イェロギオフ・アヴェロフ(Georgios Averof)はギリシャ海軍がイタリアより購入した装甲巡洋艦で同型艦はない。艦名は、本艦の購入代金のうち1/3を寄付したギリシャの大富豪の名にちなむ。本艦は1911年の就役から現代まで現存する唯一の装甲巡洋艦である。ギリシャでは、その活躍から敬意を持って、「戦艦」()と通称されている。なお、イェロギオフ・アヴェロフは日本語での慣用で、ギリシャ語名はイェオールイオス・アヴェローフ()である。特に、名前の部分が「フ」ではなく「ス」である点に注意。本艦の基本設計はイタリア海軍のピサ級と同一である。同年代の前弩級戦艦レジナ・エレナ級の砲装備を小型化し、装甲を減じた代わりに速力を2ノット増加した艦として、設計士官ジュゼッペ・オルランドの手によりスマートにまとめられた。オリジナルと異なるのは本艦の主砲はイタリア製の「25.4 cm(45口径)速射砲」ではなく、わざわざイギリスより「Mark X 23.4 cm(47口径)砲」を購入した点が「ピサ級」とは異なる。この砲は楕円筒形状の連装式の砲塔に搭載された。船体は典型的な平甲板型船体で、艦首から構造を記述すると、艦首水面下には未だ衝角(ラム)が付いている。艦首甲板上に1番主砲塔があり、その背後に司令塔を組み込んだ艦橋の背後に三脚式の前檣が立つ。船体中央部には等間隔に並んだ3本煙突が立ち、煙突を挟み込むようにして舷側甲板上に、「19.1 cm(45口径)速射砲」を収めた楕円筒形状の連装砲塔が背中合わせで片舷2基ずつ計4基を配置された。煙突の背後か艦載艇置き場となっており、これらは2番煙突を基部として片舷1基ずつ計2基のボート・クレーンと三脚式の後檣の基部に1基付いたボート・ダビッドにより運用された。後檣の背後に後部見張り所が設けられ、そこから一段下がった後部甲板上に2番主砲塔が後向きで1基配置された。前述通りに本艦の主砲はオリジナルの25.4cm砲ではなく、同世代のイギリス海軍で多く使われた「Mark X 23.4cm(47口径)砲」を採用した。この砲は準弩級戦艦「キング・エドワード7世」の副砲や装甲巡洋艦「ドレイク級「、「クレッシー級」、「デューク・オブ・エジンバラ級」、「ウォーリア級」の主砲として長く使われた優秀砲である。その性能は重量172.4kgの砲弾を最大仰角15度で14,170 mまで届かせることが出来、射程4,160 mで鉄製装甲23.4cmを、射程5,480 mでKC鋼製装甲19.6cmを貫通できる性能であったこの砲をイギリス式の連装砲塔に収めた。砲塔の旋回角度は船体首尾線方向を0度として左右142度の広い旋回角度を持ち、砲身の俯仰能力は仰角15度・俯角5度である。主砲身の俯仰・砲塔の旋回・砲弾の揚弾・装填は主に電力で行われ、補助に人力を必要とした。発射速度は毎分3~4発である。副砲は破壊力を重視してオリジナル通りの「1908年型 19 cm(45口径)速射砲」を採用した。その性能は重量90.9kgの砲弾を最大仰角25度では射程22,000 mまで届かせるという主砲を超える大射程を持っており、これを連装砲塔に収めた。俯仰能力は仰角25度・俯角5度である、旋回角度は船体首尾線方向を0度として160度の広い旋回角度を持つ。砲身の俯仰・砲塔の旋回・砲弾の揚弾・装填は主に電力で行われ、補助に人力を必要とした。発射速度は毎分2.6発である。その他に対水雷艇用に「アームストロング 7.62 cm(40口径)速射砲」を単装砲架で舷側ケースメイト配置で片舷8基ずつの計16基16門、オチキス社製「47 mm(43口径)機砲」を単装砲架で2基2門。対艦攻撃用に45 cm水中魚雷発射管を単装で艦首に1門、舷側に片舷1門ずつ2門の計3門を装備した。就役後の1910年代に対空火器としてアームストロング社製の「7.6cm(40口径)高角砲」が単装砲架で1基が搭載された。