LINEスタンプ制作代行サービス・LINEスタンプの作り方!

お電話でのお問い合わせ:03-6869-8600

stampfactory大百科事典

大関

大関(おおぜき)は、大相撲の階級である。「大関取」が語源とされ、かつては力士の最高位だったが、現在では「横綱」に次ぐ地位である。本来「三役(力士)」とは「大関・関脇・小結」を指すが、大関は三役の最上位であり、制度上の特権も多く、関脇や小結とは区別して扱われることが多い。そのため三役は「関脇・小結」のみを指すこともある。原則として東西に最低1名ずつ常設され、大関不在または一人大関となる場合は横綱力士が「横綱大関」としてその座を兼ねる。それも適わない時、つまり横綱不在で一人大関のように大関以上がひとり以下になってしまう場合には、関脇や小結から繰上げで昇進をさせることになるが、そのような例は近年は全く無いに等しい。江戸時代には大関に適した者がいない場合など看板大関といって、ただ大きくて見栄えがするというだけの理由で名前だけの大関にしたケースが多かった。大関昇進については横綱昇進における横綱審議委員会の内規のような明文化された基準があるわけではなく、臨時理事会での互選を経て昇進者は慣例的に「満場一致で賛成」された扱いとなる。マスコミの報道によると、「3場所連続で三役(関脇・小結)の地位にあって、その通算の勝ち星が33勝以上」というところが近年では大関昇進への基準の目安となっているといわれる。しかし、日本相撲協会自体はその基準目安の存在を否定しており、過去の例では条件を満たさずに昇進した大関、条件を満たしながら昇進を見送られた力士が少なからず存在する。番付編成会議で大関昇進が決定すると、相撲協会から使者が派遣され、横綱とほぼ同様な「昇進伝達式」が行われる。新大関は、翌場所の番付発表を待たずに、この時から大関として扱われることになる。なお、大関昇進後の特典としては、月給が関脇・小結より65万7000円昇給する(2010年現在)。また両国国技館の地下駐車場に直接自家用車を乗り入れ、駐車することも可能となる。さらに、海外場所などの移動に使う飛行機の座席クラスは、幕内力士がビジネスクラスであるが、大関以上にもなるとファーストクラスに座ることが可能となる。そして鉄道(新幹線)では、グリーン席に座ることも可能となっている。日本国籍を持つ大関力士は、日本相撲協会が財団法人時代には、評議員として役員選挙の投票権をもっていた。横綱・大関の日本国籍をもつ力士の中から、地位・年齢を加味して4名まで選出されていた。この権利は、公益法人となったときに廃止された。かつて昭和時代、1950年代頃から1970年代辺りまでの大関昇進基準は「直前3場所合計30勝前後」が一応の目安とされていた。1966年(昭和41年)9月場所新大関・北の冨士の直前3場所は、8勝-10勝-10勝の合計28勝17敗と、現在なら到底有り得ない甘過ぎる成績での昇進だったが、当時大関は豊山1人しかおらず、早く生きの良い大関誕生を願う、相撲協会の思惑があったからと言われている。ほか1961年(昭和36年)7月場所新大関の北葉山も、直前3場所が8勝-9勝-11勝の合計28勝で昇進した。その後昭和後期に入った1980年代頃より、大関昇進基準が「直前3場所が三役の地位で合計33勝以上」の目安とされた以降では、1985年(昭和60年)9月場所新大関・大乃国の直前3場所が、9勝-10勝-12勝の合計31勝14敗と、目安より2勝足らずに昇進した。当時大乃国はそれまで関脇の地位を連続6場所維持し、また成績も徐々に上回り、さらに将来性を期待されての理由からでもあった。ほか1981年(昭和56年)9月場所新大関の琴風や、1980年(昭和55年)3月場所新大関の増位山(太)らも、当時の大関が0人又は貴ノ花1人だけという事情も有って、同じく合計31勝で昇進している。