Tu-2(ロシア語:)は、ソ連のツポレフ設計局で開発された爆撃機である。前線爆撃機として開発が始められ、基本量産型が急降下爆撃機として使用されたほか、前線偵察機としても運用された。北大西洋条約機構(NATO)では、英語で「蝙蝠」を意味する「バット」("Bat")というNATOコードネームを使用した。Tu-2は、双発の片持ち式単葉機であった。垂直安定翼には、水平尾翼両端に傾けた垂直尾翼を取り付ける双尾翼方式が採用されていた。降着装置は完全な引き込み式とされ、滑らかな機体表面、密閉式風防と合わせて空気抵抗の軽減が実現されていた。ツポレフ設計局の主任技師アンドレーイ・トゥーポレフは、怠業の罪で1937年10月、内務人民委員部(NKVD)により逮捕・投獄された。この時期、多くの設計者が同様の不幸に遭っており、トゥーポレフもその一人であった。1938年になると、世界情勢は全世界規模での戦争に向けて険悪なものになっていた。来るべき大戦に備え、ソ連政府は労農赤軍の早急なる近代化が必要であると結論付けた。そのためには、まず航空戦力の増強が至急の課題であるとされた。監獄に入れられていた設計者は、NKVDの管轄下に置かれた「特別技術部」()において新型航空機の開発を行うよう命ぜられた。名前こそ技術部となっているが、実情は常時監視下に置かれており、牢獄と同義語であった。「特別技術部」のロシア語での略称は「STO」()であったが、これがロシア語で「100」を意味する単語「」()と同じであったことから、この部署の下に置かれる分署には「100」番台の名称が与えられることになった。トゥーポレフは、分署「103」において高高度急降下爆撃機PB(':「急降下爆撃機」の略号)の開発に着手した。この機体には航空機「57」(')という開発名称が与えられた。第二次世界大戦の勃発に伴い開発要求は変更され、PBは前線爆撃機FB(':「戦前爆撃機」の略号)として開発が継続されることとなった。FBには新たに航空機「103」(')もしくは航空機「58」(')という開発名称が与えられた。なお、航空機「58」はトゥーポレフの名前に因んでANT-58(')とも呼ばれる。FBの開発は、ペトリャコフ、ミャスィーシチェフ、トマシェーヴィチなど他社との競合で行われた。分署「100」では、ヴラジーミル・ペトリャコーフが高高度戦闘機VI(航空機「100」)の開発を行った。これは、のちに急降下爆撃機Pe-2として成功を収めた。分署「102」では、ヴラジーミル・ミャスィーシチェフが高高度爆撃機DVB(航空機「103」)の開発を行ったが、成功は収められなかった。1941年1月には、最初の試作機となる航空機「103」(「58」)が初飛行を実施した。続いて、2つめの試作機となる航空機「103U」(「59」)が完成し、工場試験を好成績で通過した。航空機「103U」は素晴らしい飛行性能を発揮した。この機体は量産に移されることが決定した。独ソ戦が開始されると、監禁されていた設計者の多くは解放され、前線から離れた南西シベリアのオムスクへ疎開した。そのため、オムスクには急遽多くの航空機生産工場が建設されることとなった。トゥーポレフも、この地において航空機「103」と「103U」の完成作業を急いだ。機体の能力向上のため、新しい動力機関として空冷式のM-82が選択された。この星型エンジンを搭載した機体は、航空機「103V」(「60」)と呼ばれた。1941年秋になると、それまでA・A・アルハーンゲリスキイ記念試作設計局からアレクサンドル・アルハーンゲリスキイがトゥーポレフのもとに戻った。アルハーンゲリスキイは、かつてトゥーポレフのもとでSB(高速爆撃機)の開発を行い大きな成功を収め、独立後には自身の設計局で急降下爆撃機Ar-2を開発した実績があった。彼の参加は、今回の新型爆撃機の方向性に大きな影響を及ぼすこととなった。航空機「103V」は1941年12月15日に初飛行を果たし、各種試験と完成作業が急がれた。航空機「103V」が試験を行うと同時に、工場では量産型の生産が開始された。量産機の制式名称はTu-2とされた。量産初号機は1942年2月に完成し、年末までに80機のTu-2が工場を出た。