高階 泰経(たかしな の やすつね)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公卿。後白河法皇の側近(院近臣)。大治5年(1130年)に生まれる。仁平元年(1151年)に近衛天皇の蔵人となる。久寿2年(1155年)、検非違使・左衛門少尉となり、またこの年に即位した新帝・後白河天皇の蔵人に任ぜられる。以後、後白河帝の側近となり、河内守・出羽守・摂津守・少納言・右京大夫を歴任。後白河上皇が院政を始めた際も院近臣として活躍。主に武家との折衝にあたるが、政権の中枢にあったために失脚することも多く、治承3年(1179年)の平清盛による後白河院の鳥羽殿幽閉(治承三年の政変)の際に解官されたのを手始めとして、復帰後の寿永2年(1183年)には木曾義仲による再度の後白河院幽閉(法住寺合戦)の際に再び解官。この度もまもなく復帰するが、今度は文治元年(1185年)に源義経・行家の謀叛への係累を疑われて三度目の解官、さらには伊豆国への流罪となった。文治5年(1189年)に再出仕が赦され、建久2年(1191年)には正三位に昇る。建久8年(1197年)に出家し、4年後の建仁元年(1201年)に薨去。子に経仲がいる。源頼朝が泰経に宛てた書状の中で「日本第一の大天狗は余人の事に非ず候か」との表現があり、従来これは頼朝が後白河院を批判した語句であるとして、後白河院を形容する際に用いられることが多かった。しかし近年、この「日本一の大天狗」との表現は後白河院ではなく、泰経を指した文句ではないかとする説が浮上した。この日本第一の大天狗という表現は『玉葉』文治元年11月26日条、『吾妻鏡』文治元年11月15日条の頼朝の高階泰経宛て書状の文面に見られる。河内祥輔・遠城悦子らは、この書状が院宣ではなく泰経の私信に対する返書であることを理由に、大天狗=泰経説を唱え、五味文彦・保立道久らも賛同した。しかし院の意向を知らせる他の書状も泰経私信の形式を取っていること、書状を届けた使者が泰経私邸ではなく院御所を訪ねていることなどから、やはりこの表現は泰経個人ではなく後白河を評したものであろうという反論(川合康など)が出ている。また永井路子は、「大天狗」とは頼朝に対する院側の評語「天魔の所為」に対する頼朝側の対抗的な揶揄であろうとし、橋本義彦は成り上がりの近臣・泰経を「日本国第一の大天狗」とするのは買いかぶりであるとし(『源通親』吉川弘文館〈人物叢書〉、1992年)、その点からも大天狗=後白河説の方が自然とする。このように諸説があり、この件に関しては結論が出ているとは言い難い。
出典:wikipedia
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