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フレデリック・ノース (第2代ギルフォード伯爵)

第2代ギルフォード伯爵フレデリック・ノース(、1732年4月13日 - 1792年8月5日)は、イギリスの政治家、貴族。1754年にトーリー党の庶民院議員に初当選して政界入り。財務大臣や内務大臣など多くの閣僚を経験した後、1770年から1782年まで首相を務めたが、在任期間の後半はアメリカ独立戦争への対応に追われた。同戦争の戦況が悪化すると議会での支持を失い、辞職に追い込まれた。父がギルフォード伯爵位に叙せられた1752年から自身が爵位を継承する1790年までギルフォード伯爵家の法定推定相続人としてノース卿(Lord North)の儀礼称号で称された。首相在任時はこの儀礼称号で称されていた。フレデリック・ノースは1732年4月13日に、ピカデリーから直ぐのアルベマール通りにあった家族の家で、6人兄弟の総領として生まれた。ただし若い時はオックスフォードシャーにあるロクストン修道院で過ごすことが多かった。ノースが国王ジョージ3世に良く似ていたことから同時代の者達には、フレデリック王子がノースの本当の父である(つまり国王の兄である)と思わせた。王子の評判から有り得る話ではあったが、実際の証拠はほとんど無い。ノースの父、すなわち初代伯爵は当時フレデリック王子の侍従であり、王子はノースの名付け親になった。ノースは初代サンドウィッチ伯爵エドワード・モンタギューの子孫であり、サミュエル・ピープスやビュート伯ジョン・ステュアートとも繋がりがあった。ノースは当時父のギルフォード伯と幾分不穏な関係にあったが、大変密接な状態を維持した。ノースが若い時、家庭は裕福ではなかったが、父が従兄弟から資産を継承した1735年にその状態は改善された。母ルーシーは1734年に死去、父は再婚したが、継母のエリザベス・ノースもノースが13歳だった1745年に死んだ。異腹の弟の一人がウィリアム・ダートマス卿であり、生涯近しい友人となった。ノースは1742年から1748年までイートン校で学び、1750年にはオックスフォード大学トリニティ・カレッジで文学修士の学位を得た。オックスフォードを出た後は、ダートマスと共にヨーロッパを大旅行し、ライプツィヒ大学で学び、ウィーン、ミラノ、パリを巡って1753年にイギリスに戻った。1754年4月15日、ノースは22歳でバンベリー選挙区から下院議員に無投票で選出された。このときから1790年まで下院議員を務めた。1759年6月2日に初代ニューカッスル公トマス・ペラム=ホールズと初代チャタム伯ウィリアム・ピット(大ピット)の連立内閣に財務次官として初入閣した。間もなく良い行政官、議員としての評判を獲得し、概して同僚にも好かれた。当初はホイッグ党員だと考えていたが、多くの同時代人にとって、ノースの考え方はトーリー党寄りであることが明白になり、議会のホイッグ党の誰とも密接な連携をくむことは無かった。1763年11月、ジョン・ウィルクスの問題に関して政府を代表して演説する者に選ばれた。ウィルクスは下院議員であり、その急進的新聞「ザ・ノース・ブリトン」で首相や国王に対して中傷的な攻撃をしたと多くの者が考えていた。ノースが提案したウィルクスを下院から追放するという動議は173票対111票で可決された。ウィルクスは決闘をした後でフランスに逃亡しており、その欠席のままで除名が決まった。1765年に権力を得たホイッグ党の有力者であるロッキンガム侯チャールズ・ワトソン=ウェントワースによって政府が動かされるようになると、ノースは閣外に去り、暫くは平議員となった。ロッキンガム侯からの再入閣提案があったが、内閣を支配している富裕なホイッグ党高官と付き合うことになるのを恐れたことが大きく、それを断った。1766年に大ピットが第二次内閣として戻ってきたときにノースは復帰した。ピット内閣で陸軍主計官に指名され、枢密院顧問になった。ピットが病気がちだったので、政府は実質上グラフトン公オーガスタス・フィッツロイによって運営され、ノースはその最上級メンバーの一人だった。1767年12月、ノースはチャールズ・タウンゼンドの後を受けて財務大臣となった。翌1768年初期に国務大臣ヘンリー・シーモア・コンウェイの辞任により下院院内総務にもなり、ピットの後継者であるグラフトン公の下で仕え続けた。1770年1月28日、グラフトン公が首相を辞任したことを受けて、ノースが首相となった。その閣僚や支持者達はトーリーと呼ばれるようになったが、これは正式な党派ではなく、多くの者は以前ホイッグ党に属していた。ノースは七年戦争の後で勝利国イギリスを引き継ぎ、イギリス帝国はその頂点に達しているように見えた。