平成時代に入ってからは、1999年(平成11年)3月場所新大関・千代大海の直前3場所の成績は、9勝-10勝-13勝(優勝)の合計32勝13敗と、33勝に1勝足りなかった。しかし当時は1994年(平成6年)3月の貴ノ浪・武蔵丸の二人同時昇進以来、5年間新大関が誕生しておらず、また千秋楽で本割・決定戦と横綱若乃花に連勝して、幕内初優勝を達成したその内容が、高く評価されたものと思われる。なおその内、北葉山と琴風は大関昇進後に各1回、大乃国と千代大海は昇進後各2回、北の富士は合計10回幕内優勝を果たしている。また昇進後の千代大海は貴ノ花が持つ大関在位場所数(50場所)の記録を大幅に更新し(大関在位65場所は魁皇と並び史上1位タイ)、北の富士と大乃国はのち横綱に昇進した。但し、増位山は大関昇進後一度も優勝争いに絡んだ場所が無く、最高成績も10勝がやっとで大関在位僅か7場所で現役引退した。2012年(平成24年)1月場所新大関・稀勢の里の直前3場所の成績は、10勝-12勝-10勝で合計32勝13敗であった。前年の2011年(平成23年)11月場所に琴奨菊が昇進するまで日本人大関が不在で、又直前6場所を全て勝ち越し10勝以上が5場所という安定した成績や、さらに平成の大横綱・白鵬との幕内対戦が直近6場所で3勝3敗と互角の成績を挙げた事などが評価された。但し稀勢の里の場合、11月場所千秋楽の結果を待たずに相撲協会の理事会で決定したが、稀勢の里の昇進で当時史上最多の5大関(現在史上最多数は2012年5月~9月場所の6大関)となり、また3場所33勝未満での昇進にも疑問の声があった。例として「千秋楽の琴奨菊戦を見た後決めるべき(結果稀勢の里は琴奨菊に敗北)」「新大関の直前場所で10勝止まりは1972年(昭和47年)11月場所の貴ノ花以来例無し」「直前場所で横綱・大関戦は過去史上ワーストの4敗」「相撲人気向上の無理矢理な大関誕生では」「場所前師匠が急死した同情論から」など挙げられている。2014年(平成26年)9月場所新大関・豪栄道の直前3場所の成績も、12勝-8勝-12勝で稀勢の里同様に合計32勝13敗だった。特に2場所前が1桁勝ち星(8勝)により大関獲りは一から出直しと思われたが、それまで史上1位の14場所連続で関脇に在位していた事(但し2回東関脇の地位で7勝と負越すも、翌場所は共に西関脇に留まっている)、また直前の2014年7月場所で10日目に鶴竜、11日目に白鵬と横綱二人を下し、さらに千秋楽では最後まで白鵬と優勝を争った大関・琴奨菊を倒した事などが評価され、大関昇進が決定した。その後豪栄道は2016年1月場所までの大関9場所の間10勝以上の二桁勝利が一度も無く、大関時代の勝率も5割未満だった為に「大関昇進は時期尚早だった」「豪栄道は大関の器では無い」等の辛辣な意見が多かった。だが大関10場所目の同年3月場所でようやく豪栄道は12勝3敗と千秋楽まで優勝争いに加わる好成績を挙げ、大関13場所目の同年9月場所では15勝0敗の全勝という成績(日本人力士の全勝優勝は1996年9月場所の貴乃花以来20年ぶり)で上記の稀勢の里よりも先に初の幕内最高優勝を果たしている。最近では、2015年(平成27年)7月場所新大関・照ノ富士の直前3場所が8勝-13勝-12勝(優勝)と合計33勝12敗だったが、3場所前が東前頭2枚目で8勝7敗と三役の地位では無かった。だが2場所前は千秋楽まで横綱・白鵬と優勝を争い優勝次点の好成績を挙げ、そして直前場所では幕内初優勝を果たした事が大関に相応しいと判断され、甘めながら同年5月場所後に満場一致で新大関となった。なお大関昇進の3場所前が平幕の地位だったのは、1986年(昭和61年)1月場所新大関・北尾(のち横綱・双羽黒。前頭筆頭で12勝3敗)以来29年ぶりだが、3場所前が平幕で1桁勝ち星となると、1983年(昭和58年)5月場所新大関・朝潮 (4代)(前頭筆頭で9勝6敗)以来の32年前までさかのぼる。