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台湾

台湾(たいわん、、台: Tâi-oân)は、東アジアの島嶼である。1945年に当時中国大陸を本拠地とした中華民国の統治下に入り、1949年に中華民国政府が台湾に移転した。1955年以降、中華民国は台湾本島以外にも澎湖諸島、金門島、馬祖島及びその他諸島を実効支配しているが、全体の面積に占める台湾(本島)の割合は99%以上になる。そのため、中華民国の通称として「台湾」と表記される(詳細は定義参照)。近隣諸国としては、東及び北東に日本、南にフィリピンがある。事実上の首都は台北市である。大合併により成立した新北市は、台北市及びその外港である基隆市を囲む大都市圏を包含し、2015年時点では同島で人口最多の都市である。かつては「フォルモサ」 (, 「麗しの島」) として知られた台湾島は、漢民族が同島に移住し始めた17世紀における大航海時代のオランダ及びスペインの植民まで、台湾原住民が主に居住していた。1662年、明寄りの支持者である鄭成功はオランダを追放し、同島初の漢民族の政治的実体である東寧王国を設立した。清は後に同王国を破り、台湾を併合した。1895年に日清戦争の結果下関条約にて台湾が日本に割譲されるまでには、台湾の居住者の大多数は祖先又は同化のいずれかにより漢民族であった。現在のDNAの調査によれば、8割が南方アジア系である。1912年、中華民国が中国に設立された。1945年における日本の降伏後、中華民国は台湾の統治を引き継いだ。国共内戦後、中国共産党は中国大陸を完全に支配し、1949年には中華人民共和国を設立した。中華民国は政府を台湾へと移転し、同国の法域は台湾及びその周囲の諸島に限定された。1971年、中華民国が当初占有していた国際連合での中国の議席を中華人民共和国が継承した。多くの国が中華人民共和国へと国際的承認を切り替えるにつれ、中華民国の承認は次第に失われてきた。現在国連加盟21箇国及び聖座のみが中華民国と公式の外交を有するが、他の多くの国家とは駐在員事務所経由で非公式な関係を有する。そのため、多くは公式に台湾を中華人民共和国台湾省また台湾地域と表記している。憲法上、中国大陸及び外蒙古を含む定義における「中国」全てを主権国家として政府が主張するかどうかに関して論争が存在するが、1992年以来、中華民国は中国大陸を取り戻すことを政治的目標にはしていない。しかし、政党の連立に大いに依存する中国との関係の政治姿勢を定義する政府の立場は責任を負っている。一方、中華人民共和国は自らを中国唯一の合法的な代表であると強く主張し、主権国家としての中華民国の地位及び存在を否定し、台湾を中華人民共和国統治権下の台湾省として主張する。中華人民共和国は台湾独立のいかなる公式な宣言への反応として軍事力を行使すると脅迫し、平和的な再統一はもはや不可能であると考えている。中華民国におけるナショナル・アイデンティティの問題だけでなく両岸関係も台湾の政治において重要な要因であり、政党及び各政党支持者間の社会的及び政治的区分の原因となっている。20世紀後半に台湾は急速な経済成長及び工業化を経験し、現在では先進国である。1980年代及び1990年代初頭、普通選挙で複数政党制民主主義に発達した。台湾はアジア四小龍の一角であり、WTO及びAPEC加盟地域である。世界第21位の経済規模を有し、世界経済においてハイテク産業は重要な役割を担っている。台湾は言論の自由、医療、公教育、経済的自由、人間開発の観点から上位に順位付けされている。