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三河稲垣氏

三河稲垣氏(みかわいながきし)は、日本の武家氏族の一つである。室町時代後期となる文明年間(1469年 - 1486年)に、伊勢国から三河国宝飯郡に渡来し土豪となったとされる稲垣氏。同国の国人領主牧野氏に臣属して、ともに今川氏の勢力に服したが、永禄年間(1558年 - 1570年)に徳川氏(松平氏)が有力になるとその傘下に移り、稲垣長茂の系統は近世大名に発展した。稲垣氏は、『藩翰譜』などによると、遠祖は清和源氏小田重氏であるとする。すなわち、清和源氏支流・伊勢源氏の小田重氏が稲垣姓を称したという。また稲垣氏を平姓であるとする研究・学説も存在する。文明年間 (1469年 - 1486年)には伊勢から三河宝飯郡牛窪に移り、稲垣藤助重賢が、牧野氏に仕えたとある。はじめ駿河・遠江の戦国大名今川氏に味方して松平清康軍を相手に奮戦した。藩翰譜には重賢の戦死の事実だけが記載されるに留まる。だが、寛政重修諸家譜には、享禄元年(1528年)、吉田(豊橋市)方面から牛久保に軍勢が押し寄せたときに、稲垣重賢は防戦して宝飯郡産女塚で配下16名と共に討ち死にしたと、対松平氏戦に関する若干の記述がある。稲垣氏は、重賢・その子の重宗と、今川方の牧野氏に属したが、牧野忠成の祖父である牧野成定(1525年 - 1566年)が死すと、11歳(異に17歳とも)と若かった牧野康成(1556年 - 1609年)に不安があり、山本氏などと協議の上、重宗の嫡子長茂が後見役として牧野家の家臣筆頭となる。天正3年(1575年)、衰退著しい戦国大名・今川氏の旧領を争っていた徳川家康は、遠江諏訪原城(別名・牧野城)の城番に牧野康成を配置したが、その陣代として稲垣長茂の功績は絶大なものがあった。稲垣長茂は、遠江国諏訪原城攻めの陣代としての功績、足高山の麓天神川の要害の守備の功績、小田原城・後北条氏攻めの功績などにより、徳川家康に高く評価されたことで、譜代大名・近世大名の道を歩めたといえる。柳営秘鑑では、駿河譜代に位置づけられている。藤沢ホテル総支配人、稲垣重祥は、近江国山上藩稲垣家の末裔として、何度かマスコミに登場したことがある。 各種系統がある。 凡例 太線は実子、細線は養子、□は名不詳。実兄、稲垣重綱が家康に召しだしとなると、牧野御家中における跡式を稲垣則茂が相続。長岡侯の家老首座連綿(2400石)となり公儀直参の資格を兼帯した(詳細→稲垣氏 (牧野家重臣))。この家系は本姓を藤原姓とする。 凡例 太線は実子、細線は養子。

出典:wikipedia

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