大桑城(おおがじょう)は、鎌倉時代から戦国時代にかけて現在の岐阜県山県市にあった日本の城(山城)である。山県市大桑・青波・富永地区の境にある古城山(別名・金鶏山)(標高408m)の山頂付近に存在した。美濃守護土岐氏の守護所が置かれた城。古城山の山頂付近が本丸であり、その南に二の丸・三の丸が続き、400mにわたって曲輪が連なっていたと推定される。現在も曲輪、土塁等の遺構が残る。南麓(現在の市場、椿野、市洞)には城下町があって、栄えたという。城下町は越前国の朝倉氏の一乗谷城の城下町を参考にしたものであり、江戸時代まで残った。『美濃国諸旧記』によれば、逸見義重が承久の乱の功績によって大桑郷を領地とし、子の大桑又三郎が大桑城を築いたとされる(1250年頃か)。また、守護・土岐成頼の3男の土岐定頼が明応5年(1496年)に改築し、大桑兵部大輔と名乗って一代限りで住んだともいう(後に大畑と改姓)。その後は土岐頼純・頼芸の兄弟が居城とした。1509年(永正6年)には守護代の斎藤氏が台頭してきた事もあり、土岐氏は拠点を川手城(現済美高等学校付近)から福光館(現岐阜市福光)に移し、さらに1532年(天文元年)に枝広館(現岐阜県立長良高等学校付近)に移す。天文4年7月1日(1535年)、長良川の洪水で枝広館は流失したため、当主の土岐頼芸は拠点を稲葉山山麓に拠点を移した。また、土岐頼純は越前国の朝倉氏の協力で大桑城を拠点とし、城下町を開く。『美濃国諸旧記』によれば、1542年(天文11年)に斎藤道三に攻められ頼芸は城を出たが、尾張国の織田信秀の仲介で和睦し帰城した。しかし1547年に道三が再び侵攻すると落城して頼純は討死し、頼芸も本巣郡河内(現・本巣市)に逃れ、大桑城は道三によって焼かれた。
出典:wikipedia
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