台湾の語源は不明確で、原住民の言語の「Tayouan(ダイオワン)」(来訪者の意)という言葉の音訳とも、また、「海に近い土地」という意味の「Tai-Vaong」や「牛皮の土地」という意味の「Tai-oan」などの言葉に由来するとも言われる。大員(現・台南)が ダイワンと呼ばれており、そこにオランダ人が最初に入植したためとも見られている。いずれにしても原住民の言葉が起源と見られ、漢語には由来していない。中国の文献に台湾が台湾と呼称されるようになったのは清朝が台湾を統治し始めてからのことである。台湾島には、フォルモサ (Formosa) という別称が存在し、欧米諸国を中心に今日も使用されることがある。これは「美しい」という意味のポルトガル語が原義であり、16世紀半ばに初めて台湾沖を通航したポルトガル船のオランダ人航海士が、その美しさに感動して「Ilha Formosa(美しい島)」と呼んだことに由来するといわれている。なお、フォルモサの中国語意訳である美麗(之)島や音訳である福爾摩沙を台湾の別称として用いることもある。ちなみに、日本では高山国(こうざんこく)、もしくは高砂国(たかさごこく)と呼んだ。高山国や高砂国などは「タカサグン」からの転訛という。これは、商船の出入した西南岸の「打狗山」(現・高雄)がなまったものと思われる。正式の使節ではないが、タイオワン事件に関して、原住民が「高山国からの使節」として江戸幕府3代将軍徳川家光に拝謁したこともある。『漢書地理志』の中に「会稽海外有東鯷人、分為二十余国、以歳時来献見……」との記載があり、一部の学者はとは台湾を指す名称であると主張している。しかし漢代の中心地は中原と呼ばれる、長安および洛陽を中心とする地域であり、福建省や広東省の沿岸地帯(河洛)に至ることは非常に稀であった。ゆえにその東岸にある島嶼を正確に記録したとは考えにくく、東鯷とは海上の島嶼群を漠然と示した名称であると考えられ、台湾の呼称と即断することは困難である。三国時代には、沈瑩著『臨海水土志』と陳寿著『三国志』呉志の孫権伝の部分に記述が見られる。『臨海水土志』に、「夷州在浙江臨海郡的東南、離郡二千里、土地無霜雪、草木不枯、四面皆山、衆山夷所居。山頂有越王射的正白、乃是石也。」「部落間互不相属、各号為王、分割土地……」、および夷洲在臨海東南、去郡二千里。土地無霜雪、草木不死。四面是山谿。人皆穿耳、女人不穿耳。土地饒沃、既生五穀。又多魚肉。有犬、尾短如麕尾状。此夷舅姑子婦臥息。共一大牀、略不相避。地有銅鐵、唯用鹿格爲矛以戰闘、摩礪青石以作(弓)矢鏃。取生魚肉雜貯大瓦器中、以鹽鹵之、歴月所日、乃啖食之、以爲上肴とあり、『孫権伝』には、二年春正月,魏作合肥新城。詔立都講祭酒,以教學諸子。遣將軍衛溫、諸葛直將甲士萬人,浮海求夷洲及亶洲。亶洲在海中,長老傳言:秦始皇帝遣方士徐福將童男童女數千人入海,求蓬萊神山及仙藥,止此洲不還。世相承有數萬家,其上人民。時有至會稽貨布,會稽東縣人海行,亦有遭風流移至亶洲者。所在絕遠,卒不可得至,但得夷洲數千人還。とある。これらの場合の夷州は台湾島の特徴に合致する。またこのような島嶼は中国南部の沿岸には台湾島以外に見当らないため、この時代には中国文明が台湾を認識していたと考えられている。隋末から宋までの600年間、中国の文献の中で台湾の記事が出現しない空白期間を迎える。元代になると再び記録に台湾が出現するようになる。明代の記録である『東西洋考』、『閩書』、『世法録』では台湾を東蕃、と呼んでいる。周嬰在が表した『東蕃記』では台員、何喬遠が表した『閩書島夷誌』では大員、張燮の『東西洋考』では大円、何喬遠の『鏡山全集』では台湾、沈鉄的奏折の中では大湾のように様々な呼称が与えられている。また福建沿岸の民衆は台湾南部を、中原の漢族は台湾北部を小琉球と呼んでいる。