岡田 良平(おかだ りょうへい、元治元年旧暦5月4日(1864年6月7日換算) - 1934年(昭和9年)3月23日)は、日本の文部官僚、教育者、政治家。勲等は勲一等。貴族院議員、京都帝国大学総長、文部大臣などを歴任した。遠江国佐野郡倉真村(現・掛川市)出身。東京府第一中学では、沢柳政太郎、狩野亨吉、松崎蔵之助、幸田露伴などが同期にあたる。大学予備門を経て、1887年7月、帝国大学文科大学哲学科(のちの東大文学部)卒業、大学院へ。第二高等中学校教授を経て、1893年(明治26年)に文部省視学官。以後、大臣官房報告課長、参事官を経て、同年12月に山口高等中学校校長心得、翌年1月に同校校長兼文部省参事官、1896年(明治29年)4月から同校校長を専任。1897年(明治30年)3月に大臣官房会計課長、1900年(明治33年)4月、実業学務局長に。フランス派遣を経て、1901年(明治34年)4月より文部省総務長官(文部次官)。その後、兼任普通学務局長事務取扱となり、1904年(明治37年)8月22日から1929年(昭和4年)11月にかけて貴族院勅選議員を務めた。1907年(明治40年)10月16日、京都帝國大学総長就任。翌年7月21日には再度文部次官となる(京都帝大総長を1908年9月2日まで兼任)。1913年(大正2年)2月19日、錦鶏間祗候となる。1916年(大正5年)、寺内内閣の文部大臣を拝命。1923年(大正12年)から翌1924年(大正13年)まで東洋大学学長を務め、同年成立の加藤高明内閣で再び文部大臣に就任し、1927年(昭和2年)の第1次若槻内閣の総辞職まで務めた。1929年(昭和4年)11月から没するまで枢密顧問官を務め、その間の1930年(昭和5年)、産業組合中央会会頭に就任。岡田家は、政治家や学者を輩出する一族として知られている。良平の父は報徳思想の啓蒙に努めた衆議院議員・岡田良一郎である。良平の次弟は宮内大臣や枢密院議長を歴任した男爵・一木喜徳郎であり、その子には検事の一木輏太郎、行政法学者の杉村章三郎がいる。輏太郎の長男・充は松下電器のシステム推進部長だったが日本航空123便墜落事故の犠牲者となった。良平の三弟・純平は母の実家・竹山家へ養子に行き、その次男は東京大学教養学部教授で小説家の竹山道雄である。また、山梨大学教育学部教授の竹山護夫や東京大学名誉教授の平川祐弘は、良平の姪孫にあたる。良平には実子がなかったので、末弟の分平が兄の養嗣子となり、岡田本家を継いだ。
出典:wikipedia
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