酒井 忠鄰(さかい ただちか)は、安房勝山藩の第5代藩主。延享4年(1747年)、第4代藩主・酒井忠大の次男として江戸で生まれる。長兄の忠筭が早世したため世子に指名される。宝暦6年(1756年)5月18日、父忠大の死去により家督を継いだ。宝暦13年(1763年)10月1日、将軍徳川家治に拝謁する。同年12月9日、従五位下大和守に叙任する。明和6年(1769年)、明和8年(1771年)に大坂加番を務めたが、このように役職に就いたために出費も激しく、さらに明和7年(1770年)には旱魃も起こり、それによって百姓による騒動が発生した(西領騒動)。この騒動は、金尾谷村名主の忍足佐内が年貢減免・不正を行なう役人の罷免などを求めて起こしたものであるが、勝山藩ではこれを受け入れず、逆に佐内は処刑され、家族は家財没収に処された。しかし百姓側は安永元年(1772年)から安永2年(1773年)にかけて老中に駕籠訴し、訴えが認められて不正役人らは処罰され、佐内の家族も罪を許されて終焉した。天明元年(1781年)、越前守に転任し、天明2年(1783年)7月に3度目の大坂加番に任じられる。寛政5年(1793年)5月6日、長男の忠和に家督を譲って隠居し、文化6年(1809年)6月27日に死去した。享年63。
出典:wikipedia
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