明王朝の太祖・朱元璋の時代になると、琉球という呼称は沖縄・台湾双方を指す語として使われ続けたため、両者の区別に混乱が生じ、沖縄を大琉球、台湾を小琉球と呼ばれるようになるが、その後名称に混乱が生じ、小東島、小琉球、雞籠、北港、東番のような名称が与えられていた(地理そのものが知られていなかったので、これらが台湾全島を含んだとは限らず、台湾を中心とした概念だったかもわからない)。明末に鄭成功が台湾に建てた鄭氏政権時代になると、鄭氏政権は台湾を「東都」、「東寧」などと呼ぶようになった。なお、「大員DaiUan/ダイワン」の呼称が用いられるようになると、いつしか台湾近くにある琉球嶼(屏東県琉球郷)を指して「小琉球」と呼ばれるようになり、台湾と琉球嶼との間で両者の区別に混乱が生じている例もある。このような名称の変遷を経て、清朝が台湾を統治し始めた後に、原住民の言語を語源とする台湾が使われるようになった。台湾は、台湾本土とその周辺諸島(澎湖諸島・蘭嶼など)、および金馬地区と東沙諸島・南沙諸島から構成されており、面積はと日本の九州と同程度(日本の約10分の1)の大きさである。台湾北東部は日本の琉球諸島の西方海上に位置しており、最も近い与那国島との距離は110km以下である。また、台湾地域西端の金馬地区は台湾海峡を隔てて中国と接しており、最南端の岬である鵝鑾鼻(がらんび)は、バシー海峡を隔ててフィリピンと接している。台湾最大の島である台湾島は、南北の最長距離が約394km、東西の最長距離が約144kmで木の葉のような形をしている。島の西部は平野、中央と東部は山地に大別されるが、島をほぼ南北に縦走する5つの山脈(中央山脈、玉山山脈、雪山山脈、阿里山山脈、海岸山脈)が島の総面積の半分近くを占めており、耕作可能地は島の約30%にすぎない。台湾最高峰の山は玉山山脈の玉山(旧日本名:新高山、海抜3,952m)であり、富士山よりも高く、同様に雪山など標高3,000mを超える高山が多数連なっている。また、このほかの重要な地勢としては丘陵、台地、高台、盆地などが挙げられる。なお、台湾はフィリピン海プレートとユーラシアプレートの交差部に位置するため、日本と同様に地震活動が活発な地域である。また日本と同じ火山帯に属し、温泉も豊富にある。台湾はほぼ中央部(嘉義県付近)を北回帰線が通っており、北部が亜熱帯、南部が熱帯に属している。そのため、北部は夏季を除けば比較的気温が低いのに対し、南部は冬季を除けば気温が30度(摂氏)を超えることが多くなっている。台湾の夏はおおよそ5月から9月までで、通常は蒸し暑く、日中の気温は27度から35度まで上り、7月の平均気温は28度である。冬は12月から2月までと期間が短く、気温は総じて温暖であり、1月の平均気温は14度である。ただし、山岳部の高標高地帯では積雪が観測されることもある。平均降雨量は年間およそ2,515mmであり、雨期に多く、また降雨量は季節、位置、標高によって大きく異なっている。台湾は台風の襲来が多く、毎年平均3 - 4個の台風に襲われている。台風で給水の大きな部分を賄っているが、同時に損壊、洪水、土砂流などの災害も発生している。1996年の台風9号や2009年の台風8号などは、豪雨をもたらした。また、台風以外にも、夏季には台湾語「サイパッホー (sāi-bak-hō)」(普通は西北雨と表記、正しいのは夕暴雨)と呼ばれる猛烈な夕立が多い。今日の台湾における重要な政治的問題としては、台湾問題が挙げられる。台湾問題とは、台湾の最終的な政治的地位および主権帰属を巡る中華民国と中華人民共和国と台湾未定論の問題である。