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花山天皇

花山天皇(かざんてんのう、安和元年10月26日(968年11月29日) - 寛弘5年2月8日(1008年3月17日)、在位:永観2年10月10日(984年11月5日) - 寛和2年6月23日(986年8月1日))は、日本(平安時代中期)の第65代天皇。諱は師貞(もろさだ)。花山院や花山法皇とも呼ばれる。冷泉天皇の第一皇子。母は、摂政太政大臣藤原伊尹の娘・女御懐子。三条天皇の異母兄。花山源氏(神祇伯を世襲した伯王家、のち断絶)の祖。安和2年(969年)、叔父円融天皇の即位と共に皇太子になり、永観2年(984年)、同帝の譲位を受けて即位。生後10ヶ月足らずで立太子したのは、摂政であった外祖父伊尹の威光によるものだが、17歳で即位時には既に伊尹は亡くなっており、有力な外戚をもたなかったことは、2年足らずの在位という後果を招いた。関白には先代に引き続いて藤原頼忠が着任したが、実権を握ったのは、帝の外舅義懐と乳母子藤原惟成であった。義懐と惟成は荘園整理令の発布、貨幣流通の活性化など革新的な政治を行ったが、ほどなくして天皇が退位したのに殉じて遁世した。寛和2年(986年)6月22日、19歳で宮中を出て、剃髪して仏門に入り退位した。突然の出家について、『栄花物語』『大鏡』などは寵愛した女御藤原忯子が妊娠中に死亡したことを素因とするが、『大鏡』ではさらに、藤原兼家が、外孫の懐仁親王(一条天皇)を即位させるために陰謀を巡らしたことを伝えている。蔵人として仕えていた兼家の三男道兼は、悲しみにくれる天皇と一緒に出家すると唆し、内裏から元慶寺(花山寺)に連れ出そうとした。このとき邪魔が入らぬように鴨川の堤から警護したのが兼家の命を受けた清和源氏の源満仲とその郎党たちである。天皇は「月が明るく出家するのが恥ずかしいなぁ。」と言って出発を躊躇うが、その時に雲が月を隠し、天皇は「やはり今日出家する運命であったのだ。」と自身を諭した。しかし内裏を出る直前にかつて妻から貰った手紙が自室に残したままであることを思いだし、取りに帰ろうとするが、出家を極秘に行いたかった兼家が嘘泣きをし、結局そのまま天皇は内裏から出た。安倍晴明の屋敷の前を通ったとき、中から「帝が退位なさるとの天変があった。もうすでに…式神一人、内裏へ参れ」と言う声が聞こえ、目に見えないものが晴明の家の戸を開けて出てきて一行を目撃し「たったいま当の天皇が家の前を通り過ぎていきました」と答えたとある。元慶寺へ着き、天皇落飾すると、道兼は親の兼家に事情を説明してくると寺を抜け出してそのまま逃げてしまい、天皇は欺かれたことを知った。内裏から行方不明になった天皇を捜し回った義懐と惟成は元慶寺で天皇を見つけ、そこでともども出家したと伝える。この事件は寛和の変とも称されている。この事件は親王時代に学問を教え、当時式部丞になっていた紫式部の父藤原為時や、尾張国郡司百姓等解文で有名な藤原元命の運命にも影を落とした。花山天皇は当世から「内劣りの外めでた」等と評され、乱心の振る舞いを記した説話は『大鏡』『古事談』に多い。その一方で、彼は絵画・建築・和歌など多岐にわたる芸術的才能に恵まれ、ユニークな発想に基づく創造はたびたび人の意表を突いた。『拾遺和歌集』を親撰したともいわれる。出家し法皇となった後には、奈良時代初期に徳道が観音霊場三十三ヶ所の宝印を石棺に納めたという伝承があった摂津国の中山寺(兵庫県宝塚市)でこの宝印を探し出し、紀伊国熊野から宝印の三十三の観音霊場を巡礼し修行に勤め、大きな法力を身につけたという。この花山法皇の観音巡礼が西国三十三所巡礼として現在でも継承されており、各霊場で詠んだ御製の和歌が御詠歌となっている。この巡礼の後、晩年に帰京するまでの十数年間は巡礼途中に気に入った場所である摂津国の東光山(兵庫県三田市)で隠棲生活を送っていたとされ、この地には御廟所があり花山院菩提寺とし西国三十三所巡礼の番外霊場となっている。花山院菩提寺の真南に位置する六甲山山頂付近の六甲比命神社の磐座群の中の仰臥岩に、花山法皇、仏眼上人、熊野権現連名の碑がある。静岡県御前崎市の桜ヶ池 (御前崎市)・池宮神社をはじめ瀬織津姫と関わる場所を花山院御領とされた。出家後の有名な事件としては、長徳2年(996年)花山法皇29歳のとき、中関白家の内大臣藤原伊周・隆家に矢で射られた花山法皇襲撃事件がある。伊周が通っていた故太政大臣藤原為光の娘三の君と同じ屋敷に住む四の君(かつて寵愛した女御藤原忯子の妹)に花山法皇が通いだしたところ、それを伊周は自分の相手の三の君に通っているのだと誤解し、弟の隆家に相談する。隆家は従者の武士を連れて法皇の一行を襲い、法皇の衣の袖を弓で射抜く(さらに『百錬抄』では、花山法皇の従者の童子2人を殺して首を持ち去ったという話も伝わっている)。花山法皇は体裁の悪さと恐怖のあまり口をつぐんで閉じこもっていたが、この事件の噂が広がり伊周・隆家はそれぞれ大宰府・出雲国に流罪となった(長徳の変)。寛弘5年(1008年)2月花山院の東対にて崩御、紙屋上陵(現在の京都市北区衣笠北高橋町)に葬られた。死因ははっきりしないが悪性腫瘍によるものと考えられている。乳母は橘則光の母右近尼である。出家前に入内した正式な后妃は、流産死した忯子以外に子は出来ず、天皇の退位・出家とともにこれらの女御は実家に下がった。出家後、乳母子の中務とその娘平平子を同時に寵愛して子を産ませたため、世の人は中務の腹に儲けた清仁親王を「母腹宮」、平子の腹に儲けた昭登親王を「女腹宮」と称した。二人の皇子は寛弘元年(1004年)に冷泉上皇の猶子となり、それぞれ冷泉院の五宮・六宮として親王宣下を受けた。清仁親王は、白川伯王家の祖先となった。なお『栄花物語』によれば皇女四人のうち、平子腹の皇女一人のみ成長したという。しかし万寿元年(1024年)12月6日にこの皇女(上東門院彰子の女房)は夜中の路上で殺され、翌朝、野犬に食われた酷たらしい姿で発見された(『小右記』)。この事件は京の公家達を震撼させ、検非違使が捜査にあたり、翌万寿2年(1025年)7月25日に容疑者として法師隆範を捕縛、その法師隆範が藤原道雅の命で皇女を殺害したと自白する。藤原道雅の父は花山法皇に矢を射掛けた藤原伊周である。退位後の御在所に因んで「花山院」と呼ばれた。すべての天皇は皇居の宮中三殿の一つの皇霊殿に祀られている。陵(みささぎ)は、京都府京都市北区衣笠北高橋町にある紙屋川上陵(かみやかわのほとりのみささぎ)に治定されている。公式形式は方丘。『日本紀略』に葬所は「紙屋川の上、法音寺の北」とあり、「法音寺北陵」とも称したので、幕末に法音寺の旧跡にもとづいて現在地に治定された。また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。

出典:wikipedia

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