琴錦功宗は1991年(平成3年)7月場所関脇で4勝11敗と大負けし、翌9月場所は平幕5枚目にさがったがここで13勝2敗と平幕優勝、小結に戻った11月場所も終盤まで2敗で優勝を争い、当時の二子山理事長(元横綱初代若乃花)も連覇なら関脇を飛び越えての大関昇進を検討することを明言した。結果、琴錦は千秋楽に破れて12勝3敗、優勝を逃して昇進は見送られた。なお、琴錦はその後も平幕上位や三役で10勝をあげ、1998年(平成10年)11月場所では史上初となる二度目の平幕優勝を果たすなど、幾度かチャンスがあったが、最高位関脇に留まっている。貴花田光司(のちの貴乃花)は1991年11月場所東前頭筆頭で7勝8敗、1992年(平成4年)1月場所は東前頭2枚目に落ちたがこの場所で14勝1敗と平幕優勝を果たし、翌3月場所で関脇に返り咲く。前々場所が平幕での負け越しながらも、協会幹部も「高い次元での連覇なら」と発言するなど大関とりの機運は高かったが、結果5勝10敗と大敗。貴花田の大関昇進は翌年1993年(平成5年)1月場所まで持ち越すことになる。琴ヶ濱は1957年(昭和32年)5月場所に西張出小結の地位で12勝(優勝次点)、翌9月場所は西張出関脇で11勝、次の11月場所は東関脇の地位で10勝とし、直前3場所全て三役在位中に合計33勝12敗を挙げていた。当時の大関昇進基準からすれば「直前3場所30勝」の大関昇進基準を大きく超えた成績であったが直前場所が10勝留まりだった事などが祟って見送られた。翌1958年(昭和33年)1月場所に東関脇で11勝するも再度見送られたが、続く3月場所を東関脇で13勝(優勝同点)と好調を持続し(合計34勝11敗)、ようやく同年3月場所後に悲願の大関昇進を達成した。1972年(昭和47年)3月場所、関脇で優勝した長谷川は、直前3場所は8勝-10勝-12勝(優勝)の合計30勝15敗の成績を挙げ、同3月場所後の大関確実と思われていた。しかし同3月場所中に大関同士(前の山対琴櫻)の対戦で、二人の大関に対し無気力相撲の指摘を受けたことなどにより、相撲協会は大関目前の長谷川に対し「もう1場所見てから」と慎重に判断、不運にも昇進は見送られることになった。次の長谷川の5月場所の成績は8勝7敗と勝ち越したが再度見送られ、翌7月場所は5勝10敗と負け越して平幕へ陥落、結局大関の地位を務めることなく引退した。長谷川の例以降は、大関の資質が問題にされることはしばらくなかった。ところが、1999年(平成11年)9月場所からの1年間で大関に昇進した4力士のうち、出島と雅山の2人の大関は昇進後、優勝はおろか千秋楽まで優勝争いに絡むことすら1度もなく、いずれも2年以内に関脇の地位へ陥落したため「大関の大安売り」と皮肉られたことがあった。それを機に、大関昇進は単なる星数だけではなく、相撲内容も問うこととなった。特にその煽りを受けてしまった力士が、1度目の大関昇進の機会を逃した琴光喜、2度目の大関昇進を目指した雅山、さらに把瑠都の3人であった。琴光喜は、2001年(平成13年)9月場所から2002年(平成14年)1月場所までの3場所間、幕内上位の地位で13勝-9勝-12勝の合計34勝11敗の成績だったが、昇進を見送られた。理由は、3場所前が前頭2枚目(13勝2敗で平幕優勝)だったこと、2場所前が9勝と1桁白星であったこと(平成以降の大関昇進者は曙・豪栄道の2力士を除き全て2場所前は10勝以上)、また当時大関が4人もいたことが引っ掛かった。さらに大関取りの2002年1月場所で、3敗目を喫した内容があまりにも悪かったほか、自分より遥かに地位の低い前頭8枚目の武雄山に敗れた理由もあったといわれる。その次の場所、2002年(平成14年)3月場所の琴光喜は勝ち越したが8勝7敗に終わり、またその場所中に顎を骨折し翌5月場所は全休(公傷適用されず)、7月場所は平幕へ陥落となり大関取りは振り出しとなった。それから5年後の2007年(平成19年)になって、琴光喜は3月場所から7月場所の間、関脇の地位で3場所35勝(10勝-12勝-13勝)を挙げ、年6場所制以降で史上最年長の大関昇進をようやく決めた。