しかし、これを以ってTu-2の生産は中止され、工場はヤコヴレフ設計局の戦闘機の増産のために提供された。クルスクの戦い後の1943年、ソ連政府はTu-2の生産再開を決定した。この年、ツポレフ設計局は前線から遠く移動の便の悪いオムスクからすでにドイツ軍の脅威から解放された首都モスクワに戻っており、Tu-2の生産もモスクワで行われることとなった。年末までTu-2の生産が行われたが、年末には大規模な改良を盛り込んだ発展型であるTu-2Sが完成した。Tu-2Sは1944年から大量に生産され、戦後も生産は7年間ほど継続された。1942年から1945年末までの間に1216機のTu-2とその派生型が生産され、最終的な生産数は2527機となった。派生型の中では、前線爆撃機型と偵察機型が実用化された。地上部隊を支援する多用途爆撃機である前線爆撃機として開発されたTu-2は、その任務の特性から実際には急降下爆撃任務が課されることが多かった。第二次世界大戦におけるTu-2の行動範囲は広く、ナチス・ドイツに対する戦闘から日本に対する戦争にまで、西はベルリンから東は満洲、樺太にまで及んだ。実戦には700機から800機が参加したといわれる。前線のパイロットらは、それまでのSBやPe-2と比べ、Tu-2の高性能振りに驚きを示したといわれる。Tu-2の爆弾搭載量は大きく、防禦火器は強力で乗員防禦装甲も厚かった。また操縦特性は良好で、機体構造の信頼性も高かった。Pe-2の飛行特性に難があり、機体構造にも欠陥があり、しばしば墜落事故を起こしていたのと比べると、Tu-2の安全性は際立っていた。防御力の高さは、Tu-2をしてソ連爆撃機の中で初めて護衛戦闘機なしでの作戦飛行を可能ならしめた。1942年9月にはカリーニン戦線にて最初の損失が出たが、これは実際には作戦中の損失ではなく飛行軍事試験の最中の損失であった。多くのTu-2が、他のソ連爆撃機同様、初期には空中偵察任務にも使用された。Tu-2は「眼の瞳」()と呼ばれ、この任務においても高い実績を残した。1943年のクルスクの戦いでは、18機のTu-2が第285爆撃機師団の前線偵察機として実戦に参加した。Tu-2は、1944年には機体防禦や武装の更新を受けた。そして、第334爆撃機師団へ配備されてフィンランド方面へ派遣された。そこでは、Tu-2は要塞や鉄道要衝・橋梁などへの攻撃に用いられた。この中で師団は1機のTu-2も失わなかった。その後、ベラルーシ反攻やバルト地方の戦いに参加、1945年4月7日には、Pe-2と合同でドイツ軍が陣地を構えた都市、ケーニヒスベルクを2時間にわたって爆撃した。4日間に、町には4440 tの爆弾が投下され、4月10日には陥落した。ベルリンの戦いにおいては、第6爆撃機軍団のTu-2がドイツ地上部隊に対し決定的な打撃を与えた。54機のTu-2が、作戦初日ですでに97 tの爆弾を投下した。欧州戦線の終結とソ連の対日参戦に伴い、第6爆撃機軍団は日本に対する戦闘に振り替えられた。航空戦力の劣勢な日本軍に対し、Tu-2やPe-2を主力とした赤軍航空部隊は有利に作戦を遂行した。第二次世界大戦の終結後も、Tu-2は長くソ連軍とワルシャワ条約機構軍の主要作戦機であり続けた。朝鮮戦争に際しては多数のTu-2が中華人民共和国に供与され、実戦任務に投入された。また、機体規模が手頃で性能も安定していたことから、各種試験機としても多数が使用された。多くの試作機も製作された。Tu-2の後継機としては、ジェット機のIl-28やTu-16などが開発された。1944年には、Tu-2の生産に関しツポレフ設計局や生産工場の多くの従業員が高いソ連国家賞を授与された。アンドレーイ・トゥーポレフは、戦時中におけるTu-2の成功により1943年にスターリン賞を授与された。また、1944年には祖国戦争勲章とスヴォーロフ勲章を受け、航空技術任務少将となった。1945年には社会主義活動英雄の称号を得た。しかし、彼が本当の自由を手にしたのはスターリンの死後であり、この事実は粛清体制の恐ろしさを物語っている。
出典:wikipedia
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