第一次世界大戦後の1925年から1927年にかけてフランスで近代化改装が行われた際に、対空火器は「Mk III 7.6cm(40口径)高角砲」を単装砲架で4基と近接火器としてヴィッカース 4cm(39口径)単装ポンポン砲4基が搭載されたが1930年代に4cm単装ポンポン砲1基が追加され5基となった。第二次世界大戦中に全ての4cm単装ポンポン砲が撤去され、代わりに「エリコン 20mm(76口径)機銃」が単装砲架で6基に更新された。本艦の主ボイラーはフランスで開発され各国に採用されたベルヴィール式石炭・重油混焼水管缶22基に、推進機関として直立型四気筒三段膨張式レシプロ機関2基を組み合わせ、2軸推進で最大出力20,000 馬力で公試において速力23.9 ノットを発揮した。これにより速力22.0ノット、燃料消費量から速力12ノットでの航続距離は2,672海里と算出された。イタリアで建造された装甲巡洋艦の航続距離は他国装甲巡洋艦に比べて極端に短いのが特徴であるが、これは地中海での行動を念頭において設計されたイタリア装甲巡洋艦の特徴であり、同じく地中海で行動するギリシャ海軍では短い航続距離は特に問題ではなかった。水線部には高さ3.5mを防御する80mmから200mmの装甲が張られ、船体中央部の舷側装甲は副砲塔の基部までを覆い、厚さ175~180の装甲が張られた。主甲板の防御は51mmで、その上の主砲塔は前盾が160mm、側面は140mm装甲で防御されていた。本艦の防御装甲は同世代の装甲巡洋艦に比べ、1万トン台という排水量を考えれば極めて強固であり、舷側装甲厚200 mmという値を各国の艦と比較すれば、防御に優れるイギリス艦の152 mm、ドイツ・フランス艦の170~180 mmに勝って欧州最高峰であった。唯一比肩するのが大日本帝国海軍の筑波型巡洋戦艦(竣工時は装甲巡洋艦に属していた)の203 mmくらいであった。1829年に英・仏・露の介入によりオスマン帝国より独立したギリシャ王国は、エーゲ海を挟んで東に対峙するオスマンと厳しい緊張関係が続いていた。列強による強弱取り混ぜた介入政策によりオスマンは弱体化したといっても、建国まもないギリシャ王国には依然として強大な敵であった。ギリシャ海軍は少ない予算から1885年にノルデンフェルトの潜航艇第一号を購入したり、1892年にフランスより海防戦艦イドラ級3隻を購入したりと、着実にオスマン帝国海軍への対抗力をつけていた。だが、オスマン海軍には依然として近代化改装済みの装甲艦6隻と新型装甲艦1隻、蒸気フリゲート8隻が作戦行動可能なレベルに整備されており、完璧とは言いがたかった。その頃、地中海世界で躍進を続けるイタリア王国が装甲巡洋艦ジュゼッペ・ガリバルディ級の改良型艦を建造すると発表した。既にガリバルディ級は8隻が建造されたが、イタリア海軍に渡ったのは3隻だけで、残りは1隻がスペインに、4隻がアルゼンチンに売却されたが、内2隻は大日本帝国海軍に売却され、1905年の日露戦争で活躍した。イタリア海軍に納入された艦は、1912年の伊土戦争でオスマン帝国海軍のアヴニッラー級装甲艦アヴニッラーを撃破した実績もあった。(ベイルート海戦)オスマン海軍への対抗打に欠けていたギリシャ海軍は、イタリアから最新型の装甲巡洋艦を発注することとした。しかし、建国まもないギリシャにとって一隻数十万英ポンドもの大金を用意するのは並大抵の事ではなかった。そこへ、ギリシャを代表する海商王イェロギオフ・アヴェロフが海軍に数十万ポンドものの大金を寄付した。アヴェロフは愛国心溢れる富豪であり、1896年にアテネで開催された第1回近代オリンピックにおいて、競技を行う主競技場の建築代金 580,000ドラクマを肩代わりするという、歴史に残る偉業を遺した人物である。