渤海使(ぼっかいし)は、渤海より日本を訪問した使節である。728年から922年までの間に34回(このほか遼による派遣が1度)の使節が記録に残っている。渤海は698年に大祚栄により建国されたが、大武芸の時代になると唐や新羅と外交的に対立するようになり、これらの勢力を牽制する目的で日本への遣使が計画された。初期には軍事同盟としての色彩が強い使節であり、また日本側もこれを朝貢であると捉え、使節を非常に厚遇している。しかし大欽茂の時代になり、唐との融和が図られる時代になると軍事的な意味合いは薄れ、もっぱら文化交流と経済活動を中心とした使節へとその性格を変化させていった。特に問題となったのは朝貢貿易の形態を取ったことで、これにより渤海からの貢物に対して日本側では数倍の回賜でもって応える義務が生じ、渤海に多大な利益をもたらした。日本側は、朝廷の徴税能力が衰え、使節供応と回賜のための経費が重荷となった後は、使節来朝を12年に1度にするなどの制限を加えたが、その交流は渤海滅亡まで継続した。唐渤関係の安定化に伴い、日唐間の交通の仲介として機能した。8世紀後半以降はもっぱら北方産の獣皮と日本から繊維製品や金・水銀の交易が主目的。注:第35回使節は東丹国よりの使者が渤海使を名乗ったものである。天顕は遼の年号。
出典:wikipedia
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