ウクライナ・ソビエト社会主義共和国の国旗は、その施行規則によれば「ウクライナ共和国の主権、他の対等なソビエト連邦構成共和国との自発的交流、労働者・農民・知識人の破られることのない団結、共産主義社会を築くすべての民族・国籍の労働者の友好と兄弟愛の象徴」とされる。1917年12月にハリコフで発足したソビエト派ウクライナ人民共和国(後にウクライナ・ソビエト共和国を経てウクライナ社会主義ソビエト共和国となる)は、が唯一の合法的なウクライナ政府と認めたものであった。現代のいくつかのソースでは、ウクライナ人民共和国の国旗はカントンに青と黄色の水平帯(これは上下逆の場合もある)を表示した赤旗とされているが、これには同時代の史料に言及がないという異論もある。その後、を経て1919年1月6日にボリシェヴィキがウクライナ社会主義ソビエト共和国の成立を宣言すると、3月14日に全ウクライナ中央執行委員会は最初のウクライナ共和国憲法を承認した。実際には、この時期にはロシア共和国の国旗と同様に国名の文字が金枠で分割されたものや、国名表記がロシア語の ではなくウクライナ語の とされたもの、さらに赤旗でなく青と黄色の水平二分旗上に と表示したものも使用されていたとみられる。1921年8月10日、中央執行委員会は国旗について「金枠で囲まれ、金文字で と表示した赤い領域を左隅に持つ」とする委員会令を承認した。しかし、ソビエト連邦発足に際して1923年1月23日に中央執行委員会が承認した商・漁船および国の旗章に関する定めにおいては、国旗のデザインは1919年からのものへと戻されている。1926年4月3日にウクライナ共和国NKVDが公布した規則にはこうある。1927年7月には、および中央執行委員会が「言語の平等およびウクライナ文化の発展の実現について」の勧告を発し、また、行政法によっても「国旗において、表記される言語はウクライナ語でなければならず、民族地域ではウクライナ語に加え少数民族語でも国旗に注記が許可されるべきであると言わざるを得ない」と求められた。そして、1929年6月23日からの新憲法第81条により、国名のウクライナ語表記 は正式なものとなった。1937年1月30日からのソ連憲法(いわゆるスターリン憲法)の第144条により、ウクライナの国旗には鎌と槌が追加され、代わりに国名は略記以外認められなくなった(ただし、1945年に国連本部に掲げられたウクライナ国旗には の文字があった)。1949年11月21日に採択され、翌1950年7月5日にが承認した「ウクライナ・ソビエト社会主義共和国の国旗に関する規則」により、新たなウクライナ国旗は次のように定められた。紺青色の帯は、雄大さや人民の美しさ、そしてボフダン・フメリニツキーを象徴するものと説明された。1981年4月6日には、ウクライナ最高会議幹部会令により、国旗に関する細則が補足された。1980年代後半からすでに、青と黄色の水平二分旗は非公式な国旗として全国に広まっていたが、1991年8月24日にウクライナがソビエト連邦から独立し、同年9月18日に青黄旗は合法化された。そして、翌1992年1月28日、青黄旗は新たなウクライナ国旗となった。
出典:wikipedia
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