ネルソン・ピケ・ソウト・マイオール("Nelson Piquet Souto Maior" 、1952年8月17日 - )は、ブラジル・リオデジャネイロ生まれの元F1ドライバーであり、F1世界選手権で1981年・1983年・1987年と、3度のドライバーズチャンピオンに輝いた。愛称は「自由人」。ピケとは母方の姓であり、父親に隠れてレース活動をするために名乗ったものである。日本では1980年代初頭まで、英語読みの「ピケット」と表記されていた。1980年代のF1を代表するドライバーの1人であり、アラン・プロスト、ナイジェル・マンセル、アイルトン・セナは、日本では纏めて「F1四天王」や「四強」と称された。シーズン終盤の勝負強さ、効率の良さが持ち味の1つであり、3度のF1タイトルのうち2度は最終戦での逆転というかたちで獲得している。また年間最多勝利数は1986年の4勝(チャンピオン獲得時に限ればいずれも3勝)と、同時期のライバルに比べ優勝回数は多くない一方で、ランキング3位以内に入ったシーズンには、66~75%の入賞率を記録している。3度のタイトル獲得は、いずれも異なるエンジンメーカーで記録した(1981年フォード、1983年BMW、1987年ホンダ)。自身にとって最盛期といえる1980年代前半から中盤はターボエンジンの全盛期と重なっており、獲得した3つのタイトルのうち、1981年にブラバム・フォード(コスワースDFVエンジン)で獲得したものを除く2つはいずれも、ターボエンジンを搭載した車で獲得した。そのことから、ブラジル本国では「ターボ時代の王」という形容がしばしばなされる。ドライバーとしての評価以外にも、数多くの女性の間を渡り歩く艶福家ぶり、モナコの海に漂うクルーザーを自宅とする優雅さなど、独特な一面の多い人物だった。息子のネルソン・ピケJr.(ネルソン・アンジェロ・ピケ)もルノーF1のテストドライバーを務め、2008・2009年とルノーからF1に参戦した(2009年はシーズン途中まで)。父親は政治家で、ジョアン・ゴウラール政権下(1961年 - 1964年)において保健相を務めた人物である。そのため、1960年のブラジリア遷都に前後して、一家は新首都ブラジリアに移り住んだ。14歳の頃にカートを始めたが、息子がモータースポーツをすることを望まなかった父親に隠れて活動できるよう母親の旧姓(Piquet)を「Piket」と故意に誤って綴り、初期のレース活動はこの名でエントリーをした。息子をプロテニ11ス選手にしようと考えていた父親により、高校時代になると米国のアトランタにテニス留学をさせられ、その適性を評価された。しかしピケ本人はテニスには関心がなく、自動車レースへの情熱を持ち続けたため、結局モータースポーツに打ち込むこととなる。1971年にはブラジルカート選手権においてチャンピオンとなり、翌1972年も連覇。1974年に父親を亡くすが、その後もレースを続け、1976年にジュニア・フォーミュラのフォーミュラ・Veeでチャンピオンとなる。当時ブラジル人唯一のF1ワールドチャンピオンで、かつブラジルのフォーミュラ・Veeにおいて大きな影響力を持っていたエマーソン・フィッティパルディに目をかけられ、その助力もあって翌1977年はヨーロッパに活躍の舞台を移し、ヨーロッパF3選手権に参戦。初出場で、しかもシーズンフル参戦したわけではないにもかかわらず、ランキング3位に入るという結果を残した。1978年第11戦ドイツグランプリにて、エンサインからデビュー。その後、第12戦オーストリアグランプリから第14戦イタリアグランプリまで、マクラーレン・M23を使用するカスタマーチーム・BSファブリケーションから参戦、イタリアグランプリで9位初完走を果たした。第15戦アメリカ東グランプリを欠場後、最終戦カナダグランプリにはブラバムにて出走(11位完走)。これは、翌1979年よりニキ・ラウダのNo.2ドライバーとして、ブラバムに移籍することが決まっていたが、オーナーのバーニー・エクレストンの計らいにより、同年中から出走が実現したものであった。