グレート・ウェスタン鉄道2900型蒸気機関車 () はイギリスのグレート・ウェスタン鉄道 ( : GWR) が製造した旅客用テンダー式蒸気機関車の1形式である。各車の固有名から、セイント型あるいはセント型 (Saint Class) とも呼ばれる。20世紀初頭、「軌間戦争」を経て全線の標準軌への改軌が完了したばかりのGWRにおいて、第二次世界大戦後の国有化までの約40年間に同社が製造した旅客用蒸気機関車すべての設計の基本を確立しただけでなく、他のイギリス4大私鉄各社でその後設計された旅客用蒸気機関車の設計にも大きな影響を及ぼした、イギリスの蒸気機関車発達史上において重要な形式の一つである。1902年にグレート・ウェスタン鉄道の機関車総監督(Locomotive Superintendant)に就任し、その後1915年に改組で技師長(Chief Mechanic Engineer : CME)となったジョージ・チャーチウォード(:1857年 - 1933年。機関車総監督・CME在任期間:1902年 - 1922年)によって設計された。チャーチウォードはGWRの蒸気機関車製造と保守を一手に担っていたスウィンドン工場長を長年にわたって務めており、四半世紀に渡ってGWRの機関車総監督を務めた前任のウィリアム・ディーンに次ぐGWR技術者のナンバー2として、機関車総監督就任に先立つ1900年頃から独自の構想に基づく機関車の設計を始めていた。彼の設計は、イギリス国内だけではなく、同時期のアメリカ・フランス・ドイツなどの各国の鉄道会社での最新蒸気機関車設計について広範かつ慎重な比較検討を行った上で、今後のGWRにおける機関車設計の徹底的な標準化・規格化を念頭に置いて計画されたもので、非常に革新的な機構と伝統的な設計の混在するデザインとなっていた。しかも慎重なチャーチウォードはこれを直ちに量産せず、まず1902年から1903年にかけて順にNos.100・98・171と付番された3両の試作機をスウィンドン工場で製造した。これらは2軸ボギー式の先台車と3つの6フィート8 1/2インチ(2,044.7mm)径の動輪よりなる、テンホイラー(または2C)と呼ばれる高速運転に適した軸配置を採用しており、客車の大型化などによる牽引列車の重量増大と列車運転速度向上の双方の要求に対応できるように設計されていた。一方、過熱装置の一般化前夜に当たるこの時期、海を隔てたフランスの有力私鉄の一つであった北部鉄道(NORD)では、1885年よりミュルーズ市のアルザス機械製造会社(Société Alsacienne de Constructions Mécaniques:SACM)技師長のアルフレッド・ドゥ・グレーン()が考案し、ガストン・デュ・ブスケの協力を得て実用化した、ドゥ・グレーン(De Glehn)式複式4気筒機関車が大きな成功を収めつつあった。特に1900年より製造が開始された、2.6形と呼ばれるアトランティック形軸配置(または2B1)の新形機関車は大きな成果を上げ、各国鉄道技術者の注目を集めていた。こうした国外の新型機設計について情報収集と研究に余念がなかったチャーチウォードは、早速フランス流の最新機関車設計のサンプルとして3両の機関車をSACM社へ発注、Nos.102 - 104としてGWR線上で試験を開始した。これらの内、Nordの2.6形に準じた仕様を備えるNo.102 ラ・フランス(La France)と比較する目的で、チャーチウォードは新造間もないNo.171 アルビオン(Albion)を単式2気筒のままアトランティック形軸配置へ改造し、さらにNo.172 クイックシルバー(Quicksilver)としてやはりアトランティック形軸配置の試作車をもう1両スウィンドン工場で追加製造し、徹底的な比較試験とデータ収集を行った。こうした一連の性能試験の結果、本形式の量産車は単式2気筒のテンホイラーとして製造が行われることとなり、上述の4両の試作車を量産車と同じ仕様に改めたものを含め、合計77両がスウィンドン工場で製造された。