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兼子正

兼子 正(かねこ ただし 1912年(明治45年)- 1942年(昭和17年)11月14日)は、日本の海軍軍人。空母艦上戦闘機搭乗員として、日中戦争及び太平洋戦争で撃墜王となる。ガダルカナルへの高速輸送船団の上空直衛の戦闘にて戦死。最終階級は海軍少佐。本籍は山形県西村山郡谷地町。兼子家の6人兄弟の三男。日本橋区久松小学校を卒業し、府立一中では柔道部に所属。1933年(昭和8年)、海軍兵学校60期卒。同期には、板谷隆一中佐、一中では1期先輩の鈴木實中佐など。1934年(昭和9年)、第26期飛行学生(霞ヶ浦)。同期に、横山保(海兵59期)、鈴木實、進藤三郎、山下政雄(以上海兵60期)ら。同修了後の1935年(昭和10年)、海軍中尉任官。支那事変(日中戦争)勃発時は、第一航空戦隊下の空母「龍驤」戦闘機小隊長。1937年(昭和12年)8月22日、宝山方面にて兼子中尉率いる複葉機ながら当時新鋭のわずか4機の95式艦戦にてカーチスホーク及びボーイングP26戦闘機など敵18機との交戦の末、30分間足らずで相手9機撃墜の戦果を挙げ、当時の東京朝日新聞紙上にて「空の英雄」として大々的に扱われた。翌23日には、同期の鈴木實も95式艦戦4機にて相手カーチスホーク及びボーイングP26混成27機編隊相手に9機撃墜の戦果をあげた。のち横須賀海軍航空隊付、鈴木實と共に12空勤務を経て、1941年(昭和16年)12月8日の太平洋戦争(大東亜戦争)開戦時は、真珠湾攻撃では空母「翔鶴」乗組、階級は海軍大尉だった。板谷茂率いる第一次攻撃隊・第六制空隊長として零戦5機を率いて出撃。反撃もなくカネオヘ・ベローズ両飛行場を攻撃。1942年(昭和17年)1月8日から同年2月2日に日本に戻るまで、ラバウル・ラエ攻撃に加わり、同年3月17日、インド洋作戦に参戦。同年4月9日のトリンコマリー攻撃では、味方零戦10機で相手23機撃墜、味方損失1機であった。ミッドウェー海戦では、第6空飛行隊長(1942年5月~7月)として空母「赤城」に便乗。1942年(昭和17年)7月からミッドウェーで散り散りになった艦戦・艦攻などを集め新設なった空母「飛鷹」の飛行隊長に就任。部下には原田要らがいた。南太平洋海戦への途上、「飛鷹」の機関故障から同艦飛行隊の主力は同年10月24日、ラバウルに進出し第11航空艦隊のラバウル基地の基地航空戦に加わった。同年11月1日、ブインに進出し第三次ソロモン海戦に参戦。同年11月14日、ガダルカナルへの高速輸送船団の上空直衛の戦闘にて戦死。同日には同様に高速輸送船団の直衛にあたっていた菅波政治大尉(海兵61期、252空飛行隊長)も戦死している。兼子は操縦はさほどではなかったとされているが、統率力に秀でていたとも評されていた。兼子一、兼子宙は兄。

出典:wikipedia

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