諸般の事情によりその前の閣僚の多くをそのまま就かせておくことを強いられたが、ノースの考えへの同意は得られていなかった。ノース政権は1770年の戦争寸前までいったフォークランド危機で、スペインのフォークランド諸島占領の試みを屈服させ、初期の成功を掴んだ。フランスもスペインも七年戦争でイギリスが勝利した後は、イギリスが支配していると受け取られることに不満なままだった。しかし、ルイ15世はフランスが戦争できる状態ではないと考え、イギリス艦隊の強力な機動性を前にして、スペインに妥協を強いた。ルイ15世はイギリス侵略を提唱していたタカ派の宰相であるエティエンヌ・フランソワ・ド・ショワズールの解任までした。政府の権威と人気はこの事件で大きく持ち上げられた。フランスとスペインの間にうまく楔を打ち込み、イギリス海軍の力を誇示した。ただし、このことでノース卿にあるレベルの自己満足を与え、ヨーロッパ列強はイギリス植民地の事情に干渉することはないという誤った考えを植えつける事になったという批評家がいた。2年前のコルシカ危機ではイギリスの同盟相手であるコルシカ共和国をフランスが併合するの妨げられなかった前政権とは対照的になった。ノースは新たに築かれた人気を使って、第4代サンドウィッチ伯爵ジョン・モンタギューを初代海軍大臣に指名する機会を捉えた。ノース政権の大半は先ずアメリカ植民地との大きくなっていく問題に、そして後にはレキシントン・コンコードの戦いに続いて1775年に勃発したアメリカ独立戦争に集中した。ノースはジョージ・ジャーメイン卿(旧姓サックヴィル)をアメリカ植民地担当国務大臣に任じて彼に戦争の全体戦略を練らせた。フランスなどの外国勢力が介入してくる恐れ、また財政悪化からイギリスは短期決戦を志向した。しかし1777年10月にサラトガで孤立していたジョン・バーゴイン将軍が降伏したことで短期決戦論は破綻した。12月にバーゴイン降伏の報が本国に伝わるとイギリス政界は大きな衝撃を受けた。また1778年2月になるとアメリカとフランスが同盟を結び、その噂がイギリスにも伝わった。危機感をもったノースと議会はアメリカとの和解を考えるようになり、1778年2月には和平団をアメリカに送ることが議会で可決された。その決議に基づいて同年6月に第5代カーライル伯爵フレデリック・ハワードを団長とするカーライル和平使節団がアメリカに到着し、本国の課税権を放棄するという内容の交渉を行ったが、フランスの味方を得たアメリカにとっては今更な内容であり、和平案は拒絶された。カーライル使節団は何の成果もないまま帰国してきた。1778年6月にはアメリカと同盟するフランスと戦争状態に突入した。フランス参戦により戦争は七年戦争の再来という意味も併せ持つようになり、戦闘は北アメリカ大陸から西インド諸島、西アフリカ、インドに拡大していった。しかし王立海軍の規模は軍縮で七年戦争の頃より縮小していたので各地で苦戦を強いられた。野党は海軍大臣サンドウィッチ伯爵の海軍力維持の怠りについて批判を強めた。同時期アメリカではヘンリー・クリントン将軍率いるイギリス軍がフィラデルフィア撤退を余儀なくされ、ジョージナ・サヴァンナを占領して支持が期待できる南部アメリカを主戦場に移した。南部では1780年に至るまでイギリス軍が優位を保ち続け、1780年8月にはコーンウォリス伯爵チャールズ・コーンウォリス率いる英軍がキャムデンの戦いに勝利している。しかし国際的状況はイギリスにますます不利になっていた。1779年6月にはスペインがフランスの同盟国として参戦し、英領ジブラルタルに対する包囲攻撃を開始した。さらには1780年にマイソール王国やオランダが参入し、戦闘は南インドと南アフリカケープ植民地にも拡大。ロシアも「武装中立」を宣言し、中立とは名ばかりの反英的姿勢をとった。さらにロシアは同年中にデンマークやスウェーデンとともに武装中立同盟を結成し、後にはオーストリアやプロイセン、ポルトガルもこの同盟に加わった。こうしてイギリスは同盟国が一つも無いままに4大陸で地球規模の戦争をすることになった。深刻な人員不足に直面したノース政権は、以前にカトリック教徒が軍務に就くことを禁じた法律を撤廃する法案を可決した。このことで反カトリック感情を急激に高まらせ、ロンドンでのに繋がった。国内議会においては1780年後期からノース内閣の立場は若干回復していた。アメリカ南部での戦局が比較的安定していたためだった。しかし1781年夏になると南部の戦況もイギリスの劣勢が目立ち始めた。コーンウォリス伯はヨークタウンへ撤退したが、ニューヨークから派遣されたイギリス艦隊はフランス艦隊に阻まれて現地に到着できず、ヨークタウンで孤立したコーンウォリス伯は1781年10月19日に降伏した。これは独立戦争のイギリスの敗戦を決定づけた。