フル参戦1年目ながら、第6戦ベルギーグランプリ、第9戦イギリスグランプリで予選3位につけるなど速さを見せ、若手の有望株として注目を集めた。アルファロメオ製V型12気筒エンジンの信頼性が低く、なかなか結果には繋がらなかったが(結果的に15戦中リタイヤ9回)、第12戦オランダグランプリでは4位に入り、初入賞を果たした。また第14戦カナダグランプリのフリー走行後に、チームのエースドライバーだったニキ・ラウダが突如引退を表明。ピケはNo.1ドライバーに昇格することとなった。最終戦アメリカ東グランプリでは、予選2位とフロントローを獲得している(決勝は8位)。この年マシンの戦闘力は大幅に向上し、開幕戦アルゼンチングランプリ では、2位初表彰台を獲得。第4戦アメリカ西グランプリでは、予選で初ポール・ポジション(以下:PP)を獲得し、決勝でも終始トップを走行し初優勝、ファステストラップ(以下:FL)もマークした。その後も安定してポイントを積み重ね、ウィリアムズのアラン・ジョーンズとチャンピオン争いを展開、終盤には第11戦オランダグランプリ・第12戦イタリアグランプリを連勝し、ランキングトップに立った。しかし第13戦カナダグランプリではトップ走行中にエンジントラブルでリタイヤ、このレースで優勝したジョーンズに逆転を許した。続く最終戦アメリカ東グランプリも電気系トラブルでリタイヤとなり、ランキング2位に終わった(計3勝、2PP)。チャンピオンは逃したものの、14戦中入賞10回(うち表彰台6回)と、後に持ち味となる安定感を発揮。ここから、エースとしてチームの第2期黄金時代を作り上げることとなる。ジョーンズ及びカルロス・ロイテマンのウィリアムズ勢とチャンピオン争いを展開。第3戦アルゼンチングランプリにて、シーズン初優勝をポール・トゥー・ウィンを達成すると、第4戦サンマリノグランプリも連勝した。その後5戦中4度のリタイヤとやや停滞するも、第10戦ドイツグランプリでシーズン3勝目を挙げて以降は、連続入賞でランキングトップのロイテマンを猛追した。ランキングで同率首位で迎えた第13戦イタリアグランプリでは、2位走行中の最終周にエンジントラブルでストップ(6位完走扱い)。残り2戦で3ポイントのビハインドを抱えるが、しぶとく食らいつき、1ポイントのビハインドで最終戦ラスベガスグランプリを迎えた。酷暑の中の開催となったこのレースで、ピケは失神寸前の状況に陥りながらも5位に入り、一方のロイテマンはノーポイント(8位)。第2戦ブラジルグランプリ以降、ランキングトップを守っていたロイテマンを上回り、最終戦での逆転という形で、自身初の王座を手にした。この年、ピケがランキング単独トップとなったのは、この最終戦だけであった。ブラジル人としては、エマーソン・フィッティパルディに次いで2人目となった。この年も15戦中入賞10回(うち表彰台7回)と、安定した成績を残し、予選では4度のPPも獲得した。BMW開発のターボエンジンの完成度が低く苦戦。前年のフォードNAエンジン搭載車で走った第2戦ブラジルグランプリではトップでゴールしたものの、最低重量違反で失格。第7戦デトロイトグランプリでは、予選落ちまでも喫した。第8戦カナダグランプリでは優勝したものの、その後もシーズンを通しては苦戦を強いられることとなる。第12戦ドイツグランプリでは、シーズン2勝目のチャンスが巡ってきたが、エリセオ・サラザールを周回遅れにする際、サラザールに接触されリタイヤとなった。結局、ランキングで僚友リカルド・パトレーゼより下の11位に終わった。開幕戦ブラジルグランプリで優勝を飾るが、以後はルノーのアラン・プロストに後塵を拝し、優勝に手の届かないレースが続いた。一方でポイントは安定して積み重ね、終盤においてもチャンピオンの可能性を残していた。そんな中第12戦オランダグランプリでは、シーズン初のPPを獲得。決勝でもスタートからトップを走行するが、バトルの中でプロストに接触され両者リタイヤした。