マウントカーは、かつて九州産業交通(現:九州産交バス)が阿蘇山の観光路線で運行していた、特別設計のバスの名称である。1964年10月、折しも東京オリンピックや東海道新幹線の開業などもあり、全国的に観光客が急増していた時期、九州産業交通では阿蘇中岳火口の観光ルート開発のために、阿蘇山ロープウェーの阿蘇山西駅と仙酔峡ロープウェイの火口東駅(どちらのロープウェイも当時は九州産業交通グループだった)を結ぶ路線バスを運行することになった。しかし、活火山である阿蘇中岳の火口近くでは、火山弾が飛来する可能性もあったため、使用するバスにも安全上の対策が求められることになったため、特別な仕様のバスが考案されたものである。上記区間を総称し「阿蘇ハイライン」呼んでいた。(阿蘇山西駅 - 火口西駅 ロープウェイ4分 110円 火口西駅 - 火口縁 徒歩 阿蘇火口東 - 火口縁 18分 100円 ロープウェイに接続して 8:30 - 17:00まで運行 阿蘇火口東 - 阿蘇山東駅 ロープウェイ6分 200円) 初代のマウントカー(三菱6W100改など)の特徴は以下の通りである。なお、運行開始当初はマウントカーの製造が間に合わず、通常のバスの駆動軸のみを2軸に改造した車両を「マウントカー代用」として走行させていた。1969年に増備された車両は通常のバス車両(三菱B800K)をベースにしており、さらに1977年に増備された車両は、三菱MP117Mをベースにした車両であった。いずれも全軸駆動ながら後輪1軸で、足回りに関しては通常のバスと同様の外観であったが、車体は初代の車両と同様、窓周りのカバーが異様であった。マウントカーが走行する道路はマウントカー専用道路で、一般車両や歩行者の立ち入りは禁止されていたこともあり、荒涼とした溶岩地帯を走るバスは観光客からは好評を博し、観光シーズンにはマウントカーはフル稼動となった。しかし、特殊仕様のバスゆえに台数は少なく、バス10数台を連ねて来る修学旅行客の対応には苦労したという。しかし、1970年代後半には阿蘇中岳の火山活動が活発化、1979年9月6日に阿蘇第一火口が爆発した際には死者3人・負傷者11人を出す大事故が発生した。この時、ロープウェイの火口東駅舎にも被害が出たが、駅舎は爆風によりガラスが吹き破られ、厚さ25cmの鉄筋コンクリートにも火山弾により穴があくほど激しいものであった。これほど激しい爆発は、1958年6月24日に死者12名・負傷者28名を出して以来で、それはマウントカーの運行開始前だったのである。いかにマウントカーが通常のバスと比較して強度があるとはいえ、この規模の爆発に対しては無力に等しく、観光客の安全を確保することは出来ない。その後も火山活動は活発な状態が続いたため、1980年には路線は廃止され、マウントカーが通行する道路も通行禁止となった。廃止後、一部の車両は一般路線車に改造されたが、やがてこれらの車両も経年により廃車となっており、現存している車両は存在しない。2004年3月に阿蘇中部3町村合併協議会がまとめた「阿蘇中部3町村合併にかかる阿蘇市建設計画」においては、地域別ワークショップで挙げられた取り組むべき課題として、「仙酔峡ルートの2車線化とマウントカーの配備」への言及があった。また、合併後の阿蘇市の「阿蘇市総合計画」においては、素案において「現在利用されていないマウントカー道路を再利用した西口駅と東口駅の連携」が挙げられていた。しかし、2011年3月に決定した「阿蘇市総合計画」ではマウントカー及びマウントカー道路への言及はなくなっている
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。