そのアヴェロフの献金により不足していた購入代金の1/3を補うことができた事を記念して、ギリシャ海軍で初の排水量1万トンを超える大軍艦の名に「イェロギオフ・アヴェロフ」を冠したのである。本艦は1909年にイタリアの大手造船会社オルランド社がリヴォリノ造船所にて輸出用に建造中していたピサ級装甲巡洋艦「仮称名 "X"」を、同年にギリシャが30万英ポンドで購入し、1910年3月12日に進水式を行い、翌1911年5月16日に竣工してギリシャへと引き渡したものである。就役後はギリシャ海軍の旗艦として艦隊の中核を成し、1912年10月17日に生起したバルカン戦争において、海防戦艦イドラ級3隻と駆逐艦14隻を率いてオスマン海軍と激しく戦った。同月18日から20日にかけてダーダネルス海峡封鎖を狙ってレムノス島占領作戦を成功に導いた。1912年12月16日にオスマン帝国海軍によるギリシャ反攻作戦が開始され、前弩級戦艦バルバロス・ヘイレッディン級「トゥルグート・レイス」「バルバロス・ヘイレッディン」の2隻と装甲艦「アサル・テヴフィク」と防護巡洋艦「メジディイェ」と駆逐艦4隻を率いて突撃してきた。これに対し、ギリシャ艦隊は旗艦アヴェロフとイドラ級海防戦艦3隻と駆逐艦4隻を率いて迎えうった。オスマン帝国艦隊は岸から充分に離れてから90度回頭した。これに対し、アヴェロフに座乗するコンドリオティス少将は本艦と優速な艦のみを率いて20ノットを下命、付いてこれない艦は自由行動とした。アヴェロフを旗艦とした高速艦隊は縦列陣を、装甲艦3隻は横列陣を採り前進する。オスマン帝国艦隊は9,000 mから射撃を開始したものの、重装甲なフランス製海防戦艦に戸惑っている内にアヴェロフに回り込まれて両方から砲弾を撃ち込まれる体たらくであった。慌てたオスマン艦隊の指揮官はダーダネルスへの撤退を命じた。しかし、艦隊は混乱に満ち満ちており、個々が互いに進行方向を妨害する始末で、オスマン装甲艦は敵艦への射線上に友軍の艦が入り込むのでオスマン艦隊は反撃を中断。その隙を突かれバルバロス・ヘイレッディンの艦後部に立て続けに砲弾が命中、機関室や石炭庫で火災が発生し中破した。トゥルグド・ルイスとメジディイェにも命中弾が出たが、こちらは大した損傷は出なかった。混乱するオスマン艦隊で戦果と呼べるものはメジディイェがギリシャ駆逐艦イェラクスに60発以上の120 mm砲弾を発射して追い払ったのが戦果らしい戦果だった。オスマン艦隊は我先へとダーダネルス海峡に逃げ込み、10時30分に戦闘は終了した。オスマン帝国艦隊はこの時に大小合わせて800発もの砲弾を発射したが、大口径砲弾の命中は唯一3,000 mまで近づいたアヴェロフに命中弾1発を出しただけで、それさえも強固な舷側装甲に弾かれた。むしろ小口径弾の方が命中弾が多く、アヴェロフに十数発の命中が確認され、1人戦死、7名が負傷した。他にイドラとスペツェスに命中弾が出たが、両方合わせて1名が重傷を負ったに過ぎない。なお、プサラは無傷であった。ギリシャ艦隊の圧勝で終わったこの海戦は「エリの海戦()」として戦史に残り、その名は1914年に中国経由でアメリカ合衆国より購入した軽巡洋艦エリとして残った。1913年には、先の海戦の影響で左遷させられた前任者に代わり、ラムシ・ベイ大佐がオスマン艦隊を率いており、主力艦4隻と駆逐艦13隻からなる艦隊が再びダーダネルス海峡を渡った。しかし、オスマン帝国艦隊がレムノス島まで13マイルまでに近づいたとき、ギリシャ艦隊が出撃してきた。アヴェロフの存在を確認したオスマン艦隊司令は退却を下命。しかし、コンドリオティス司令はこれを追撃、長距離砲撃戦が始まり、徐々に距離を詰めながら砲戦は継続され、約2時間はアヴェロフは5,000 mにまで接近し、トルコ艦隊に何度も命中弾を出した。