医薬品産業(いやくひんさんぎょう、)とは、認可医薬品を創薬、開発、生産、市場販売する一連の産業をさす。医薬品産業には、法的規制や特許権、広告宣伝規制など、様々な法的権利が関わってくる。とくに製薬(せいやく)とは、医薬品を製造することである。化学工業と関連性がある。その企業は、製薬会社と呼ばれる。製薬会社は研究開発の視点から従業員数が多く、新薬開発には莫大な費用が必要とされるため、製薬企業は大規模な企業であることが多い。近年はバイオテクノロジー(生物工学)の発展を背景に、その技術を応用した創薬に力を入れている企業も多い。医薬品産業は医療と密接に関わっており、世界的な高齢化と人口増加により医薬品の需要が高まっている。世界の医薬品市場規模は約80兆円(2006年)といわれており、そのうち日本の医薬品市場規模は7兆円(2004年)となっている。製薬工業は日本の医薬品医療機器等法上は、医薬品製造業に分類され、医薬品の製造にあたっては医薬品製造業の許可が必要である。また、製造した医薬品を発売する際には医薬品製造販売業の許可が必要である。製薬産業は、主に次の4つの特徴を持つ。産業の特徴は上記以外にも様々な意見があるが、製薬が病気を治し、生命を救う意義を持つことが第一義である。20世紀において、人類を最も幸せにしたものは医薬品(特に抗生物質)であると言われている。製薬産業は、病気治療、生命維持、クオリティ・オブ・ライフの向上といった面で大きな役割を果たしている。具体的には、といったことで社会的に貢献しており、今後も難病といわれる悪性腫瘍や中枢神経系の疾患、アレルギー症状などにおいて、治療法や予防法を確立することが期待されている。また、それまでは治療費の掛かる病気であったものを、新薬の登場により治療費を激減させるなど、金銭面でも多大な貢献を果たしている。日本の製薬業の歴史は古く、奈良時代には貧民救済施設も兼ねていた施薬院が作られており、正倉院にも当時の中国王朝から輸入したとされる薬物が残っている。しかし、この当時は薬草が薬の中心を成していたため、そのまま服用するか生薬として用いられることが多く、薬は創るものではなく、どちらかというと栽培するものという時代だったと考えられる。現在でも薬草は民間療法で使われたり、薬の原材料になるものもあり、広い意味では製薬に通じる。なお、日本国外の例となるが、民間療法で使われていた薬草が薬になった代表例としてアセチルサリチル酸(アスピリン)が挙げられる。紀元前からヤナギの樹皮が鎮痛作用を持つことが知られていたが、19世紀になってヤナギの樹皮から鎮痛効果を持つ成分であるサリチル酸が分離され、その後アセチル化されて、世界初の人工合成薬となった。続く平安時代に入ってからも薬草が薬の中心を占め、いわば薬草中心時代は長く続くことになる。この頃には輸入書籍によって漢方薬の知識が導入されるようになり、国内でも当時の医学・薬学の集大成ともいえる医心方が編纂されたが、日本で具体的な薬(配合薬)が創られるのは鎌倉時代以後となる。鎌倉時代から室町時代、安土桃山時代は戦乱の時代であり、戦乱からの貧民救済を行っていた寺社が製薬の主な担い手となり、東大寺の「奇応丸」や西大寺の「豊心丹」などが作られている。また、個々の家で家伝薬とされる和漢薬が創られはじめたのも鎌倉時代からである。この当時に創られた家伝薬としては「三光丸」や「宇津の秘薬」があり、三光丸を作る三光丸本店は鎌倉時代から続く現在日本で最も古い製薬企業とされ、宇津の秘薬はその後宇津救命丸と名前を変えてはいるが、こちらも安土桃山時代から続く製薬企業となっている。小規模な家単位で創られていた薬が、全国規模で創られるようになったのは江戸時代からとされる。江戸時代は漢方薬を中心として、日本独自の漢方医学が普及し、薬学としての本草学も発展。人口増加や流通網の整備もあり、薬の需要と製造が増した。この頃に紫雲膏や中黄膏、七ふく、龍角散、樋屋奇応丸、百毒下しといった薬が作られている。現在でも続く七ふく製薬と龍角散、樋屋製薬はこの同名の薬を創業の端緒としている。商業として製薬業が発展したのも江戸時代からであり、各地で独自に薬を作っていた薬種商が大阪の道修町に集まり、薬種中買仲間(株仲間の一つ)として組織され、輸入漢方薬の流通を一手に引き受け、日本の薬業の中心地として栄えた。道修町は現在でも大手製薬メーカーの本社が軒を連ねるなど、「薬の町」として知られる。ここに本社を置く(あるいは置いていた)武田薬品工業や田辺三菱製薬、塩野義製薬、小野薬品工業といったメーカーはこの当時から続く老舗の大手メーカーである。また、富山の売薬に代表される配置販売業もこの頃から急速に全国に広まった。富山の売薬以外にも、大和売薬、近江売薬、田代売薬が有名であり、田代売薬をルーツとする久光製薬や、近江売薬をルーツとする武田テバ薬品など配置販売業をルーツとするメーカーも多い。