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NTV紅白歌のベストテン

『NTV紅白歌のベストテン』(エヌティーヴィーこうはくうたのベストテン)は、1969年10月6日から1981年3月23日まで、日本テレビで放送された歌謡番組。1969年10月6日放送開始。毎週月曜20:00 - 20:56放送。「『NHK紅白歌合戦』を毎週お茶の間に」という発想から始まり、「紅白」と、言わゆる「ベストテン」形式の歌謡番組を組み合わせた、当時としては画期的かつ異色とも言える歌謡番組だった。また、2か月前の8月4日に放送開始したTBSの「水戸黄門」が高視聴率だったことから、それに対抗するという意味もあった。放送形式は原則として公開生放送(東京・渋谷公会堂。渋谷公会堂で定着するまでは、後楽園ホールを中心に、関東近辺の公会堂を持ち回りしていた。まれに名古屋・大阪から公開放送を行ったこともあった)。この番組は、クロスネット局で月曜20時に日本テレビが選択される原因となった番組と言われる。本家「紅白」同様、、に分かれて対決を行う。司会者は、それぞれのキャプテンを務める形式。番組にオープニングテーマ曲(エンディングでも使われた)がある。オープニングの流れは、幕が閉まった状態で双方のキャプテンが登場、その回のテーマに関するショートコントを行い、オチが着いた所でタイトルコール(下記)をして幕を開き、出場歌手がボールを投げながらテーマ曲を歌うというものであった。しかし末期(が大場久美子の頃)からはコントは廃止され、徳光和夫(当時局アナ)のアナウンスと共に幕を開け、テーマ曲も後半は歌われなくなり、提供コメントとなった。そして最末期(榊原郁恵時代)にはアナウンスは廃止され、テーマ曲は演奏のみになり、終わった所でキャプテンが登場する様になった。は堺正章が番組終了まで務めた。については最初は水前寺清子が務めていたが、1970年にスタートした「ありがとう」(TBS)への出演や地方公演、テレビ番組出演の関係でスケジュール調整が困難となり、程なく降板。その後暫く決まったキャプテンはおかれず、毎週出場歌手から1人がキャプテンを務めていた。その後は、今陽子、岡崎友紀らが紅組キャプテンを担当した。水前寺は番組開始前年である1968年の『第19回NHK紅白歌合戦』でを務めているが、この時の司会ぶりの評価が本番組起用に繋がった。一方で翌1969年の『第20回NHK紅白歌合戦』でも水前寺はの有力候補に挙がったが、本番組に起用されたことでそちらの起用を見送られるという事態も発生している(堺についても同回のの候補に挙がっていたという)。ただし水前寺は本番組を降板した後、本家紅白のを3回務めている(堺も本番組終了後、3回に起用されている)。1978年10月2日の放送分からは、音声がステレオ放送になっている。これは同年9月28日、日本テレビが日本で初めて音声多重放送の実用化試験放送を開始したことに伴うもので、テレビの音楽番組でのステレオ化は最も早かった方である(ちなみに、フジテレビ『夜のヒットスタジオ』も、同年10月2日にステレオ化されている)。主な出演歌手はアイドルが中心となり、演歌がそれに続いた。フォーク、ロック、ニューミュージックは稀であった。では「新御三家」の野口五郎、郷ひろみ、西城秀樹が毎週交代で出演し、演歌では五木ひろしが常連であった。はこれに対抗して「花の中三トリオ」の森昌子、桜田淳子、山口百恵が出演し、演歌では八代亜紀が常連となっていた。和田アキ子の出演も意外と多い。出演歌手の本性を暴く『ウソ発見器』や、VSで他の歌手に扮装しての物まね対決なども見所であった。さらに本家「紅白」同様、紅白両軍の応援合戦もあり、ダンスやバンド演奏、物真似芸などその演目は多岐に渡った<。また毎年夏には、東京サマーランドなどで『プール大会』(これに限り昼間にVTR収録)が行われ、歌の傍ら、プール上の一本橋での「あっち向いてホイ」対決や、かつて毎日放送制作・NETテレビ系列で放送した「ダイビングクイズ」を紅白歌手の対戦で行う(クイズの内容は曲名当て)などの趣向も挟み込まれた。毎年12月の最終週には「あなたが選ぶ紅白歌合戦」という企画を行った。やはり本家「紅白」を多分に意識して「NHKの紅白はヒット曲もない人を選んでいますが合点行きませんね。こちらはあくまで今年活躍した歌手をそろえました」と、制作側が「紅白に対する造反番組」とまで言い切った企画であった。1975年頃から毎年7月頃に、上半期にデビューした新人歌手が集合し、点数で評価され、合格点に満たないと歌えない企画があった。