なお、こうした状況で最適な軸配置を決めかねたのか、量産初期の18両(Nos.173-190)は当初、Nos.171・172と同じ軸配置4-4-2として製造され、後にテンホイラーへ改造されている。本形式は設計面でも運用面でも大きな成功をおさめ、ここにGWRの初代主任技術者であるイザムバード・キングダム・ブルネル () が創始した7フィート1/4インチ(2,140mm)軌間を捨てて標準軌間へ全面改軌された、新生GWRによる以後の蒸気機関車設計の基礎が確立された。鬼才ダニエル・グーチ () の残した超広軌用シングルドライバーの影響から逃れられず、またその任期の大半をGWR路線網の改軌工事に奔走した、ウィリアム・ディーン () ら2人の先任機関車総監督時代のものとは全く異なる、設計当時のアメリカをはじめとする各国の最新型蒸気機関車を参考にした完全新規設計となっている。アメリカ風の一体鋳鋼製シリンダブロックを伝統的なイギリス流の板台枠に組み合わせ、ウェールズ産高火力瀝青炭の使用を前提とするベルペア式の狭火室を備えた独特の形状のボイラーよりなる本形式の基本デザインは、短くほとんど屋根もない運転台や車輪間に置かれ外から見えない内側スティーブンソン式弁装置などの採用もあって一見ひどく古風な印象を与えた。だが、当初のものでも1平方インチ当たり200ポンド、後のもので1平方インチ当たり225ポンドに達する、この時代の煙管式ボイラーとしては高圧のボイラーから送られる蒸気を、長いバルブモーションやピストンの全行程の20パーセント以下の短いカットオフといった特徴を備える弁装置によって2フィート6インチ(762mm)という長い行程を備える各シリンダーへ送り込む各部機構は、大量の蒸気を動力に変換する上で非常に効率が良く、本形式以降に世界各国で設計製造された高速旅客用蒸気機関車群、特に過熱式ボイラー採用開始以降のそれらに大きな影響を及ぼす、非常に先進的かつ蒸気機関車発達史上でも重要な意味を持つ設計であった。本形式や同時期設計の貨物機であるコンソリデーション形軸配置(または1D)の2800型 () などではその設計について標準化・規格化が強く意識されていた。これらはいずれも同じ基本構造・設計による板台枠を採用し、要求性能に応じて予め行程・シリンダ径を違えて複数のモデルが準備された鋳鋼製シリンダブロックや、異なる直径の動輪の中から適切な仕様のものを組み合わせて選択、さらに同型のボイラーを搭載することで、それぞれの要求性能を充足しつつ機関車設計の標準化や搭載機器・部材の共通化を実現し、製造・メンテナンス双方のコストの低減が図られた。本形式の設計上、特に重要な意味を持っていたのが、チャーチウォードによって白紙状態から設計され、後にNo.1形(Type No.1)と命名された、標準規格ボイラーである。チャーチウォードは、本形式の量産設計の前に製造された合計4両の試作車、特にNo.171までの3両でボイラーの燃焼効率について最適解を得るため、様々な設計を試み、最終的にアメリカ流のベルペア式火室が印象的な円錐形ワゴントップボイラーをもって一応の完成とした。このボイラーは蒸気ドームも一般的な給水暖め器も持たず、缶胴上にクラック弁による注水機構を搭載するのみ、とシンプルな外観となっている。もっとも、そのシンプルさに反してこのボイラーは単式2気筒の本形式や2800型では有り余るほどの蒸気発生能力を備え、続く単式4気筒のより強力な急行旅客列車用機関車であるスター型 () にもそのまま採用された。さらに、チャーチウォードの後任CMEであるチャールズ・コレット ( : 在任期間 : 1922年 - 1941年)の下で本形式の設計をほぼそのまま流用して設計された単式2気筒の貨客機であるホール型 () や、コレットの後任でありGWR最後のCMEとなったフレデリック・ホークスワース( : 在任期間 : 1941年 - 1947年)がホール型を改良したホール改型 () などにもこのNo.1形ボイラーは採用され続け、GWRの標準型蒸気機関車用ボイラーとして40年以上にわたって新製蒸気機関車に搭載されるという、異例の長期生産実績を残した。