その後、江戸時代中期以降に蘭学が導入されると、『解体新書』に代表される多くの西洋医学書が翻訳・出版されたり、適塾や鳴滝塾などの私塾が各地で開設されるなど、西洋医学の知識が入ってくるようになる。明治維新後は、積極的に西洋医学の導入に努め、製薬学科の設立や日本薬局方の制定をはじめとして、医薬制度の整備・運営も行われるようになった。しかし、それまでは薬の輸入販売が中心であったため、第一次世界大戦で薬の輸入が途絶してしまうと、軍事的な側面から製薬の国産化が急務とされ、その結果、道修町にも新薬メーカーが次々と設立され、アスピリンなどの医薬品合成を行うようになり、日本の製薬業は合成化学を基礎に近代的な発展を始めた。しかし、今日的な意味で製薬業が発展したのは第二次世界大戦以後のことであり、感染症に効く画期的な抗生物質であったペニシリンや、結核の特効薬であるストレプトマイシンの国産化がその端緒となっている。ペニシリンやストレプトマイシンは化学合成ではなく、培養によって大量生産される薬であったため、発酵・醸造技術を持つ食品メーカーが主な役割を担い、それが契機となり現在でも製薬事業を行っているメーカーも多い。明治製菓や協和発酵キリンなどがその代表例である。その後、1961年に導入された国民皆保険制度により、国民が医療機関で診療を受けやすくなり、医師の処方箋を必要とする医療用医薬品の需要が高まり、急成長する。それまでは大衆薬(OTC医薬品)の販売が主流であったが、1960年代に製薬業・医療機関ともに技術革新や新技術の導入、販売促進強化などを行ったために医療用医薬品の生産金額が急速に伸び、1970年代初めには1兆円産業に成長し、現在までの製薬業の発展に寄与している。世界規模で見ても、それぞれの国において伝統的な薬業に立脚した企業、第二次世界大戦後に誕生した企業など、様々ある。しかし、近年は世界的に製薬業界の大再編が起こっており、欧米のメジャー企業が世界で買収合戦を繰り広げ、日本企業の中にも、これら欧米系に買収されるケースが出てきている。そうした状況を受け、日本国内でも、欧米系に対抗すべく、企業の大規模な再編が進んでいる。その中で目立つのは、“病衆分離”ともいうべき動きで、それまでは医療用(病院薬)と大衆薬の両方を扱うメーカーが多かったのが、医療用の会社と大衆薬の会社を分ける場合が目立っている。日本最大手の武田薬品も、大衆薬部門を社内カンパニー化している。 新薬開発を行うには莫大な研究開発費用が必要とされる。新薬を研究開発し、発売するために必要なコストは数百億円といわれる。2001年のタフツ大学の発表によると、1990年代のアメリカでのデータを元に試算した結果、世界的な製薬企業が1つの新薬を発売するために必要な研究開発コストは、1,000億円に達するとされる。この金額は発売されなかった新薬の研究開発費用も含めた金額である。しかし、これほどまでに多額の費用を投じて新薬を開発しても、発売されるまでに安全性や有効性、品質に対する検査が行われるため、結局製品化されないものも多い。そのため、製薬業界の対売上高研究開発比率は全産業中最も高く、全産業の平均が3%なのに対して、製薬業界では8%を超える。このことは製薬業界の研究開発指向を示唆するが、反面、充分な研究開発を行うためにはそれに見合う利益率を確保することが重要となっており、製薬業界の利益率は他産業と比較して総じて高い水準となっている。これまでの製薬の特徴は有機合成や発酵、動植物からの抽出などによって得られた物質を分析、研究して新薬の元となる成分を探して来ることであったが、この方法では新薬創出には限界があることは以前から指摘されていた。そのため、現在ではゲノムプロジェクト等によって解析されたヒトの遺伝子情報を元に、バイオテクノロジーを応用して新薬を研究、開発することが主流となっている。また、これらの遺伝子情報は、遺伝子治療や再生医療といった新たな分野の医療にも役立つと考えられており、現在は既に実用段階の治療方法も確立されつつある。日本の製薬企業の売上規模は、世界的な企業と比較して相対的に低い水準にとどまっている。たとえば、国内最大の売上げを誇る武田薬品工業は、世界規模ではトップ10にも入れていないのが実情である。これは日本の製薬企業数が2,000社を超えており、裾野が広いために売上げの上位集中度が低くなっていることや、研究開発費用が相対的に低く、世界的な新薬が少ないことなどが原因とされているが、外資系メーカーの国内進出や買収が活発であることから、今後は内資系メーカーの国際競争力や資本強化が急務とされており、大型合併なども続いている。
出典:wikipedia
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