ピケのマシンは既にトラブルを抱えており、実はプロストはもう数周待てば難なく首位に立てる状況だったという。この接触から、シーズンの流れが大きく変わることとなる。オランダグランプリ終了時点では、残り3戦でプロストに14ポイントのリードを許していたピケだが、第13戦イタリアグランプリ・第14戦ヨーロッパグランプリを連勝、2ポイント差にまで詰め寄り、最終戦南アフリカグランプリを迎えた。南アフリカグランプリは終始ブラバム勢のペースとなる中、プロストは早々リタイヤ。無理をする必要がなくなったピケは、パトレーゼを先行させるなど徹底的に安全策を取る走りで3位フィニッシュ、1981年同様最終戦での逆転という形で2度目の王座を獲得した(シーズン3勝)。この年は全15戦中入賞10回(うち表彰台8回)を記録し、安定した成績も初チャンプ獲得時と同様であった。ブラバムで2度王座に就いたドライバーはピケが初であり、結果的に唯一となった。1984年はマクラーレン・ポルシェがラウダとプロストのコンビでシーズンを席巻。ピケは予選でこそ、当時のシーズン最多記録となる9度のPPを獲得、決勝でも3度のFLなど速さを見せたが、優勝は2度。全16戦中リタイヤが9回にのぼるなど、マシントラブルが多発したこともあり結果がついてこず、ランキング5位に留まった(入賞6回・うち表彰台5回)。ブラバムの戦闘力はさらに下降気味であり、前年以上の苦戦を強いられた。 ピレリタイヤのタイヤ選択がはまった第7戦フランスグランプリでは勝利を挙げるが、これを含め表彰台は2度、入賞自体も5度に留まり、ランキングは8位と更に下がってしまった。1978年から所属したブラバムは既に自分のチームになっており、ピケは翌シーズンもブラバムに残留することを考えていた。しかし、結果的に契約金が少なかった事への不満から、チーム能力がブラバムと同等であるウィリアムズに移籍することを決めた。完全No.1待遇での契約だったが、オーナーのフランク・ウィリアムズが開幕前に交通事故で下半身不随になる混乱の中、イギリスのチームであるウィリアムズは、内部でイギリス人であり前年に初勝利を挙げたナイジェル・マンセル派と、エンジンを供給するホンダがバックアップするピケ派に二分された。元々ピケのウィリアムズ入りはホンダ側が強く望んだもので、ピケとの契約にあまり乗り気ではなかったウィリアムズ側を説得するため、ピケの年俸の一部をホンダが肩代わりしていた。ピケとマンセルは、互いの情報を一切共有しようとはしなかった上、ホテルのロビーで隣同士になっても、挨拶するだけという関係であった。この年はピケが4勝、マンセルが5勝を挙げてコンストラクターズ・チャンピオンシップでは1位になるものの、ドライバーズチャンピオンはマクラーレンのプロストにさらわれた(マンセルが2位、ピケは3位)。第2戦サンマリノグランプリ予選中、高速コーナー・タンブレロにて激しいクラッシュに見舞われ、レースを欠場。その後も充分な睡眠を取れないなど、クラッシュの後遺症にシーズンを通して悩まされ続けることとなる。しかし、6勝ながら勝つかリタイヤかという極端な成績だったマンセルに対し、体調が万全でない中、2位7回など勝てないレースでも確実にポイントを積み重ね、第8戦ドイツグランプリ以降ランキングトップの座を維持。そして第15戦日本グランプリにて、逆転王座の可能性を残すマンセルが予選中にクラッシュ。背骨を痛めて出場不可能となり、決勝を迎えずしてピケが3度目且つ最後のチャンピオンに輝いた(シーズン3勝)。この年は全16戦中入賞12回(うち表彰台11回)と、チャンピオン獲得年の中でも特に安定した成績を残している。PPは4回。この年を最後に、チーム支援がマンセルに傾いているウィリアムズを離れ、当時最強とされたホンダ・エンジンが供給されていたロータスに移籍することとなった。前年からの残留となった中嶋悟をセカンドドライバーとし、ファーストドライバーとして迎え入れられるが、重心が高くコーナリング性能の劣るマシン「100T」に苦戦を強いられることとなる。