雅山は、大関再昇進を目指した2006年(平成18年)7月場所で、3場所合計34勝11敗(10勝-14勝-10勝)の成績を全て三役(小結・関脇)の地位で挙げていた。しかし、直前の場所が10勝止まりだったこと(平成以降に大関昇進した力士の直前場所は、大関特例復帰者と稀勢の里を除いて全て11勝以上)や、当時大関が既に5人いたことを理由に昇進を見送られている。その後、翌9月場所の雅山は勝ち越したが9勝6敗に留まり再度見送られ(但し3場所合計は三役で33勝12敗だった)、11月場所は8勝7敗、翌2007年1月場所は5勝10敗と負け越し平幕へ陥落。結局雅山の大関復活はならなかった。把瑠都は、2010年(平成22年)1月場所で合計33勝12敗(12勝-9勝-12勝)を三役の地位で挙げたものの、2場所前が1桁勝ち星だった事や、上述の琴光喜や雅山のように、合計34勝を挙げながら昇進出来なかった例もあって見送られる。次の3月場所の直前、審判部から「大関昇進を決定づけるには13勝(3場所合計34勝)以上」という高い条件をつけていた。それでも把瑠都は、11日目に横綱・白鵬に敗れたのみで14勝1敗の優勝次点、3場所とも関脇の地位で合計35勝(9勝-12勝-14勝)を挙げ、3月場所後に文句なしの新大関となった。江戸時代には大関からいきなり平幕に落ちた例もあるが、当時は現在とは全く違う基準で番付を作成していたため参考にはしにくい。看板大関の制度が存在した時代の番付は必ずしも実力本位のものではなく、また看板大関がそもそも一時的な大関といった扱いのためより大関にふさわしいと思われる者が見つかれば地位を明け渡すことが前提であった。看板大関廃止後は実力本位で番付を作成するようになったが、それ以降にも大関から平幕への降格が存在する。明治時代には大関から平幕への陥落はなくなっていたが、まだ番付編成は現在と大きく異なっており、一ノ矢藤太郎や大碇紋太郎のように勝ち越していながら降格となった者も存在した。その後も大正時代までは1場所で大関から即陥落も制度上存在し、実際に1場所で降格となった力士も存在する。大関陥落については江戸時代以来長らく明確な基準が無く、関脇や小結の成績も大関の降格に影響していたため、こちらが非常に優秀な成績であれば大関の勝ち越し降格も当時の感覚では不自然なことではなかった。2場所連続負け越しでの大関よりの降下は、1927年の東京相撲と大坂相撲の合併以来の諸制度の確定の中で定着した(ただし、1929年〈昭和4年〉から1932年〈昭和7年〉までの2場所通算成績などで番付を編成していた時代には、必ずしもこの限りではない)。なお、戦前までは大関からの陥落は必ず関脇になるとは限らず、小結まで落とされた例も存在する。また昭和以降大関の力士で陥落(関脇)したのちに、大関へ復活を果たしたのは、汐ノ海が最初のケースとなった。しかし、1958年(昭和33年)に、年間6場所制度が実施されたときには、2場所では厳しすぎるということで、3場所連続の負け越しで関脇に陥落としていた。ところが、それでは甘すぎるという批判の声もあって、1969年(昭和44年)7月場所より、「2場所連続で負け越した場合、関脇へ降格する。ただし、降格直後の場所で、取り組み日数(現・15日)の三分の二(同・10)勝以上の勝ち星を挙げれば、大関に復帰できる」という、現行の大関特例復帰の制度が施行された。なお、公傷制度発足当時は大関に限りこれを適用しなかった。後に適用されることとなって以降、同制度適用者の全休はこの場所数にはカウントされなかったが、本場所での負傷に対する公傷制度は2003年(平成15年)11月場所をもって廃止された。この大関特例復帰の制度で、関脇から大関に再昇進した例は4人(三重ノ海、貴ノ浪、武双山、栃東)で5度(栃東が2度)である。三重ノ海はのちに横綱昇進も果たしている。