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J.J.レート

J.J.レート("J.J. Lehto" 、1966年1月31日 - )は、フィンランドの元F1ドライバー。1988年のイギリスF3チャンピオン。ル・マン24時間レースを2度制している。本名はユルキ・ユハニ・ヤルヴィレヘト("Jyrki Juhani Järvilehto" )で、ヨーロッパ圏では発音が難しいものだったため、ケケ・ロズベルグが「覚えやすいように」との理由で「JJ」を名乗るよう指示したというエピソードがある。また、これは愛称でもある。母国フィンランドで活動し、ミカ・ハッキネン、ミカ・サロらとはジュニアカート時代からのライバルだった。その後、スカンジナビアFF1600を経て、同胞の元F1チャンピオン、ケケ・ロズベルグに見出されマネージメントされるようになる。マールボロのスポンサードも受けるようになり、イギリスF3に参戦を開始、1988年にはチャンピオンを獲得した。1989年にはパシフィック・レーシングから国際F3000選手権へとステップアップ、F3までは順調に結果を出しつづけていたが、このF3000参戦時は時折速さを見せるにとどまった。しかし、この年の後半からは師匠であるケケと、チームをスポンサードしていたマールボロのプッシュもあり、F1新興チーム・オニクスに加入、F1へと出走する運びとなった。このオニクスチームのF1マシンは、F3000でのチームメイトであるエディ・アーバイン(同じくマールボロ・ドライバーだった)も同時にテストドライブし、レースシートを獲得したのはレートになったという経緯があった。1989年第13戦ポルトガルGPで、ベルトラン・ガショーの後任として、オニクスからF1に初めてエントリーしたが、このレースでは予備予選落ちを喫した。F1デビュー(初の決勝進出)は続くスペインGPで、このときはギアボックストラブルによりレース前半にリタイヤした。その後第15戦日本GPでは予備予選落ち、最終戦オーストラリアGPでは電気系トラブルによるリタイヤに終わり、デビューイヤーの完走はならなかった。開幕から参戦した翌1990年は、第3戦サンマリノGPで初完走(12位)。しかし、これが唯一の完走となり、後は5度の予選落ちと4度のリタイアという状況の中、第10戦ハンガリーGPをもってチームが消滅。最終戦までグランプリを戦うことができなかった。1991年はスクーデリア・イタリアに移籍、初のフル参戦を果たした。この年チームに課された前半8戦の予備予選を全て通過、そのうち4回をトップで通過するなど安定した速さを見せた。第3戦サンマリノGPでは、マクラーレン以外の上位チームが総崩れとなる展開の中、予選16位から3位に入りキャリア唯一の表彰台に立った。同様に上位チームが多数リタイヤした第5戦カナダGPでも、一時4位を走行するが、このレースではリタイヤに終わっている。サバイバルレースで見せ場がなかったわけではなかったが、シーズンを通じてマシンの信頼性の低さに苦しみ、16戦中11回のリタイヤを喫している。翌1992年も残留。信頼性が増し完走は増えたものの、反面速さ不足のマシンに苦しみ、平均予選順位は前年より下がっている。チームメイトのピエルルイジ・マルティニは2ポイントを獲得したが、レートは最高位7位とノーポイントに終わった。1993年、スポーツカー世界選手権で活躍してきたザウバーのF1初参戦ドライバーに抜擢される。開幕前のテストでは、四強の一角だったフェラーリ、ベネトンを上回るタイムを叩き出すなど、好調さをアピールしていた。迎えた開幕戦南アフリカGPでも予選6位を得ると、決勝レースでも5位入賞。この結果によりF1では新参チームであったザウバーは参戦1戦目にしてポイント獲得という快挙を成し遂げる。また第4戦サンマリノGPでも、4位に入賞している。しかし、この年のマシン「C12」は高い競争力を持っていたが信頼性に欠けており、チームメイトのカール・ヴェンドリンガー共々、予選で上位に付けるものの、決勝ではリタイヤとなる戦いが続いた。