1945年9月2日調印のポツダム宣言(第二次世界大戦終結)に伴い、中華民国・南京国民政府は、連合国軍の委託を受けて駐台湾日本軍の武装解除を行うために台湾へ軍を進駐させ、1943年のカイロ宣言に従い(ただし、同会談後に報道関係者向けに配布されたニュース・リリースであり無効という説もある)、1945年10月25日に台北で日本側の安藤利吉台湾総督・第十方面軍司令官が降伏文書に署名し、中華民国は台湾の実効支配を開始した(台湾光復)。ただし、この時点では行政権を中華民国に移譲しただけであり、国際法上、台湾島地域は依然として日本国の領土であった。1949年10月1日に国共内戦で勝利した中国共産党が中華人民共和国を樹立し、中華民国政府が国共内戦下で一旦崩壊した上で「台湾国民政府」として再始動してからは、両党間で「中国を代表する正統な政府」としての権利を巡る対立が生じるようになり(→中華民国の歴史)それと同時に台湾の政治的地位と主権帰属も対立の一要因となっていった。なお、日本国政府は、1951年のサンフランシスコ講和条約および1952年の日華平和条約において台湾島地域に対する権原を含める一切の権利を放棄したが、それらの帰属先が明言されていないため、台湾島地域の国際法上の領有権は現在でも未確定であるという見方(台湾地位未定論)もある。21世紀初頭では、国際政治上の駆け引きの結果から「中国を代表する正統な国家」として中華人民共和国を承認する国が大勢を占めている。ただし、ほとんどの国は、中華人民共和国を「承認」しながら、半官半民の組織を介して中華民国と実務関係を維持している。現在も中華民国憲法は、大陸統治時代に制定された条文を維持し、中華民国が中華国家であることの象徴としている。その一方で憲法追加修正条項の制定以後、中華民国が台湾地域のみを統治するとの前提により民主化が進められてきた。しかし、中華民国の反独立派や中華人民共和国政府は、こうした動きを法理独立と非難してきた。その一方で、台湾独立運動(台独運動、または台独)の一部は、中華民国体制が長年に渡り台湾住民の国政参加を拒み、差別と弾圧を行ってきた歴史(二・二八事件と呼ばれる台湾人大虐殺と、中国国民党による長期間の高圧独裁)を忘れるべきではなく、中華民国支配からの解放と異なる新しい国家を自ら建設すべきであると主張している。このように、現在も台湾問題に関する様々な意見が存在し、第三者による理解を困難にしている。しかし、台湾世論の大勢は、台湾が中華人民共和国の主権に帰属するものではなく、中華民国という国家であるという点で一致している。その上で中華民国の立法府たる立法院の議員などの政治家は今なお、「台湾も中華人民共和国も同じ中華民族の国家である」とみなす泛藍連盟派と、「台湾と中国は別々の国である」とする泛緑連盟派(台湾本土派および独立派)のいずれかに大別される。ただし、世論調査では、早急な統一も独立も望んでおらず、実質的に中華人民共和国とは分離している現在の状態を維持することを望む声が多い。そのため、中華民国の世論は基本的には現状での安定志向にあると言え、各党も世論を配慮しながら政治活動を行なっている。2008年8月末には、中華民国からの独立デモが発生している。 かつての中華民国による行政区分は、台湾を2省(台湾省、福建省)、6直轄市(台北市、高雄市、台南市、台中市、新北市、桃園市)に区分し、更に省内を3省轄市(基隆市、新竹市、嘉義市)、16縣に区分していた。だが、1996年に福建省が、1998年に台湾省がそれぞれ行政機能を「凍結」(事実上の廃止)された。その後市と縣の合併や直轄市への昇格があり、現在では6直轄市(台北市、新北市、桃園市、台中市、台南市、高雄市)に区分し、3省轄市、11縣に区分している。また、2015年現在省轄市と縣が直轄市と並んで地方行政を担っているが、直轄市との間には地方交付税の配分や人事権限の格差が残されたままである。