ドイツ駐留ソ連軍(ドイツちゅうりゅうソれんぐん、ロシア語:、ドイツ語:)は、1949年から1988年にかけて旧東ドイツに駐留していたソビエト連邦軍部隊である。1945年から1949年はドイツ占領ソ連軍、1988年から1994年は西部軍集団と呼ばれていた。ドイツに恒久的に駐留するソ連軍は1940年代後半から1989年まで北大西洋条約機構の脅威となっていた優れた地上基地所属の軍隊であり、冷戦期の軍事バランスの主要要素であった。駐留軍は第二次世界大戦の終結後、第1及び第2白ロシア方面軍から編成された。これらの部隊は、ポツダム協定を保証する諸規定の遵守を任務としていた。さらに、これらはソ連の政治・軍事上の利益を代表していた。1957年にソビエト政府と東ドイツ政府はソ連軍の駐留について、合意を発表し、駐留が東ドイツの障害になっていないことを示した。1979年から1980年にかけては、人員2万名・戦車千両が東ドイツ領内から撤退している。1980年代後半には、ペレストロイカの影響もあって、駐留兵力はより防御的な配置に再編成された。1989年からは兵力の大幅な削減が開始されている。駐留軍の将兵と東ドイツ市民とが接する機会は少なかった。例外は東ドイツに対する労働力支援で、駐留軍将兵が収穫の時期に農村へ派遣されたり、自然災害・産業事故の救援へ出動することがあった。また個別のケースとしては、脱走兵が市街地に逃げ込んで東ドイツ警察に取り押さえられたことが挙げられる。冷戦の終結とともに、ドイツ駐留ソ連軍も解体・撤退することになった。これはソビエト連邦の解体もあって、事業には困難が付きまとったが、1994年8月には撤退が完了している。部隊は陸路のポーランド経由のほか、ロストックやリューゲン島などの海路経由でも行われた。ソ連軍は、第6親衛自動車化狙撃兵旅団が1994年6月25日にベルリンでパレードを行い、6月11日にはヴュンスドルフ()で、8月31日にはベルリン南方のトレプトウアー公園にあるソ連軍の戦勝記念碑でセレモニーを行ったのを最後にドイツ領内から撤退した。なお「東ドイツは国土の約4分の1が在独ソ連軍の基地や演習場で占められていた」、「東ドイツは約26万人(東欧革命よりもかなり以前の時期の陸軍のみの兵力を指すと思われる)の在独ソ連軍に支払う思いやり予算の重圧で自然崩壊した」等の言説は、現在では西側マスコミによるプロパガンダだったというのが通説となっている。ソビエト軍は進駐した東ドイツの276ヶ所に777個の基地を設けた。これには47ヶ所の飛行場、116ヶ所の演習場が含まれている。兵力は1991年初頭において、24個師団、兵員338,000名に達しており、その数は東ドイツの国軍である国家人民軍(約15万人)より多かった。この兵力は西部軍集団として、5個軍および1個航空軍に編成されていた。士官の家族や軍関係の民間人も東ドイツに居住しており、民間人の数は9万人の子供を含めて約20万人にもなった。それらは主にブランデンブルク州に居住していた。1991年時の概算:1980年代末におけるソ連軍主力編成は下記を含む:こちらのには、駐留軍の全機動部隊が記されている。最初の3人の総司令官は、ドイツ占領地区のソ連軍政部長官を兼ねていた。
出典:wikipedia
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