貴ノ浪は一度大関特例復帰を果たしたが、そのわずか2場所後関脇に再陥落しており、再度の大関特例復帰はならなかった。この特例復帰の場合は、新大関に昇進するのと同様に新番付発表を待たずに、大関復帰が決定した場所の直後から大関として扱われる。また、当然ながら大関への再昇進伝達式は行われない。なお、魁傑は大関を陥落した翌場所に10勝を挙げられず平幕に落ちた後、この制度の恩典にあずからずに大関に復帰しており、その際には再昇進伝達式が行われた。これは内規によらず通常の新大関と同様に番付編成会議と理事会の審議により大関返り咲きが決まったためである。この時、魁傑は「大関の名を汚さぬようにって言っても俺は一度汚しちゃったからな。」とコメントして報道陣を笑わせた。あと1場所負け越せば関脇に降格する場合、「角番」(かどばん)と呼ぶ。その場所で8勝をあげ勝ち越せば、角番脱出となり大関にとどまれる。また、2場所連続で負け越しても翌場所10勝以上をあげれば大関に復帰できるので、一旦大関になると2場所に1回の8勝で大関の地位を保つことができ、3場所に1回の10勝で関脇陥落後もすぐ大関特例復帰により返り咲くことができる。一方、関脇以下は勝ち越さないと番付が維持されず、勝ち越しても確実に昇格の保障がなく、とくに大関陣が不調の時期にはその厚遇ぶりが批判の的となることもあった。2000年代半ばのように大関昇進前の琴光喜、関脇陥落後の雅山、かつて大関候補者の若の里らのように、強い関脇が存在しているとなおさらである。なお元大関で関脇以下へ陥落した力士は、幕内から十両の地位への転落が必至になったことを機に慣例的に引退するケースがほとんどであるが、大受・雅山・把瑠都の合計三人が現役中に十両陥落を経験している。現役引退後、年寄として協会に残る場合は3年間、平年寄ではあるが委員待遇として扱われ、番付では「年寄」の上位に置かれる(序列は委員待遇の平年寄>持ち名跡で襲名した平年寄>借り名跡で襲名した平年寄)。また1997年5月1日以降は、年寄名跡を取得していなくても引退から3年間四股名のまま年寄として残ることができるようになった(この特典は、2007年5月場所前に引退から3年以内の玉ノ井部屋継承を予定していた栃東が初めて利用し、それから約7年後となる2014年3月場所中に琴欧洲が2例目として利用した)。委員待遇の3年を経過すると主任になるか(貴ノ浪、栃東など。番付上は昇格となるが、収入は減る。但し短期間で委員に昇格する)、3年以内に審判委員に起用される(魁傑、武双山、出島、千代大海、魁皇など)ことがほとんどである。なお、最高位が大関で引退後相撲協会にとどまらず即退職(廃業)した力士は、戦後では若羽黒朋明(1965年1月場所限り)、琴光喜啓司(2010年5月場所限り、大相撲野球賭博問題で解雇処分)、把瑠都凱斗(2013年7月場所限り)がいる。横綱のそれほど知られてはいないが、江戸勧進相撲で初めて木版刷りの縦一枚番付が発行された1757年(宝暦7年)10月場所の東大関である雪見山を初代、西大関の白川を2代として、昇進順に代数がふられる場合もある。例えば寛政の無類力士雷電は76代大関、2015年(平成27年)7月場所で昇進した最も新しい大関の照ノ富士は246代大関となる。しかしこの中には、横綱に昇進した者(例として、歴代横綱の第一人者谷風は35代大関、現役横綱の白鵬は238代大関、日馬富士は240代大関、鶴竜は244代大関)や、実際に相撲を取らなかった看板大関も含まれていて、一般にはあまり用いられない。元々相撲興行の中心は大坂・京都であり、宝暦7年以前の番付についても元禄年間の頃からの番付が写本や板番付の形で50場所分近く残されており、初代両国梶之助、源氏山住右衛門、初代谷風梶之助、丸山権太左衛門、阿蘇ヶ嶽桐右衛門、鞍馬山鬼市、相引浦之助など、宝暦7年以前の名大関を無視しているため、こういったカウントに疑問を持つ者もいる。なお大関が同時昇進したの場合は、昇進場所でより上位だった力士を先代としている。