秦 郁彦(はた いくひこ、1932年(昭和7年)12月12日 - )は、日本の官僚、歴史学者、現代史家。元日本大学法学部教授。法学博士(東京大学、1974年)。山口県出身。鉄道省の技術官吏である父は太平洋戦争中に陸軍司政官としてフィリピン北部のカガヤン州における鉄道建設に従事して戦死した。1952年に山口県多々良学園高校を卒業後東京大学法学部に入学。在学中は戦史研究に没頭した。指導教官は丸山真男。二年次に結核と診断され(後に誤診と判明)一年休学し、巣鴨プリンズンに収監中のA級戦犯を含む旧陸海軍軍人百数十人のヒアリングを実施した。直接話を聞いた旧軍人には鈴木貞一、橋本欣五郎、荒木貞夫、嶋田繁太郎、佐藤賢了、今村均などがいる。1955年に6級職国家公務員採用試験(経済)に合格し1956年に卒業、大蔵省に入省した。同期に小粥正巳(大蔵事務次官)、大橋宗夫(関税局長)などがいる。為替局、中国財務局、名古屋国税局、経済企画庁などで勤務。1963年にハーバード大学、1964年にコロンビア大学にそれぞれ留学している。1965年に防衛庁防衛局に出向し、防衛研修所(防衛研究所)教官、防衛大学校講師を務めた。1971年から1976年までは大蔵省財政史室室長として戦後財政史の編纂事業の責任者となり、自身もそのうちの一巻『アメリカの対日占領政策』を執筆した。大蔵省大臣官房参事官を最後に、大蔵事務官を1976年に依願退官し、20年間に及ぶ官僚生活を終えた。1977年にプリンストン大学大学院客員教授、1980年に拓殖大学政経学部教授となり1994年に依願退職、1994年に千葉大学法経学部教授、1997年に定年退職した。1997年からは日本大学法学部教授、2002年に退職後は同大講師を務めた。専攻は、日本の近現代史、第二次世界大戦を中心とする日本の軍事史。その他、昭和史に関する著作がある。日本国際政治学会太平洋戦争原因究明部による共同プロジェクトに参加し、研究の成果は後に『太平洋戦争への道』として出版された。同書は開戦に至る日本外交を描いており、。近現代史に関わる事典の編纂も行った。ジョン・W・ダワーの『敗北を抱きしめて』やアルヴィン・D・クックスの『ノモンハン』の献辞では、長年に渡る共同研究者として名が挙げられている。南京事件については自著『南京事件』において、日本軍の不法行為による犠牲者数を「3.8万-4.2万人」とし、以後も被虐殺者数は約4万人程度と推定している。2007年に出した同著の増補版では、「4万の概数は最高限であること、実数はそれをかなり下まわるであろうことを付言しておきたい」と追記しており、週刊新潮2007年12月27日号では、「だいたい4万人」とコメントしている。百人斬り競争については、行ったとされる旧日本陸軍少尉が故郷鹿児島県において地元の小学校や中学校で捕虜殺害を自ら公言していたことを調べ上げて、1991年に日本大学法学会『政経研究』42巻1号・4号にて発表している。日本軍による「朝鮮半島において婦女子を強制連行し慰安婦とした」ことについては否定的である。1999年、それまでの議論や様々な資料を広く参照し、おもに時代背景やその変化などから慰安所制度や慰安婦の実態を明らかにすることを試みた著書『慰安婦と戦場の性』を出版した。1992年3月、済州島において慰安婦狩りをおこなったとする吉田証言について現地調査を行い、そのような事実が存在しなかったことを明らかにした。オランダ人女性を慰安婦として徴用した白馬事件や、フィリピン人女性を慰安婦として徴用した問題などについてはこれを認めている。2007年3月5日、首相の安倍晋三が参議院予算委員会において「狭義の意味においての強制性について言えば、これはそれを裏付ける証言はなかったということを昨年の国会で申し上げたところでございます。」と答弁した。秦はこの答弁について、「現実には募集の段階から強制した例も僅かながらありますから、安倍総理の言葉は必ずしも正確な表現とはいえません。「狭義の強制は、きわめて少なかった」とでも言えば良かったのかもしれませんが、なまじ余計な知識があるから、結果的に舌足らずの表現になってしまったのかもしれません(苦笑)。」とコメントしている。2014年、政府による「河野談話」の検証チームのメンバーとなる。
出典:wikipedia
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