前田 真三(まえだ しんぞう、1922年6月3日 - 1998年11月21日)は、日本の風景写真家である。上高地や奥三河など、日本各地の風景を撮影するが、中でも北海道上川郡美瑛町を中心にした丘の風景の作品で知られ、同町に自身の作品を展示する写真ギャラリー「拓真館(たくしんかん)」を設立した。本項では、美瑛での写真活動を中心に述べる。前田真三が写真活動のために1967年に設立した会社の社名「丹渓」は、前田真三と南アルプスにある「丹渓山荘」(長野県伊那市)との親交から付けられたとされる。この社名から、前田真三の作風を「丹渓調」と呼ぶことがある。「風景写真は出合いの瞬間が大切」を持論としている。風景を撮影する際に、とかく一カ所に留まって天候や光線の状態が良くなる時を待ちながらシャッターチャンスをうかがうという消極的な姿勢になりがちなことに対し、前田真三の場合は、風景に出合った瞬間に手際よく写してゆくという、積極的に風景を求めてゆく姿勢で取り組んでいる。「風景はただ眺めていても、見えてはこない。積極的に風景に働きかけて、はじめて見えてくる」といい、そのためには「とにかくよく見、よく撮ること」「見るうちに撮るうちに、次第に風景が自ずと見出せるようになるはずだ」と論じている。作品を観た人からの「ずいぶん時間をかけて一枚の写真を撮るんでしょうね」との問いに対し、前田真三が「長い時間がかかっていますよ。私の人生と同じだけの」と答えるようにしているのは、この作品にたどり着くまでに多くの写真を撮り込んで経験を重ねてきたことを表しているのである。また、「風景は目で見た通りに撮る」ことも持論としている。そのために原則として、「目線で撮る」「手前から遠景まで全てにピントを合わせる」の2点を基本にしている。これは、人間が肉眼で日常見ている風景が、目線で見て、全部にピントが合っている風景であり、写真にしてもそれが一番自然に見えるからである。前田真三が写真活動を始めた当初は、美瑛について全く知らなかった。東京都港区北青山に株式会社丹渓を設立してから4年後の1971年3月に、自動車による単独での日本縦断撮影旅行を思い立ち、同年4月1日、九州最南端の佐多岬を出発した。それから3ヶ月間、写真撮影をしながら北上を続け、同年7月8日に北海道の宗谷岬に達したが、その行程上でも美瑛を通過することはなかった。宗谷岬からの帰途、知人の紹介で、旭川市在住の写真好きの人の家に立ち寄り、大雪山や旭川付近が撮影された写真を見せてもらった。その中の一枚に、「傾斜した畑を農耕馬が土煙を上げて驀進してくるモノクロームの写真」があった。前田真三はその写真の背景に写っている落葉松の丘が妙に心に残り、撮影場所を問うと、「美馬牛峠付近」とのことだったので、それから数日後にその場所へ行ってみることにした。そして同年7月12日の昼下がり、前田真三はその美馬牛峠に差し掛かった。美馬牛峠とは国道237号にあり、美瑛町と上富良野町津郷との境界にある峠である。この時前田真三は、初めて美瑛の丘の風景を目にした。丘を彩る一面のジャガイモの花、遠くには噴煙を上げる十勝岳、そして丘の上に整然と並んだ落葉松の風景を目の当たりにすると、これらがヨーロッパの田園風景を思わせた。これらの丘の風景に、これまで自身が抱いてきた日本の風景とは異なる新しい風景を発見し、日本にもこんな所があったのか、と心打たれた。早速この風景を撮影しようと三脚を立て、カメラを構えたところ、そこを通りかかって偶然その様子を見た津郷在住のある人から怒鳴られた。その当時、この津郷にゴルフ場をつくるという話があり、その人はそれに反対していた。このことから、前田真三の様子をゴルフ場建設のための測量をしているものと勘違いしたのであった。風景写真を撮らせてもらっている旨を説明すると、その人は拍子抜けした様子で、お茶でも飲んで行きなさいと前田真三を家に招じ入れた。この人は上富良野町の教育委員も務めていたことから、前田真三の写真活動をよく理解し、以来、この人からの支援もあって、前田真三は美瑛、上富良野の丘陵地帯の撮影に足繁く通うこととなった。東京から美瑛へ通っての撮影活動を開始してから6年後の1977年7月20日。この日は東京から夕方に美瑛に到着したばかりで、日は既に西に傾いていた。東の空には重く真っ黒い夕立雲が垂れこめており、日没には間に合わないかもしれないが、とにかく撮影に出てみることにした。そして美瑛町新星緑ヶ丘に達した時、偶然、濃紺の夕立雲の下に広がる麦畑を落日間際の太陽が照らし出し、強烈な色彩を放つ光景に出合った。最初に麦畑の中に立つ一本の白樺の木を入れたカットを撮影し(『麦秋多彩』の題で発表される)、その十数分後、濃紺の夕立雲の下に鮮烈な色を放つ赤麦畑のカットを撮影した。