メシャ(ラテン文字表記:Mesha)は、古代パレスチナ地方に存在したモアブ王国の国王。在位中に宗主国イスラエルへの反逆を行い、イスラエル王オムリ・アハブ親子の率いる軍勢(旧約聖書ではアハブの子ヨラム王の率いる軍勢)との決戦に勝利して、モアブの独立を達成した。メシャ碑文はモアブを解放した彼の功績を称えている。イスラエルとモアブは同系の極めて近しい民族であり、互いに通婚・交流を繰り返していた。後代にイスラエル中心思想によって編集された旧約聖書ではそのことは無視されているが、わずかに「ルツ記」のみがこの時代のモアブとイスラエルの交流を伝えている。しかしダヴィデ王の即位とイスラエル王国の成立により、近隣の諸国家は軍事上の脅威に晒されることになる。ダビデ王はエジプト、アッシリア両帝国がパレスチナに手を出せないという国際情勢を利用し、急激に版図を拡大、周辺諸国に遠征を繰り返す。モアブもダビデ王の遠征によってイスラエルに服属し、朝貢することになった。続いてダビデの子ソロモンはエジプトに臣従し、イスラエル王としての冊封を受け、その庇護の下でこの地域における覇権を確立した。モアブは毎年多額の金銀、そして多数の羊を貢物として差し出さねばならなくなった。イスラエル分裂後もモアブは北王国に臣従し、メシャの代に至るまで朝貢国としての義務を果たしていた。メシャの時代には子羊10万頭、雄羊10万頭分の羊毛を毎年献上させられていたと旧約聖書の記録にある。紀元前850年頃、旧約聖書によればアハブの子ヨラム王の時代、モアブ側の記録(メシャ碑文)によればオムリ王の息子(名前への言及が無いがアハブ)の時代に、モアブ王メシャはイスラエルに対する独立闘争を開始したと記されている。彼の軍勢はイスラエルのモアブ駐屯軍を次々と破ってゆき、かつてイスラエルの侵略によって奪われたモアブ領の大部分を奪還しただけでなく、アタロト、ネボ、ヤハツなどの都市をも新たにその版図に加える勢いを示した。イスラエル王はメシャの勢いに危機感を抱き、遂に自ら討伐軍を率いてモアブに遠征を行った。しかしメシャはイスラエル王直属軍との決戦にも勝利を収め、イスラエルはモアブの独立を承認せざるを得なくなった。モアブはイスラエルへの隷属を脱し、完全な主権を回復した。メシャ碑文は彼が祖国を解放した事を記念して彫られたとされている。メシャはイスラエルに対して反乱を起こし、モアブの独立を回復した。イスラエルを神の民とし、モアブは穢れた民族であるとするユダヤ教の歴史観やそれを引き継いだキリスト教の歴史観からすれば、メシャは逆賊である。しかしパレスチナ人の間では、現在のイスラエルによるパレスチナ占領を、メシャの時代のモアブに対する古代イスラエルの圧力と重ね、メシャを英雄視する見方も強い。メシャの功績を歴史的にかつ正当に評価するには、キリスト教やユダヤ教に基づいた聖書原理主義ならびにイスラム原理主義を離れた視点が必要だろう。
出典:wikipedia
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