最終的にはヴェンドリンガーと同数の、シーズン半数を超える9度のリタイヤを喫している(入賞回数および獲得ポイントはヴェンドリンガーに敗れたものの予選順位は互角であった)。1994年は、ベネトンのセカンド・ドライバーに抜擢されたが、2月にシルバーストーンテストにおいて大クラッシュを喫し頚骨を骨折した。腰部の骨の一部を頚部に移植するという大掛かりな手術を受け、開幕直前にテストに復帰する驚異の回復振りを見せたものの、結果としては縦方向の振動に対して首が痛むことが分かり、開幕2戦を欠場した。復帰初戦となった第3戦サンマリノGPでは、いきなり予選5位のタイムを出したものの、スタート時にエンストし、ペドロ・ラミーに追突され0周でリタイヤ。この際に壊れたマシンの破片が観客席まで飛び、観客が負傷するという事態も発生した。次戦モナコGPの予選ではチームメイトのミハエル・シューマッハに4秒差をつけられるなど精彩を欠いた。第5戦スペインではフリー走行でトップ、予選も4位につけるなど復調の兆しを見せたが決勝は3位走行中にエンジンブロー。第6戦カナダGPでは予選20位から前走者の失格により6位に入賞するも、結局このレースをもって、レートの代役として開幕2戦に出場したヨス・フェルスタッペンに正規シートを奪われる結果となった。その後、シューマッハが出場停止となった第12戦イタリアGP・第13戦ポルトガルGPに再びベネトンから代走するも、それぞれ9位・リタイヤと目立った成績は残せなかった。また終盤の2戦はアンドレア・デ・チェザリスの後任として古巣ザウバーから出走したが、それぞれリタイヤと10位に終わり、この年をもってF1でのキャリアを終えた。この結果には「怪我をしっかりと治さぬまま、無理にレース復帰した影響があったのでは」との指摘もある。F1を離れた1995年 - 1996年は、ロズベルグがチームを組織して参戦していたDTMやITCにオペル・カリブラを駆って参戦。特に1996年は地元ヘルシンキをはじめ多くのレースで表彰台を獲得し、優勝こそ無かったものの着実に入賞を重ね総合ランキングで5位につける。翌1997年にはFIA-GT選手権に活動の場を移しシュニッツァーマクラーレンから参戦、スティーブ・ソパーとのペアで4勝を挙げシリーズ2位となる。1998年には再びフォーミュラカーでのレースを望み、CARTワールドシリーズにホーガン・レーシングからフル参戦したが、入賞は5回に留まる(最高位は5位)。この年がフォーミュラカーでの最後の年となり、その後はスポーツカーレースに活動の場を移す。1995年・2005年にはル・マン24時間耐久レースで優勝している。またALMSなどでは、F1参戦時代から親交のあったステファン・ヨハンソンやジョニー・ハーバートとコンビを組んで参戦した。2010年6月18日、フィンランド南部のタンミサーリにおいてボートを操縦中橋脚に衝突、自身は頭部を負傷し同乗していた友人が死亡する事故に逢う。当初は事故原因不明とされていたが、ボートは運河の制限速度である5ノット(9.3km/h)を大幅に超える約40ノット(約74km/h)で橋脚に衝突しており、病院で行われた血中アルコールテストにレートが引っ掛かったこと、さらに周囲の証言から事故にあったボートがレートの所有物であったこと、そしてレート自身が「事故の記憶がない」と話していたことから飲酒状態でボートを操縦していたのではないかという疑惑がかけられることとなり警察も捜査を開始した。本人は飲酒の事実を否定していたが、フィンランドの裁判所は数々の証拠から彼の飲酒運転を認め、2011年12月14日に懲役2年4ヶ月の判決を下した。この判決に対しレート側は控訴、11月30日にフィンランドのトゥルクで控訴裁判が行われ、ボートが橋脚に衝突した際の操縦者がレートであった確証はないとの判決が下され実刑を解かれた。

出典:wikipedia

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