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都於郡城

都於郡城(とのこおりじょう)は現在の宮崎県西都市にある山城。築城は1337年(建武4年)伊東祐持による。別名、浮船城。都於郡城は南北朝時代から安土桃山時代にかけて日向国に割拠した伊東氏の城の一つ。1335年(建武2年)、足利尊氏より都於郡三百町を賜って日向に下向した伊東本宗家の伊東祐持による築城といわれ、一国人領主にすぎなかったころよりの本拠でもある。後にこの都於郡城を本拠として、勢力を拡大する事になる。城は高さ100mの丘陵に築かれた本城、周囲に支城(日隠城、東城、泉城、高城、向城)を配し、その間を堀や池を巡らすという中世式城郭の典型的な様式である。なお本城から峰続きに1.3km東方に日隠城があり、大規模な城域を誇る威容は、西国でも有数のものであった。本城は本丸、二ノ丸、三ノ丸、奥ノ城、西ノ城といった五つの曲輪から成り立っている。城下の要所に多数の寺社を集めて、非常の際の防衛拠点として活用することは定石だが、都於郡城も同様だった。城下には現存する三寺(大安寺・光照寺・黒貫寺)、五社(若宮権現・滝ノ天神・荒武神社・都於郡稲荷・原向稲荷)の他にも、十一の寺院址(岳惣寺址・大中寺址・伝守院址・長持寺址・大用寺址・欣浄寺址・定徳院址・大祐寺址・一乗院址・東興庵址・常楽院址)が確認されている。祐持の子伊東祐重の代に大修築が加えられた。『日向記』によれば、「夫より都於郡を経営せんとて弥(いよいよ)家風を定む。大形の指図様体究って、先普請に可入。具足或(あるいは)鍛冶番匠を召集め夜を日に続て急ぎけり。弥精力を励まし吉日を撰て御移住なり。其外、先規の如く馳集(つどい)て門前に市をなす。近習、外様、馬廻以下の屋敷割有しかばさしもに広き山上山下も更になかりけり」とある。城の外堀として三財川が利用されており、別名を浮船城と称された。川面に城壁が映り、そのため鮎がここから上流へはさかのぼれなかったという伝承もある。伊東家の黄金期を築いた十代当主伊東義祐は、【春は花 秋は紅葉に 帆をあげて 霧や霞の 浮船の城】と詠んで、城の風雅を自賛した。城は幾度かの兵火に焼けたが、1504年(永正元年)3月21日、城中からの失火によって城外まで延焼し、建物器物の大半を消失したこともあった。伊東氏は後に日向国の大半を領して、伊東四十八城と呼ばれる48の城を持ったが、都於郡城は佐土原城とともにその本城として繁栄する。1577年(天正5年)に伊東氏が島津氏の侵攻に敗れ一時没落すると都於郡城には島津義久が入城し、豊臣秀吉の九州征伐、高城の戦いにおける前線基地となったが、島津氏は根白坂の戦いで敗北遁走し都於郡城は戦後廃城となった。1615年(元和元年)、江戸幕府の一国一城令により都於郡城は正式に廃城となった。2000年(平成12年)9月6日に国の史跡に指定され、2001年(平成13年)より整備に伴う遺構確認調査が実施されている。また、都於郡城にて生誕した伊東マンショ(祐益)を記念し「伊東満所像」が設置されている。

出典:wikipedia

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