南部 直政(なんぶ なおまさ)は、陸奥国八戸藩の第2代藩主。初代藩主南部直房の長男として生まれる。生母は霊松院。寛文8年(1668年)、父の死により家督を相続する。寛文12年(1672年)、盛岡藩との領境を確定させ、元禄8年(1695年)には初めて領内の人口調査を行った。詩文集『新編文林全集』を編纂するなど、学識も高かった。しかし延宝年間にはいわゆる「やませ」による不作が重なったことが原因で、早くも藩財政が苦しい状況に追い込まれた。直政の代には、参勤交代の供を命じられた家中武士の負担を軽くする目的で「舫」制度が始められた。これは家中武士に金銭等を拠出させ、必要に応じて支給されるものであった。元禄元年(1688年)から翌2年(1689年)まで側用人を勤めた。元禄12年(1699年)死去、享年39。墓所は東京都港区の金地院にある。死因に関して、八戸立藩を恨む盛岡藩南部家による毒殺説がある。完全に裏付ける史料はない。先代にも盛岡藩南部家の関与が噂されており、幕府による調査が入っている。跡を養子の通信が継いだ。前述のように学識は非常に高く、側用人時代に徳川綱吉への献上品の封を紐解くための問答を一人で解いてしまい重宝されるなど、才覚に恵まれていたようである。
出典:wikipedia
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