点数はネット局の地区別に集計され3度のチャンスがあり、1巡目で合格する歌手もいれば、最後まで歌えずじまいになる歌手も出る残酷さで、日本テレビ音楽祭の前哨戦でもあった。また中学校・高等学校の修学旅行の定番コースになったりもした。その際はオープニングでキャプテンが観覧に来た学校を紹介し、その学校の生徒がリアクションをとるのが定番だった(これについては後継番組の「ザ・トップテン」や「歌のトップテン」でも行っていた)。ただ、既に同じ月曜日に1968年11月放送開始の人気歌謡番組「夜のヒットスタジオ」(フジテレビ)があり、当代の人気歌手や大物は「夜ヒット」の出演を優先させることが多かった事や、1973年の「ナベプロ事件」(後述)のために、出場歌手の調達に相当苦労しており、このことについては後年、堺正章は「出演者ががら空きになってしまい、3曲歌ったことも時折あった」と回顧している。番組の最後で日テレスタジオのいわゆる「ベストテン本部」から発表される得点発表は系列局ごとに電話で行われ(いわゆる「電話審査員」)、支持する系列局が多いチームが優勝となり、くす玉が割られて、紙吹雪と風船と紙テープが降り、キャプテンに優勝カップが手渡される。そのベストテン本部には、徳光和夫(この番組以降バラエティ路線に転向する)、福留功男などが担当していた。なお系列局は、時期によってその数が異なっており、時によっては引き分けになる数(偶数)になる時も有った。また、毎回の系列局代表の電話審査員全員には番組スポンサー(花王石鹸・江崎グリコ・三菱鉛筆などから1社)から自社製品が贈られた。この流れは後継番組の「ザ・トップテン」「歌のトップテン」でも視聴者プレゼントとして受け継がれた(ただし以降は葉書で曲をリクエストした人の中から、抽選で30人を選出)。番組末期はくす玉割りが廃止され、出場歌手のバックに立つザ・バーズのメンバー が、優勝決定時にポンポン(紅組が赤、白組が白)を高々と上げる演出となった。決定後はスタッフロールと共に番組テーマ曲が流れる中、負けたチームにいたバーズのメンバーも一緒にポンポンを振り回し、最後にカメラがステージから客席へとズームアウトした後「紅白歌のベストテン また来週」(年内最後の放送は「また来年」)というテロップが画面下部に表示され終了していた。その他、小林完吾が「ウソ発見器」コーナーのナレーターを担当していた(番組内では、小林アナを「Mr.コンピュータ」と呼称)。また、初期には作曲家・山本直純が総合司会(ベストテン本部担当)兼審査判定役として出演していた。(&)「皆さーん、こんばんはーっ!!」(観客)「こんばんはーっ!!」()「それではそろそろまいりましょうかー!」()「NTV(エヌティーヴィー)」()「紅白歌の」(&&観客)「ベストテーン!!」()「あっ、さてぇ〜」これら3セリフは、堺・大場時代(1979年以降)からは言わなくなったが、後年の「今夜復活!!」(後述)の時も使われた。尚、徳光がベストテン本部の担当となって以降は、女性の進行役は固定されず、都内に在住の一般応募の女性や当時日本テレビに在籍していた女性アナウンサー(石川牧子、楠田枝里子など)が週替りで担当した。1973年、この番組と同じ時間帯に渡辺プロダクションがNETテレビ(現・テレビ朝日)とタッグを組み、新規に『スター・オン・ステージ あなたならOK!』を水面下で計画し、それをぶつけてきた(これは、渡辺プロ以外の芸能プロダクションへも人気スターを供給し、芸能界におけるテレビ局優位の端緒となった日本テレビ制作『スター誕生!』に対抗する意図もあった)。これを知った日テレの制作局次長、井原高忠(当時の同局の音楽・バラエティ番組制作部門の責任者)は渡辺プロと話し合いをしたが、渡辺プロ側は「それじゃあ、お宅の番組を打ち切るか時間を移動させればいいじゃないか。」 と主張し、さらに日テレサイドに対して、「放送時間をずらさないのであれば今後、ベストテンにうちのタレントは出演させない。」と通告してきた。日テレは、渡辺プロ側の要求を受け入れて『ベストテン』の放送時間帯を移動するか、この挑戦を受けて立つかの選択を迫られた。井原は後者を選択し、真っ向からこの挑戦を受けた。