撮影後、感動的な赤い閃光を残して日は没した。前田真三はこの光景の撮影から、風景写真は駄目だと思ってもたえず挑戦する心掛けが必要であり、そこから必ず傑作が生まれるものであるとの教訓を得ている。後の方に撮影された写真は当初『麦秋暮色』という題で発表されたが、写真集『丘の四季』に収録する際に『麦秋鮮烈』に改題された。この作品は前田真三の代表作となり、写真集の表紙のほか、一時期マイクロソフト社など広告媒体にも使われるようになった。なお、この時撮影された赤麦畑は「タクネコムギ」と呼ばれる品種であり、成熟すると他の品種より穂が赤みを帯びるようになっている。撮影された当初は北海道内でよく栽培されていたが、収量が少ないことからその後栽培面積が激減し、美瑛町内では栽培されないようになっていった。しかし、この『麦秋鮮烈』に触発された美瑛町内有志により、1999年から一部でタクネコムギが復活栽培されるようになった。1986年の秋、ソニーから、当時新しくできた映像技術であるハイビジョンで日本の風景を撮ってみないかという話が前田真三のもとへ持ち込まれた。当初前田真三は、美瑛町に撮影拠点となる「拓真館」建設に着手したところで、1年を通して日本各地を取材することなどとてもできないと固辞した。しかし、実際にハイビジョンの映像を見るうちに、動画も静止画も根本的には自然を撮ることの基本理念に変わりはない、として、拓真館を中心にした美瑛の丘陵地帯を舞台に撮影するのならと、1年がかりで取り組んでみようかという考えに変わった。こうして1987年にハイビジョン作品『四季の丘』が発表された。その後はハイビジョン作品のほか、CD-ROM写真集なども発表された。もともと日綿実業勤務時代から写真の傍ら8ミリ映画も撮っていたことから動画には興味もあり、パソコン上での写真加工にも全く否定的ではなかったことから、最新の映像技術にも抵抗はなかったとされる。ハイビジョン作品の音楽には、当時デビューした作曲家・ピアニストの中村由利子のアルバム『風の鏡』も起用された。このことから、中村由利子は美瑛の丘の風景をモチーフにした楽曲を作曲するようになり、以降に発表された前田真三の映像作品に度々楽曲を提供するようになった。前田真三が美瑛の丘での撮影活動中、1978年に、美瑛町拓進にある旧千代田小学校跡地に初めて訪れた。この小学校は1971年に廃校となって以来放置され、校庭は荒れ放題、校舎も屋根がめくれ、床は雨漏りで波打っているような状態であった。1985年に、前田真三が美瑛町役場の人と会食する機会があり、その席上、旧千代田小学校跡地が放置されていることについて役場の人に問うと、当時の都市計画課長より「何か良い利用方法がありますか?」と逆に問われた。その場で冗談半分に「写真ギャラリーでもやってみようか」と答えたところ、翌年、美瑛町長はじめ町役場の支援により、写真ギャラリーとしての再生が実現する運びとなった。写真ギャラリーは旧千代田小学校の体育館と教室を活用し、1987年7月10日に開館。地名である拓進と、真三、写真の「真」にちなんで「拓真館」と名付けられた。写真ギャラリーとして作品を常設展示、ビデオ作品を上映すると共に、撮影拠点ともした。館周辺の環境整備にも力を入れ、花畑や、延べ250メートルほどの白樺回廊も整備された。通年開館していたが、2010年は冬季に臨時休館することになった。奈良県宇陀市に所在し、古刹・室生寺にほど近い「松平(まつひら)文華館」は、旧家松平家所蔵の古美術品の展示館であるが、その一角に、前田真三の作品が常設展示されている。これは、前田真三が吉野、室生に題材を求めたことに関係しており、展示作品もそれらが中心になっている。愛知県北設楽郡豊根村・茶臼山高原に所在する。前田真三が豊根村を写真集『奥三河』の撮影拠点としたことに関係しており、展示作品も奥三河を題材にした作品が中心であるが、年に数回、奥三河以外を題材とした作品展示も企画している。東京都八王子市上恩方町に所在し、前田真三が同地にあった旧恩方村の出身であることに関係している。2000年に館内で開いた前田真三の写真展が好評だったことから、2001年2~5月に再展示を行い、同年8月から常設ギャラリーを開設した。株式会社風景写真出版が主催する写真賞であり、風景写真の新人賞である。1993年から始まった「風景写真新人杯」を、前田真三の没後、その業績をたたえ、1999年に改名したものである。第1回受賞者は上杉満生。
出典:wikipedia
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