開幕戦ブラジルグランプリ・第2戦サンマリノグランプリでは連続3位表彰台を記録するが、サンマリノグランプリではマクラーレン勢に周回遅れにされ、ノンターボのベネトン・B188を駆るアレッサンドロ・ナニーニと同等のバトルを繰り広げる羽目となる。次第に成績は下降。最高位は3度の3位に留まり、入賞は7回。ランキングは6位に終わった。翌1989年にはホンダエンジンを失い、非力なジャッド製V型8気筒エンジンを搭載した101をドライブすることになる。戦闘力が前年以上に落ちたこともあり、成績は入賞4回で表彰台なし、ランキング8位と更に下降。第11戦ベルギーグランプリでは、6年ぶりの予選落ちを喫している。結局、ロータスでは1勝も挙げられなかった。ベネトンに移籍し、アレッサンドロ・ナニーニとコンビを組んだ。ギャラを完全出来高制(1ポイント獲得につき10万ドル)にするという異例の契約の中、開幕から堅実に入賞を重ね存在をアピール。そして第15戦日本グランプリでは、ナニー二の代役・ロベルト・モレノを従え、3年ぶりの優勝をチーム初の1-2フィニッシュで遂げる。続く最終戦オーストラリアグランプリでも優勝し、2連勝でシーズンをしめくくり評価を取り戻した(このグランプリは、F1創設から通算500戦目のメモリアルレースでもあった)。最終的に16戦中12度の入賞(うち表彰台4回)を記録し、ランキング3位に食い込んだ。前年の日本グランプリでの2位を評価されての加入となった同胞モレノをチームメイトに迎え、可愛がっていた後輩とのタッグとなった。第5戦カナダグランプリでは、スタートから終始トップを走っていたマンセルが最終ラップにストップし、土壇場で逆転勝利を収めた。これはピレリにとって5年ぶりの勝利で、ピケのF1での最後の優勝となった。第11戦ベルギーグランプリで3位入賞、これがF1最後の表彰台となる。続く第12戦イタリアグランプリでは、F1通算200戦目を記録、決勝では6位に入賞し自ら記録に華を添えた。だが、チームはレース直前にモレノとの契約を一方的に解除し、メルセデスのバックアップを持つ新人ミハエル・シューマッハを、ジョーダンから引き抜き加入させていた。このことでチームに不信感を抱いたピケは移籍を決意し、リジェなどと交渉したが契約には至らず、そのままF1を引退することとなった。最後となった、最終戦オーストラリアグランプリの成績は4位(豪雨のため14周で打ち切られた)。この年は全16戦中入賞8回・うち表彰台3回の成績で、ランキングは6位だった。F1での通算出走数204は、2011年現在歴代9位である。F1引退後、1992年にはインディ500へ参戦。しかし予選前の練習走行中にスピン、コンクリートウォールにノーズから突っ込む大クラッシュを起こし、両足を複雑骨折してしまう。足の切断も検討されたほどの状態だったが、何とか免れ、その後懸命のリハビリで回復。翌1993年には再びインディ500への参戦を果たし、予選を13位で通過したが、決勝レースはマシントラブルでリタイアし33台中32位に終わっている。その後もスパ・フランコルシャン24時間レース(1995年、1997年)、ル・マン24時間耐久レース(1996年、1997年)、南米F3(1998年)などに出場した後、ドライバーとしてのキャリアを終えた。2000年に国際モータースポーツ殿堂入りした。ドライバーとして引退して後はブラジリアを拠点に各種事業を展開している。主なものだけでも、レースチーム「ピケ・スポーツ」のようなモータースポーツ関連の活動以外に、ブラジル内陸の貨物輸送がトラック輸送に依存しているという点に着目し、GPSを用いた監視業務を行う会社Autotrac社を創業している。また、ピレリタイヤのブラジルにおける販売権の一部を有し、一方でBMWの輸入代行業も手がけるなど、さまざまな事業活動を行っている。ピケの走りは、チャンピオンを獲得した際に見せたシーズン終盤の勝負強さ等から、爆発的な速さよりも確実性を伴ったものというイメージを持たれている。