砲撃を受けたバルバロス・ヘイレッディンとトゥルグド・ルイスは激しく炎上したが、さすがに前弩級戦艦であり、ダーダネルス要塞の射程まで逃げ込んで難を逃れた。しかし、「バルバロス・ハイレッディン」は2番主砲塔が使用不能となり、同じくトゥルグート・レイスも砲塔1基が破壊された。装甲艦アサル・テヴフィクは大破した。今回もオスマン帝国艦隊は大小砲弾合わせて800発を放ったが、人的被害はギリシャ艦隊全体で1名が運悪く重傷を負っただけであった。旗艦アヴェロフに命中した砲弾は戦闘能力を奪う損傷は与えていなかった。一方でオスマン帝国艦隊は戦艦2隻が中破、装甲艦1隻大破で、人的被害は31名戦死、負傷者は82名を数えた。今回もギリシャ艦隊の大勝利に終わり、この海戦は「レムノスの海戦()」として戦史に残り、その名はギリシャがエリに引き続きアメリカより準弩級戦艦ミシシッピ級2隻を購入し、海防戦艦キルキス級2番艦レムノスとして名が残った。バルカン戦争においてギリシャ艦隊の中核として戦闘のみならず、輸送作戦に従事した本艦は大きな損傷を受けることなく戦後を迎えた。第一次世界大戦時においてギリシャは連合側として参戦し、ギリシャ海軍はフランス海軍の指揮下に置かれた。フランスによって整備されたアヴェロフ以下ギリシャ艦隊は輸送作戦で海上護衛に従事した。同大戦後の希土戦争 (1919年-1922年)において、本艦は黒海のトルコ領を艦砲射撃する作戦に従事し、ギリシャ陸軍を支援した。しかし、トルコ軍の攻勢に戦線が維持できなくなってからは、本艦を含むギリシャ艦隊はイズミルからギリシャ本国へ脱出する避難民を乗せた船団を護衛する任務に就いた。その活躍もあり、1925年から1927年にかけてフランスで近代化改装が行われ、簡素な三脚式マストは前後同じ高さであったが、艦橋の基部を大型化したのに伴い、前部マストのみ大型で強固な物と更新され、頂上部にフランス式射撃方位盤を収めた円筒形の方位盤室と「X」字状の信号ヤードが設けられて現代の姿に近くなっている。武装関連では旧態化した魚雷発射管を全撤去し、水雷艇迎撃用の7.62 cm(40口径)速射砲の搭載数を8基に半減し、浮いた重量で7.62cm単装高角砲4基や各種対空火器を増備した。また、老朽化した機関を換装して近代化改装を終えた本艦は再びギリシャ艦隊の中核としてエーゲ海で活発な活動を行った。オスマン艦隊にはドイツより購入した巡洋戦艦ヤウズ・スルタン・セリムがあったが同艦は1918年10月から1923年まで連合軍に抑留されており返還後も連合軍の眼が光っており、ダーダネルス海峡から出ようとしなかったので問題は無かった。1937年に本艦はギリシャ政府の代表を乗せてジョージ6世戴冠記念観艦式に参加した。1939年に第二次世界大戦が勃発し、1941年においてギリシャに対するドイツの侵攻により(ギリシャの戦い)前線の崩壊の後に、ギリシャ海軍はドイツ軍に鹵獲されるのを防ぐために自沈を要求したが、本艦の乗組員は命令に背いて スーダ湾()に向けて出航した。ドイツ空軍による空襲の脅威の下、4月23日にクレタ島へ到着してから、本艦はアレキサンドリアに向けて出航し、現地で連合国に組み込まれた。 1941年8月から1942年の終わりまで、本艦はインド洋のボンベイやポートサイドを基地として船団護衛任務と哨戒任務に割り当てられた。1944年10月17日に本艦は自由ギリシャ海軍の旗艦として、連合軍により解放されたアテネに凱旋した。その後、1952年に除籍されるまで艦隊本部として使用された。本艦は1956年から1983年にかけてサラミスにあり、1984年から1986年にかけて記念艦へと改装されて現在もピレウス港にて公開中である。
出典:wikipedia
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