コーンウォリス伯降伏の報は1781年11月下旬にイギリス本国に伝わり、本国政界はすさまじい衝撃を受けた。これはノース内閣にとって致命的打撃となった。野党の批判が高まったのはもちろんのこと、政権内部も分裂し、まず1782年2月にジャーマインが辞職に追い込まれた。しかし野党の政府批判の機運はもはやこれだけでは収えられなかった。同年2月22日にはアメリカでの戦争終結を求める動議が提出された。同動議は234対215で否決されたが、同月27日には同じような内容の動議が再度提出されて今度は234対215で可決された。さらに3月8日と3月15日にはノース内閣不信任案が提出された。どちらも僅差で否決されているものの、もはや庶民院におけるノースの求心力は無くなったことは明白だった。ノースは3月20日をもって首相職を辞した。ノース卿の辞職後、第二次ロッキンガム侯爵内閣が成立したが、同年7月にロッキンガム侯は死去。国王ジョージ3世の人選によってシェルバーン伯爵内閣が成立したが、フォックス派はそれに反発して下野した。皮肉な事に1782年はノース卿やサンドウィッチ伯が採用した政策が大きくものを言って海軍が勝利し、戦争はイギリスに再度傾きかけた。1783年にイギリスはノースが辞めさせられたときよりもかなり有利な休戦条件を設定する事ができた。首相退任時ノースはいまだ49歳だったので政界からの引退は考えてはいなかった。庶民院内にはいまだ彼を支持する保守派議員が数多くいた。1782年秋の庶民院勢力図はシェルバーン伯爵派(政府派)140議席、ノース卿派120議席、フォックス=ポートランド派90議席、独立系・去就不明200議席となっていた。ノースに再起の野望があることが判明すると政府もフォックス派も彼への接近を図った。ノースは選べる立場にあったが、1783年に入った頃には急進派のフォックスとの同盟に傾いていた。そして同年2月14日のノースとフォックスの会談によって両者の連合が確認された。正反対と見られていた両派の連携は世間を驚かせた。その背景は第一にはノースの権力欲、加えてノースがアメリカ独立戦争敗戦の失政の弾劾から逃れたがっていたことがある。世間向けの大義名分として政府の講和条約反対があったこともある。この両派の連携で1783年2月19日と21日の議会でシェルバーン伯爵内閣の講和条約案非難決議が可決され、シェルバーン伯内閣は総辞職に追い込まれた。これにより国王ジョージ3世は、しぶしぶ第3代ポートランド公爵ウィリアム・キャヴェンディッシュ=ベンティンクを名目上の首相とするフォックス=ノース連合に組閣の大命を与えた。ノース卿は同内閣に内務大臣として入閣した。しかしジョージ3世は急進的で共和主義者のフォックスを忌み嫌い、このことを裏切りとして許さなかった。この内閣が倒れたその年の12月でノースの閣歴は終わった。この連立内閣の大きな成果の一つはアメリカ独立戦争を終わらせるパリ条約に署名したことだった。新しく首相になったウィリアム・ピット(小ピット)は長持ちするとは考えられず、ノースは声に出してピットを批判し、再度首相に復帰できる望みを抱いていた。しかしピットはその後20年間も政界に君臨し続け、ノースとフォックスは野党のままだったので、憤懣が募ることになった。ノースは失明した1790年に下院を去り、その後直ぐに父のギルフォード伯爵を継承し、晩年を貴族院で過ごした。ロンドンで1792年に亡くなり、彼のロクストン修道院の家に近いオクスフォードシャー州ロクストンのオールセイント教会に埋葬された。息子のジョージ・ノースがバンベリーの選挙区を継承し、1792年には父の爵位も継いだ。皮肉なことに、ノースの家ロクストン修道院は現在、アメリカのフェアリー・ディキンソン大学所有になり、改修された修道院はアメリカから来る留学生が勉強する場所となっている。1790年8月4日の父の死去により以下の爵位を継承したノース卿は今日「アメリカを失った」首相として記憶されている。ノースカロライナ州ギルフォード郡はノース卿の父に因んで名付けられた。ギルフォード郡は1771年に創設され、今日郡内にはグリーンズボロやハイポイントの都市があり、ノースカロライナ州で3番目に人口の多い郡となっている。エディンバラ城に展示されている18世紀のドアにはアメリカ独立戦争の間に捕まえられた囚人によって彫られた「ノード卿」と記された処刑台が見られる。ノースは1756年にアン・スピーク(1741年-1797年)と結婚した。夫妻には次の6人の子供が生まれた。「なんてことだ! 全ては終わりだ」 - ヨークタウン降伏の報せを聞いたとき

出典:wikipedia

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