暴力革命(ぼうりょくかくめい)とは、武力を用いた革命を指す。平和革命の対義語。武力革命、武装革命と同義語。1848年、マルクスとエンゲルスは『共産党宣言』の中で次のように書き、暴力革命の方針を明確にした。また1875年、マルクスは『ゴータ綱領批判』でプロレタリア独裁を主張し、平和的な社会改良を主張するラッサール主義を、「日和見主義」と批判した。しかし、1872年には、マルクスは第一インターナショナルで次のように演説し、平和革命の可能性にも言及した。また1895年に、エンゲルスは次のように書き、普通選挙による合法活動を評価し、バリケードによる市街戦が時代おくれになったと指摘した。レーニンは1902年の『なにをなすべきか』で、平和革命を認める修正主義を「日和見主義的な経済主義」と批判した。また1940年代の平和革命を認める構造改革路線も、マルクス・レーニン主義の立場からは「日和見主義」と批判された。東欧革命は、社会主義を打倒して資本主義化をもたらした。マルクス主義からは反革命である。革命自体はレーニンのテーゼとは無関係で平和革命として推移し、暴力革命になったのはルーマニアだけであった。ユーゴスラヴィアは、民主化は平和的に進行したが、その後構成共和国や自治州の独立をめぐって内戦になった。内戦自体は革命でも反革命でもない。1950年1月、コミンフォルムは機関紙において日本共産党が進めていた「占領下の革命」論(平和革命論)を批判した。そのため党内では批判に反論する所感派と、批判を受け入れる国際派などに分裂する事態が起こった。朝鮮戦争勃発後の1951年2月23日、当時主流派だった所感派は第4回全国協議会(四全協)において武装闘争路線をとることを決定した。その後、コミンフォルムによる分派認定を受けた国際派が(当時の共産主義運動は国際的に一つに結束しており、コミンフォルムから分派と認定されると共産党としての正統性を失う状況にあった)自己批判することで統一を回復し、その直後に直後に開催された第5回全国協議会(五全協)において、農村部でのゲリラ戦を規定した「51年綱領」が採択された。しかし、1952年の血のメーデー事件の直後の衆議院議員選挙で、全議席を喪失するなど、国民が暴力革命を望んでいないことは明らかであった。また同年には暴力主義的破壊活動を禁じる破壊活動防止法(破防法)が制定されて日本共産党が主要な調査・監視対象にされるなど、非常に不利な状況に立たされた。1953年に朝鮮戦争が終結、主流派所感派のリーダーであった徳田球一が死去すると、1955年に開催された日本共産党第6回全国協議会(六全協)において、日本共産党の武装闘争路線の放棄が決議された。これを不満とする党員は、新左翼(共産党はニセ「左翼」暴力集団と呼ぶ)結成へと動いた。〈51年綱領〉は1958年の第7回党大会で正式に廃棄された。ここで否定されたのはこれまで行ってきた武装闘争路線の放棄であり、暴力革命そのものを否定しているわけではない。敵の出方論といわれる、議会を通じた政権獲得後に内外の反動勢力(権力や右翼など)がクーデターなど非平和的な手段に訴えない限り政治暴力は行使しない、というものである。第7回大会の報告のなかでは、宮本顕治によって平和革命一元論が否定されていた。この事などが、現在でもなお破壊活動防止法による調査対象団体に日本共産党が含まれる理由となっている。その後、1970年代には〈暴力〉の訳語はふさわしくないとして、〈強力革命〉と言い換えることとした。主に発展途上国では暴力革命を目指す共産主義組織が時折テロや暴力事件を起こすことがあるが、現代の日本含め先進国では暴力革命を主張・実践する左翼組織は警察の厳しい監視下にあり、事を起こすのは極めて難しくなっている。また、仮にテロをしても一般大衆の共感を得る可能性が低いのが21世紀を迎えた現状である。そのため、過去に暴力革命を掲げた組織が路線転換していることもある。現代の日本の場合、1960年代から1970年代にかけて一世を風靡した暴力革命を主張する新左翼の組織が若手獲得と組織維持のためにソフト化しているケースもある。ただ、これは暴力革命路線の放棄を意味するものではなく、あくまで一時的なペンディングであるとされ、組織を建て直し次第再びテロをする可能性があるため、日本の公安警察は警戒している。
出典:wikipedia
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