前述の雪見山と白川の他、最初期は興行用の看板大関が東西に付け出されることが多かったが、すべて東方が先代、西方が次代となっている(ただし、番付で東方上位の認識が定着したのはのちの時代のことである)。直近の例では、1994年(平成6年)3月場所に同時昇進した貴ノ浪貞博と武蔵丸光洋の場合、直前場所が13勝2敗(西関脇)で東張出大関だった貴ノ浪が228代大関、直前場所が12勝3敗(東関脇)で西張出大関の武蔵丸が229代大関となっている。またひとりの力士が大関から陥落後再昇進した場合、天皇や大統領、首相などと違って、その間に別の新大関が誕生していたとしても新しい代数がふられることはない。例えば208代大関の魁傑將晃の場合、その最初の昇進(1975年3月場所)と2度目の昇進(1977年3月場所)の間に、209代三重ノ海、210代旭國、211代若三杉(魁傑の再昇進と同時昇進)と3人の大関が誕生しているが、魁傑が212代大関とはされていない(212代大関は増位山太志郎)。現行制度上、通算大関在位の最短は2場所であるが、年6場所制以降は下記の通りである。尚、「連続大関在位場所数」での見方をすれば、貴ノ浪・武双山・栃東の3人が、2場所で関脇陥落の最短記録を作っている。貴ノ浪は大関復活後に再陥落、武双山は陥落後直ぐに返り咲き、栃東は再大関で陥落するも直ぐ再々昇進を果たし、通算大関在位場所数ではそれぞれ貴ノ浪37場所、武双山27場所、栃東30場所(番付上は31場所)となっている。なお貴ノ浪は、連続大関在位場所数の長期(35場所)でも短期(2場所)でも、歴代ランキングに顔を出す珍記録も持っている。その次に3場所で関脇陥落したのは三重ノ海だが、その関脇の地位で10勝を挙げ1場所で大関特例復帰を果たす。三重ノ海はその後大関通算在位21場所(降下直後の関脇も含めると合計22場所)で横綱昇進を果たしたが、大関転落者がのちに横綱となったのは三重ノ海ただ一人である。魁皇の幕内優勝5回は、最高位が大関以下の力士の中では史上1位である。なお一昔前であれば優勝を5回も経験すれば、皆全員横綱に昇進していた(中には照國や北尾(のち双羽黒)など、優勝無しで横綱昇進した力士もいる)。しかし、当時の横綱昇進基準では「大関の地位で2場所連続優勝」が絶対条件だったため、魁皇は大関時代に連続優勝を果たせず、横綱にはなれなかった。また若嶋津の優勝2回の内、1回は全勝優勝である。最高位大関以下の力士で全勝優勝を達成は、15日制のもとでは、他に時津山と玉乃海(共に最高位は関脇)。横綱に昇進した力士で大関以下での優勝が多かった力士は貴乃花で7回、うち5回が大関での優勝。他に武蔵丸が大関で5回優勝の最多タイ。彼ら以前では、玉錦が大関以下で5回、大関で4回の優勝、現在と番付編成の制度が違ったことなどにもよるが、大関で3連覇でも横綱を見送られるなど、約60年に渡って「大関以下」「大関」ともに最多記録保持者だった(大関での優勝については琴櫻に並ばれ、のちに3代若乃花と魁皇がこれに続く)。2012年(平成24年)5月場所において、大相撲史上初めての6大関が在籍となる。四股名は開始場所時点のものである。6大関に次ぐ5大関は、現在まで17例がある。四股名は開始場所時点のもの。2015年現在では、4横綱6大関の大関以上10人も前例に照らしてありえるが、これまでの最多は8人で4横綱4大関が2例、3横綱5大関が2例となっている。昭和以降で大関が一人だけ在位し、東西に揃わない状態だった例はこれまでに11例ある。このうち4例目と5例目においては、横綱力士が大関の地位を兼ねる「横綱大関」も置かれず、厳密な意味での「一人大関」となった。番付面で「横綱」の地位が現れて以降で、「大関空位(不在)」となったことが2例ある。

出典:wikipedia

LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。