この間、1910年には過熱装置の搭載で更に性能が向上、コレットやホークスワースの時代にも、連装ブラストノズルの採用をはじめとする煙室部の改良や過熱装置の設計見直しなどによる燃焼効率の改善が追求され続けた。また、このNo.1形の設計を基本としつつ目的に応じたスケールダウンモデルが複数設計され、No.2形 (Type No.2) やNo.3形 (Type No.3) 、あるいはNo.4形 (Type No.4) など、チャーチウォードのCME在任期間中に設計された機関車各種に集中的に搭載されている。さらに、スター型の強化版であるキャッスル型 () のために設計されたNo.7形やNo.8形、キング型 () のNo.12形、それにGWRとして最後の新規設計された蒸気機関車用ボイラーであるNo.15形(カウンティ型 () 用)など、コレットとホークスワースがCMEの時代に設計された新型高性能ボイラーも全てNo.1形の設計を基に拡大・改良されており、このNo.1形は名実ともに改軌以降のGWRを代表する傑作ボイラーであったと言える。加えてこのNo.1形の設計の要諦は、コレットがCMEの時代にGWRからロンドン・ミッドランド・アンド・スコティッシュ鉄道 ( : LMS) へ移籍し同社CMEとなったウィリアム・ステニアー () によってLMSへ伝えられ、使用する石炭の品質差などの事情から火室部の設計こそ大きく異なっていたものの、ステニアーが手がけた、ターボモーティブ () をはじめとする、LMSが国有化されるまでの間に製造された一連の同社向け蒸気機関車用ボイラーの設計にも大きな影響を与えている。本形式の量産車は、Nos.173 - 190(後にNos.2973 - 2990へ改番)・2901 - 2955がスウィンドン工場で1905年から1913年にかけて製造された。なお、前述の通り4両の試作車は量産開始後もデータ収集のために様々な構造のボイラーを試用したが、全車とも1913年までにボイラーを量産品のNo.1形へ換装、アトランティック形軸配置のNos.171・172についてはテンホイラーへの改造を行うなどした上で量産化改造と改番が実施され、本形式に編入されている。本形式そのものの量産は通算77両を数えたところで打ち切りとなったが、前述の通り本形式のNo.2925 セント・マーチン(Saint Martin)を1924年に改造してテストの上で、貨客機であるホール型として1928年より1943年にかけて258両が製造され、更にこのホール型を改良したホール改型が1944年から1950年にかけて71両製造されており、いずれもその主要部分の設計は一切変更されていない。つまり、運転台の大型化による乗務員の居住性改善など多少の仕様変更はあったものの、45年間に合計406両が基本的には同一設計のままで製造が続けられたということになる。いかに保守的なイギリスの鉄道でもここまで長期間にわたって同じ基本設計で量産が続いた例は他になく、その先駆けとなった本形式の設計の優秀性とGWRにおける標準化の徹底ぶりがうかがい知れる。本形式はGWRの主力機関車の一つとして大量導入され、シンプルで扱いやすく、しかも規格化された構造故に運転・保守の双方から好評を博した。廃車は1931年のNo.2985 ペベリル・オブ・ザ・ピーク(Peveril of the Peak)を皮切りに順次進められ、1953年までに全車廃車解体処分された。前述の通り、本形式はGWRを代表する重要な形式であったにもかかわらず、全車スウィンドン工場で解体処分済みであり、現存しない。ただし、現在ホール型の保存車の1両を改造し、本形式の仕様とするという、ホール型の開発プロセスを逆行する方法で、本形式の復元を図る計画が進められている。デイヴィッド・ロス 編著、小池滋・和久田康雄 訳『世界鉄道百科図鑑 蒸気、ディーゼル、電気の機関車・列車のすべて 1825年から現代』、悠書館、2007年、ISBN978-4-903487-03-8
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