南条氏(なんじょうし)は、日本の氏族のひとつで伯耆国の国人、戦国大名の一族。『伯耆民談記』、『羽衣石南条記』などの説によると、南条氏は出雲守護塩冶高貞の二男である南条貞宗(塩冶高秀)を始祖とする佐々木氏流塩冶氏の流れをくむ一族である。なお、南条氏の出自については佐々木流塩冶氏説と平氏説、名和氏説など多数存在するが、南条氏自身は「賀茂姓」を名乗っている。始祖の貞宗が羽衣石城を築いたのは貞治5年(1366年)のことと伝えられている。(現在、これ以前にも伯耆国内には南条姓を名乗る有力者がいたことがわかっている。これについては後述する。)初期南条氏の活動については記録等が乏しいため不明な点が多いが、守護の山名氏の下で東伯耆を中心に勢力を拡大した南条氏は嘉吉の乱頃には有力な国人領主として成長、乱の後には守護代に任じられた。応仁の乱の際にも山名氏の「分国ノ士卒」として参加、小鴨氏らと共に守護軍の一翼を担った。文明年間に入り応仁の乱が長期化し、守護の統制にかげりが見え始めてくると南条氏は赤松氏、山名元之ら守護家の傍流と協力、これまでと一転して反守護活動を開始した。一連の反乱により文明13年(1481年)8月には南条下総入道、延徳元年(1489年)1月には「南条以下数十人」が討死している。永正 - 天文年間にかけて尼子氏が伯耆へ侵出した際、通説では南条氏は但馬、因幡へ逃れたとされていたが、現在では尼子氏の下へ属し、後に毛利氏の下へ属したことがわかっている。南条氏は天文9年(1540年)9月、尼子晴久の郡山城攻めに参加していることがわかっているが、3年後の天文12年(1543年)には大内義隆の月山富田城攻撃に南条宗勝が参加、大内軍の道案内をしている。その後の動向は不明だが大内氏を経て毛利氏へ属した宗勝は、毛利の支援の下、永禄5年(1562年)の夏頃には伯耆の旧領を回復したものと見られる。『真継家文書』内の「南条国清書状」によれば天文15年(1546年)頃の羽衣石城主は南条国清なる人物であったことがわかっている。この国清なる人物は当時、尼子方であり、武田山城守の誘いで尼子方を離れ美作国大原の地に逗留している。なお、近年の研究により、この国清なる人物が後の宗勝のことを指していることが判明した。宗勝は帰国後の永禄6年(1563年)頃より毛利元就らの容認を得て伯耆国人衆の被官化を行った。これにより村上氏の家臣の一部、山田氏、小森氏などが南条家家臣団に編成され、南条氏は当時、山陰地方東部で最大の勢力を持つ国人として成長、東伯耆の要の役割を担ったのである。天正3年(1575年)秋、南条宗勝が急死、家督は嫡子・元続に継承された。元続は家督継承の後、福山次郎左衛門の誘いに乗り密かに織田氏と連絡を取るようになっていた。天正4年(1576年)7月、山田重直によって福山一族が殺害され、同7年(1579年)9月に元続が報復として山田重直の居城・堤城を攻撃すると南条氏は毛利氏より離反し、織田氏の下へ属した。南条氏は毛利離反後の天正8年(1580年)より吉川軍と交戦、その傍ら同年5月には羽柴秀吉の鳥取城攻めの合力として気多郡表へ放火するなどした。しかし、8月の長和田・長瀬川の戦いに敗北、付城を羽衣石城周辺に築かれ包囲された南条氏は落人が続出し、同10年(1582年)6月には小鴨某が内通していたことが発覚、同年9月には山田重直によって羽衣石城が攻略され、元続らは敗走を余儀なくされた。天正12年(1584年)、いわゆる「京芸和睦」が成立、南条氏は八橋城を除く東伯耆3郡を与えられた。しかし、南条氏はその後も八橋城回復を目標に奔走、天正13年(1585年)春には八橋城を回復することに成功、同年5月の赤崎原の戦い、7月の河原山城の戦いなどで西伯耆の毛利氏を攪乱させる行動に出ていた。天正11年(1583年)11月に帰国した元続はその後病気がちになり弟の小鴨元清に後見役を勤めさせた。天正19年(1591年)に元続が死去すると元清後見の下、幼い元忠が家督を継承した。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで西軍に属した南条氏は、西軍の敗北によって南条氏は所領が没収され一族は他国へ逃れ没落した。その後、元忠は慶長19年(1614年)の大坂冬の陣に際し多くの一族、旧臣とともに大坂城へ入り戦ったが、元忠は徳川方の藤堂高虎と内通していたことが発覚して家臣とともに大坂城内にて切腹、南条家再興の道は完全に絶たれることになってしまった。元忠の嫡子・南条勘右衛門の家系はその後、鳥取藩に仕え、元忠のひ孫に当る南条喜右衛門は郡奉行などの要職に就いている。昭和初期には当時、近畿地方に住んでいた南条宗続の子孫が私財を投じて羽衣石城跡に模擬天守を建設、先祖の業績が風化しないようにと石碑を建立している。通説によれば南条氏は南北朝時代の貞治5年に貞宗が羽衣石城を築いたのが始まりとされている。しかし、それ以前の文和3年(1354年)の「足利尊氏下文」などの文書に南条又五郎なる人物が見え、相当の有力者であったがことがわかっている他、南北朝初期の小鴨氏当主・小鴨氏基の母が南条元伯なる人物の娘であったことが「小鴨家系図」に記されている。加えて貞宗などの記述が見えるのは「伯耆民談記」などの江戸時代に記された文献であり、あまり正確とはいえないものである。これらの人物との関係については現在全く不明であり推測の域を出ないが、南条氏が本当に佐々木氏流の家なのか一部にみえる「平氏説」も踏まえて再考の余地があると思われる。 南条貞宗このほか、中村氏、豊嶋氏、油木氏、春日氏、相賀氏、由良氏、越振氏などが確認される。羽衣石の南条氏に由来すると言われる踊りが「南条踊り」の名前で山口県・広島県に今も伝わる。
出典:wikipedia
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