石川 淳(いしかわ じゅん、1899年(明治32年)3月7日 - 1987年(昭和62年)12月29日)は、日本の小説家、文芸評論家、翻訳家。東京府浅草区生まれ。無頼派、独自孤高の作家とも呼ばれ、エッセイでは夷斎先生の名で親しまれた。本名淳(きよし)。東京市浅草区浅草三好町(現在の東京都台東区蔵前)にて銀行家で東京市会議員、共同銀行取締役の斯波厚の次男として生まれる。祖父は漢学者で昌平黌儒官の省斎石川介で、省斎により6歳から論語の素読を学び、淡島寒月より発句の手ほどきを受ける。父の厚は幕臣だった石川家から札差を営んでいた斯波家へ養子に入っていたが、次男の淳は石川家を継ぐため1914年7月、養子に入り家督相続人となった。1905年、精華小学校に入学し、4年時に精華小学校の制度改制にともない旧制新堀小学校(現在の台東区立台東中学校)に編入し、1911年、旧制京華中学校(現在の京華高等学校)に入学、中学時代は和漢の古典、江戸文学、漱石や鴎外を愛読した。1916年、慶應義塾大学予科に入学するが中退し、1917年東京外国語学校(現在の東京外国語大学)仏語部入学、アナトール・フランスやアンドレ・ジッドに傾倒。1920年(大正9年)に卒業、日本銀行調査部に勤務するが、まもなく退職する。1921年(大正10年)7月から11月まで横須賀海軍砲術学校フランス語講師、10月から1922年(大正11年)6月までフランス『ル・タン』の通信事務員。7月から1923年(大正12年)3月まで海軍軍令部に勤務。1922年に野島辰次、高橋邦太郎らと同人誌『現代文学』創刊に参加し、「鬼火」「ある午後の風景」などの小説の習作を発表した。1923年9月から1924年(大正13年)3月まで慶應義塾仏語会にて仏語講師。関東大震災で山内義雄の家に避難し、ここで1924年にアンドレ・ジッドの『背徳者』翻訳刊行。1924年4月、旧制福岡高等学校(新制九州大学教養部の前身)の仏語講師として福岡に赴任。年俸は1600円(2006年の貨幣価値で800万円ほど)であった。福岡市東養巴町に家庭を持つ。教師時代の入学試験で「新聞紙」という作文の答案が、文系の志願者はすべてがジャーナリズムとしての新聞、理系の志願者はすべて用紙としての新聞の紙についてだったとエッセイに発表、作家花田清輝は自分はそのときの受験生だったと書いている。1925年(大正14年)11月21日、文部省から派遣された法学博士・蜷川新の講演会がきっかけで学生運動が発生、関係していた社会科学研究会は治安維持法違反で解散させられる。石川も左翼学生に加担したとの理由で辞職を勧告され2学期かぎりで休職、1926年(大正15年)3月に正式に依願退職した。東京に戻った後は、アンドレ・ジッドの『法王庁の抜穴』などの翻訳をした他は、約10年間創作活動を休止する。1935年(昭和10年)の『佳人』発表から創作活動を再開。1937年、『普賢』で第4回芥川賞を受賞。その直後、1938年の『文学界』1月号に発表した「マルスの歌」が反軍国調だとして発禁処分を受け、編集責任者河上徹太郎とともに罰金刑に処せられたこともあって、戦時中は創作に制約を受け、森鴎外における史伝の意味を明らかにした『森鴎外』などの評論や、江戸文学の研究に没頭する。1945年5月25日、空爆により被災、千葉県船橋市に転居(のち1947年、世田谷区北沢一丁目に、1948年、世田谷区北沢二丁目に、1949年、港区芝高輪南町に、1953年、杉並区清水町に、1963年、渋谷区代々木上原に、1964年、渋谷区初台に、転居)。厚生省の外郭団体に勤務し同和地区視察のために夏から秋にかけて北陸、近畿、四国を旅行。戦後から旺盛な活動を再開、「焼跡のイエス」「処女懐胎」などの作品を発表し、太宰治、織田作之助らとともに「無頼派」と呼ばれた。1950年から『新潮』に連載した「夷齋筆談」などエッセイも多く執筆。その時期から安部公房が師事し、安部の初期作品集『壁』に序文を寄せている。1963年、日本芸術院会員に選出。