレンジした新しい郷土芸能。上記と同様の白絹の羽を纏い、白塗り化粧をした小学生位の少年少女6名が優雅に可憐に舞い踊る。通常は、7月10日のお迎え提灯、7月16日の宵宮神賑奉納神事と7月24日の花傘巡行に登場、2006年(平成18年)以降は上記の事情により大人の鷺舞の代役を務めるようになった。子鷺踊りは津和野町、潟上市にもある。元禄時代に起源を持つ少女の踊り。近代に入って中絶したが、1962年(昭和37年)に白峯神宮で復活した。祇園祭では、7月10日のお迎え提灯では小学生位の少女が、7月24日の花傘巡行ではの芸舞妓が、いずれも元禄風の衣装・髪型・白塗り化粧で、典雅に可憐に舞い踊る。1957年(昭和32年)に祇園祭復活10周年を記念して創作。7月10日のお迎え提灯、7月16日の宵宮神賑奉納神事に、一般的なお揃いの浴衣を着て白塗り化粧をした小学生位の少女多数が可憐に舞い踊る。石見神楽は、石見地方に伝わるエンターテインメント性の高い神楽。1973年(昭和48年)以降毎年、通常7月16日の宵山に八坂神社境内で奉納され、御祭神・スサノオのヤマタノオロチ退治をはじめ八坂神社や京都にも所縁ある神話劇が演じられる。当時の八坂神社の名誉宮司作詞の歌詞を元に1968年(昭和43年)に創作。7月24日の花傘巡行に、一般的なお揃いの浴衣を着て白塗り化粧をした小学生位の少女多数が可憐に舞い踊る。市内には花街(はなまち)が6か所あるが、その内の神社に近い4か所のうち、2か所ずつが交互で花傘巡行で踊りを披露する。2015年(平成27年)は花傘巡行50周年を記念して、すべての花街が参加した。「祇園田楽」は、平安時代の平清盛の田楽奉納の故事に基づいて復元された。1978年(昭和53年)から帝塚山大学の学生同好会「田楽座」を主体とし(一部は京都大学・同志社大学の学生も参加)、おもに女子学生により演じられ、花傘巡行にも参加していたが、2006年(平成28年)の祭礼を最後に断絶している。7月24日の花傘巡行に久世六斎保存会が参加している。1974年(昭和49年)まで、神輿渡御にあたって六原弓矢町が弦召(つるめそ)という武者行列を出していた。甲冑をまとい、頬当をつけて顔を隠し、腰に綿入りの太い紐を結んだ姿で、中世まで祇園社の役人として洛中に威をふるった犬神人の伝統を継承したものであった。戦後は、地元の旧家の中学生ぐらいの世代の男子が参加していた。現在は神輿渡御期間に、地元の旧家で甲冑の陳列が行なわれている。江戸時代初期まで女性が参加していたことを示す資料が残っているが、江戸時代中期以降は女人禁制とされてきた。これは女人禁制を解いて女性が鉾に登った際に鉾が倒れて怪我人が出たり巡行不可能になった事が何度かあったためとされる。現在も、ほとんどの山鉾は巡行時の搭乗者や曳き手の女人禁制を守っている。宵山期間の鉾の拝観搭乗は女人禁制の解除が進み、現在は長刀鉾と放下鉾を除き女性も搭乗できる。また、女性の参加を希望する山鉾町(保存会)がいくつかあり、2001年(平成13年)に各山鉾町の判断で祇園祭山鉾連合会に届け出るという形で女性の参加を容認する方針が決まり、南観音山で2名・函谷鉾で3名の女性囃子方の巡行参加が認められた。なお、女性のみによる祇園祭参加をめざして、1996年(平成8年)に「平成女鉾清音会(へいせいおんなぼこさやねかい)」が結成され、囃子方ばかりでなく自前の鉾を建造するなど、活発な活動を続けている。しかし「平成女鉾」の山鉾巡行への参加は、前例のない新規の鉾であることや、地元となる町内会・寄町がないことなど、大きなハードルが横たわっており、実現は難しそうである。祇園祭のうち、とりわけ(広義の)山車、囃子といった山鉾巡行に関する要素は、これが都において町衆・町人階層が執り行う最も華やかな祭礼行事であるところから、その強い影響が全国各地の祭礼、とりわけ城下町などの町人が行う祭礼に広く伝播している。また、祇園祭という名称自体も、同祭神である牛頭天王やスサノオを祀る各地の社寺祭礼の名称として、また、単に夏祭りの名称としても全国各地で広く用いられている。同一祭神を祭る祭礼や、祇園祭の影響がみられる祭礼を網羅的にここに列挙することは、その数があまりにも多すぎて現実的ではないので、ここでは、祇園祭という名称をもつ各地の祭礼の一部、および明らかに祇園祭の極めて強い影響を受けている各地の祭礼の一部を例示することとする。牛頭天王、スサノオを祀る祭礼については天王祭も参照のこと。また、祇園祭の具体的影響については、各地の祭礼の記事を参照のこと。

出典:wikipedia

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