しばしば「走りのアーティスト」と称されたその走りは、無駄がない反面クセがなさすぎてややインパクトに欠けるとも言われた。クレバーなドライバーであったことと全盛期のブラバムのゴードン・マレーの才能、バーニー・エクレストンがオーナーであり現在のようにコマーシャリズムに振り回されない時代という当時の状況がピケのスタイルに合っていたという意見もある。1986年にはハンガリーグランプリでアイルトン・セナとのバトルの際、アウトからドリフトで仕掛け、そのままカウンターを当てて抜くと言う荒業を成功させ、チャンピオンが掛かっていた最終戦オーストラリアグランプリでは、最終周にファステストラップをたたき出す攻めのレースを見せている。ピケのドライビングテクニックとして知られているものに、滑らかなシフトワークがある。ギアを飛ばすことなく、一段一段早く正確にギアシフトを行い、メカニックがレース後にトランスミッションを開くと、まるで新品同様の状態を保っていた(他のドライバーではすり減ってほとんどなくなってしまうドッグリング)と、日本のTV番組に出演した際津川哲夫が語っている。特に、シフトダウン操作が非常に上手かったと言われている。ホンダのスタッフとして、上記の四強全員と組んだ経験を持つ桜井淑敏は、「シフトワークのピケ、ステアリングワークのマンセル、タイヤ使いのプロスト、アクセルワークのセナ」とそれぞれを称している。父親は大富豪であり、ブラジル政府で閣僚を務めていたほどであった。そのため、ピケを一流のテニスプレイヤーにしようとアメリカ留学させたほどである。しかし、レースの魅力に取りつかれ、半ば勘当同然に家を飛び出し、赤貧にあえぎながらも、レース活動を行っていた。その時知り合ったのが、ロベルト・モレノである。プライベートを大事にすることは、ブラバム時代のニキ・ラウダに影響されたことが大きい。普段はモナコの海に漂う豪華なクルーザーに住む等、さまざまな面で独特の人物であった。前述した1992年の事故以降、足の小指から爪がなくなってしまった。また、今でも歩く際には痛々しく足を引きずっている。2007年6月にはスピード違反や駐車違反などにより自動車運転免許を取り消され、7月より自動車教習を受け直すことになった。大変な艶福家としても知られ、本人も複数のガールフレンドの間を渡り歩く様子を隠そうとはしなかった。複数の女性との間に子供をもうけ、当のピケ本人をよそに、女性間では正妻がどちらかという争いが起こったこともある。ピケのプライベート・ジェットに同乗していたジャン・アレジによると、ピケは機内で衛星電話を片手に、これからどの恋人と会おうか真剣に考えていたという。前述したように母親は異なるが、認知を受けている子供としては、長男ジェラルド、次男ネルソン・アンジェロ、三男ラスツロ(Laszlo)、長女ケリー、次女ジュリア、四男ペドロ、五男で末子のマルコがいる。中でもネルソン・アンジェロは父親と同じくフォーミュラカーの分野で活躍しており、“ネルシーニョ・ピケ”、あるいは“ネルソン・ピケJr.”として有名である。そのレース活動を全面的にサポートし、F1のテスト走行にも帯同するなど、同じく二世ドライバー(ニコ・ロズベルグ)を持つケケ・ロズベルグとともに「親バカ」ぶりが話題になった。他の兄弟も、長男ジェラルドはブラジル国内のトラック選手権で活躍しており、四男のペドロも2006年にブラジルの国内カート選手権の初級クラスを最年少で制するなど、ネルソン・ピケを嚆矢にレース一族を形成しつつある。長子のジェラルドから末子のマルコまで、歳の差は23歳ある。その活躍を記念して、1988年にはリオデジャネイロのジャカレパグア・サーキットがネルソン・ピケ・サーキットに改名された。2010年現在、ピケは自らの名が冠せられたコースでレースを行った唯一のF1ドライバーである。
出典:wikipedia
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