1967年(昭和42年)に文化大革命が本格化した際には、三島由紀夫・川端康成・安部公房と連名で共同声明「文化大革命に関し、学問芸術の自律性を擁護するアピール」を発表し、文革を論難した。1964年8月、ソビエト作家同盟の招待に訪ソし、ついで東ドイツ、チェコ、フランスに遊び、10月、帰国した。1975年3月から4月、訪中学術文化使節団に加わり、中国各地を歴訪した。1978年5月から6月、フランス、イタリア、オランダを旅行。晩年は大岡信・丸谷才一らとともに歌仙連句の興行をはじめ、現代文学における共同制作の模索も行った。1953年から1955年まで、早稲田大学政経学部フランス語非常勤講師。1962年から71年まで芥川賞選考委員、1964年から1969年までは太宰治賞選考委員を勤め、1973年に発足した大佛次郎賞選考委員(第7回まで)となった。1969年から71年まで朝日新聞文芸時評欄を担当。代表作に『紫苑物語』『至福千年』『狂風記』などがあり、中でも『狂風記』は多くの若者に支持され、ベストセラーとなった。晩年まで旺盛な活動を続け、『蛇の歌』連載中に肺癌による呼吸不全で死去。遺志により葬儀は不要とされ、翌年1月22日に「石川淳と別れる会」が催された。若いころに一度結婚し男児も生まれたが双方死別したとされ、54歳の時に20歳年下の吉沢活(いく)と結婚、息子(眞樹)と娘が生まれた。妻・石川活(1919-96)による回想録『晴のち曇、所により大雨 回想の石川淳』(筑摩書房、1993年)がある。孫は探検家・写真家の石川直樹。一連の作品には、和漢洋にわたる学識を背景にした現代社会への批判精神があふれている。そこに、若いころにかかわったアナキズムの考え方に加え、一見奇想天外とも思える設定のなかに、自ら「精神の運動」と呼ぶダイナミズムをみることができる。「佳人」「普賢」などの初期作品は、昭和10年当時の国策文学の求められる時代に「私小説のパロディ」(平野謙)の中での「精神の運動」を、饒舌体と言われる文体で描いた。しかし「マルスの歌」発禁と戦局の進展により、それらの方法もままならなくなり、「一休咄」「曽呂利咄」などの抽象の世界に進む。戦後すぐに発表した「無蓋灯」「焼跡のイエス」(1946年)「処女懐胎」(1947年)などでは、無力な主人公が戦争末期から戦後の混乱期に生きる中で、花田清輝が例えば「『葉隠』流の末期の目で女人の美しさを捉えようとした」と読み取ったように、反時代的思想とともに個人の再生を描くが、新日本文学会陣営からは太宰、安吾とともに「文学反動」、文化革命の敵として弾劾された。また占領下に刊行された作品集『黄金伝説』(1946年)では、題名作が黒人兵の描写によりGHQにより削除された。1950年代には革命的騒乱の予感を孕む時代の雰囲気に対応して、「歴史をうごかすファクターとしてはたらく力ならば、そしてその力が文化を支へて行くとすれば、コムミュニスムであらうと何イズムであらうと、人間の運動にとって便利だらう。」(『夷齋俚言』歌う明日のために)という思想を虚構世界に託した「鷹」「珊瑚」「鳴神」などの作品群を発表。1963年連載の『荒魂』以降、後期長篇小説群と呼ばれる『至福千年』『狂風記』『六道遊行』『天門』に小説では傾注した。1970年代に石川のブームが起き、以降は文庫本も次々に再刊されたのは、当時のラテンアメリカ文学のマジック・リアリズムとよばれた雰囲気と、石川の作品との間に流れる共通性が読者に感得されたことが、大きく貢献している。全集は1948年に全国書房より全6巻で刊行予定だったが版元倒産により4巻で中絶、筑摩書房で10巻(1961年から1962年)、14巻(1974年から1975年)など数度出版、最終版全19巻は翻訳も入れ、1989年(平成元年) - 1993年(平成4年)にかけ刊行された。
出典:wikipedia
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