陳柳(ベトナム語:Trần Liễu(チャン・リェウ)、 1211年 - 1251年)は、大越陳朝の王族・武将。陳朝の初代皇帝太宗の実兄である。陳朝の初代太上皇であった陳承(太祖)の長男。子に陳国峻(陳興道)がいる。初め、李朝最後の皇帝李昭皇(弟・陳煚(後の太宗)の妻)の実姉順天を妻として弟を補佐していたが、叔父で陳朝の事実上の最高指導者であった陳守度と政治の実権を争う。1228年に太尉に任ぜられ、1234年に実父・陳承(太祖)の没後、「顕皇」の称号が与えられ、その宮殿であり後に歴代太上皇が住んでいた聖慈宮に住んでいたことから、父の没後に陳朝の太上皇と同格の地位であった、もしくは実際に太上皇の地位に即位していたとする説もある。ところが、1236年に李朝旧妃と通じた疑いをかけられて懐王に落とされ、続いて1237年に陳守度が、太宗に子供が出来ない事を理由に太宗と李昭皇を離縁させ、代わりに順天を強引に召しだして陳柳と離縁させて、新しい皇后とする。これに激怒した陳柳は謀叛の兵を挙げるも、これが陳柳の失脚を図る陳守度の思う壺となり、反乱軍はたちまちのうちに打ち破られてしまう。太宗の執り成しで陳柳の罪は不問とされて改めて安生王に封じられたが、政治的に失脚した陳柳は陳守度を恨みながら病没したという。
出典:wikipedia
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