なお、渡辺プロ側には、当時NET系列局だった毎日放送の社長、高橋信三に『あなたならOK』の放送枠の手配の協力を仰ぎ、再三にわたり調整した結果確保できたのがNET系列月曜20時枠だったという経緯からこれ以上枠を動かせなくなり、またこの当時は、音楽・バラエティ番組で同じ所属事務所のタレントを同一時間帯の表裏番組に出演させることを原則として避ける放送業界の習慣が残っていたことから、日テレ側が「ベストテン」の枠を移動するか渡辺プロ側が「ベストテン」からタレント引上げるかのどちらかしか選択肢がなくなった結果前述の要求へと至り、渡辺晋と井原との個人的な繋がりや、渡辺プロと日テレとの関係をも犠牲にせざるを得なくなったという事情があった。日テレは渡辺プロとの共同制作の金曜日午後10時からの新番組の予定を白紙にし、その時間帯を使い『金曜10時!うわさのチャンネル!!』を開始した。この番組には渡辺プロのタレントを一切出演させなかったが、視聴率30%台を記録することもあった。これに対し『あなたならOK!』は低視聴率で、番組そのものも半年でレギュラー番組としては終了してしまった。なお、この間も『TVジョッキー』や『特ダネ登場!?』など井原が関わっていなかったバラエティ番組、読売テレビなどの系列局が制作した番組には、引き続き渡辺プロのタレントが出演していた他、渡辺プロのニューミュージック部門『NON STOPプロジェクト』所属歌手も引き続き出演していた。また、渡辺プロ傘下の渡辺企画と日テレは『前略おふくろ様』等のテレビドラマを共同制作していた。こうした形で渡辺プロは日テレとの関係を維持するための一定の配慮を行っていた。毎年、日本歌謡大賞の翌週の放送回に同賞受賞者がゲスト出演することが恒例で、沢田研二(渡辺プロ所属)は1977年に大賞を受賞した「勝手にしやがれ」で、1980年に「酒場でDABADA」(ともに作詞は阿久悠)で例外的に出演している。この影響か、『速報!歌の大辞テン』など後年の日テレ系番組で1970年代後半の渡辺プロ所属歌手の映像を放送する際には、同社が著作権を保有する他局向け番組素材を提供していた。番組末期の1980年10月13日は、特別番組として『山口百恵スペシャル ザ・ラスト・ソング』が放送される。山口の他、ゲスト出演者は「花の中三トリオ」の森・桜田、「新御三家」の野口・郷・西城、さらに当番組の司会者の徳光・堺・榊原らが登場。山口は番組の冒頭で「秋桜」、最後に「さよならの向う側」を歌唱。そしてエンディングでは、ゲスト出演者らが「ザ・ラストソング」(作詞:桜田淳子、作曲:野口五郎)を合唱したが、山口は同年10月5日に開催した日本武道館のファイナルコンサート等で見せた涙は一切流さず、観客らに向い晴れやかな笑顔でサラリと手を振って、秋桜の花道の向こうに消えていった。この特番が、山口百恵の現役歌手として最後のテレビ生出演となり、山口は2日後の10月15日をもって芸能界を引退した。1981年3月23日を以て終了、約12年に亘る歴史に幕を下ろし、翌週からの新番組『ザ・トップテン』に引き継がれた。白組キャプテンとして約12年出演した堺と、最後の1年間紅組キャプテンを担当した榊原は、そのまま『ザ・トップテン』の司会として残ることになる。進行担当の徳光も『ザ・トップテン』のコーナー出演者で残り、その後は『歌のトップテン』『歌のワイド90分!』『速報!歌の大辞テン』といった日本テレビの歌番組の司会を務めた。番組終了から13年後の1994年3月31日には『木曜スペシャル』の最終回で「今夜復活・紅白歌のベストテン」と銘打ち、一夜限りの復活を遂げた。その事に関しては、また、その前年の1993年12月31日放送の『スーパー電波バザール 年越しジャンボ同窓会』では、「ウソ発見器」がダウンタウンのコーナー司会で1回だけの復活を果たした(なお質問は、小林完吾のナレーションでなく、ダウンタウンが担当)。1992年の『24時間テレビ 「愛は地球を救う」』番宣CMでは、同年のテーマが「愛の歌声は地球を救う」であったことから番組パーソナリティのダウンタウン・松本人志が『ベストテン』のテーマ曲を口ずさみ、相方の浜田雅功に「最高!」と投げやりな口調でツッコミを入れられていた。2014年8月17日よりCS放送・歌謡ポップスチャンネルにて再放送(日曜日21:00 - 22:00)。堺・榊原時代の1981年の放送分からのものを放送している。なお放送では、「放送回数」「生放送」「また来週」のテロップはそのまま放送するが、提供クレジットと「電話審査員への賞品の紹介」は全て省かれている。当番組の映像を収録した商品は以下のものがある。NTV紅白歌のベストテン - 歌謡ポップスチャンネル

出典:wikipedia

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