台湾の中心都市は北部盆地に位置する台北市であり、1949年以降は中華民国の首都機能を果たしている。台北市は行政区分としては中心部の台北市(人口第四位)と郊外部の新北市(人口第一位)に分かれている。遷台以前の中華民国の首都は南京市とされていたが(ただし中華民国憲法および法律などによって明文化はされていない)、遷台以降の台北市は「臨時首都」および「中央政府所在地」という扱いになっている。なお、台湾省の省都も当初は台北市であったが、1957年に台北市から台湾中部にある南投県南投市中興新村に移された。後に台湾省が凍結され、現在では省都として機能していない。地方の主要都市としては、台北市の東北部に港湾都市である基隆市が、台湾本島南西部に工業・港湾都市である高雄市(人口第二位)がそれぞれあり、両都市の間に新竹市、台中市(人口第三位)、嘉義市、台南市(台湾の古都にして人口第五位)などの主要都市が集中している。これらの主要都市は全て台湾西部に位置しており、台湾東部の主要都市としては花蓮市と台東市がある。主要都市の人口は、新北市は395万人、高雄市は277万人、台中市は270万人、台北市は268万人、台南市は188万人となっている。日本統治時代には、日本の食糧補給基地としての役割を与えられていた台湾地域では、その食料を保管・加工する軽工業が芽生えていた。第二次世界大戦後の中央政府の台湾移転後、中華民国政府は台湾を「反攻大陸」(武力による大陸部の奪還)の基地とした。これにともない軍事最優先の政策がとられ経済政策は後回しにされたが、そのような中で政府は、軽工業を発展させ、次第に重工業化する政策をとる。経済特区や政府主導による経済プロジェクトが全国に展開され、特に日本とのコネクションを利用した日本の下請け的な工業が発達する。蒋経国の代になり、十大建設をはじめとする本格的な各種インフラ整備が始まり、また、ベトナム戦争の際、アメリカは戦略物資を台湾から調達し、そのため台湾経済は飛躍的に発展し(台湾の奇跡)、この頃より主な輸出先は日本からアメリカにシフトしていった。また、中華民国政府は軽工業から重工業への転換を図り、積極的な産業政策を打ち出した。しかし、中国鋼鉄や台湾造船、台湾石油などの国営企業を主体としての重化学工業化であり、必ずしも強い国際競争力を伴ったわけではない。しかし、在米華僑(台湾系アメリカ人、中国系アメリカ人)の技術者の協力により行った半導体産業の育成は成功を収め、後の台湾積体電路製造(TSMC・台積電)や聯華電子 (UMC) を生み出す。1980年代、電子工業の発展は民間中小企業にも波及し、パソコンのマザーボードのシェアでは世界一になった。中華民国はアジアNICsの一員に選ばれ、NIEsにも引き続き含まれた。さらに、外貨準備高世界上位に入るなど、経済発展は目覚しかった。さらに1990年代はIT景気に乗り、1997年-1998年のアジア経済危機も乗り越えた。そのため、中小企業が多い点が日本と似ていることや、政府主導の産業政策や財閥主体の韓国との違いなどが強調されたのである。1980年代後半は、台湾の現在の自転車工業への転換点でもある。1986年のプラザ合意前までは日本が自転車の生産において大きなシェアを占めていたが、プラザ合意後は日本の自転車産業・特に完成車の輸出は大幅に減少して、台湾が自転車輸出大国に成長した。現在では世界最大の自転車メーカーとなったジャイアント・マニュファクチャリング等の現在の台湾自転車業界の主要企業は1970年代後半から欧米メーカーのOEM・ODMを引き受け、現在に繋がる設計・生産の基礎を築いた。この頃からOEM・ODMの受注だけでなく、台湾の自転車企業は自社ブランドの販売にも乗り出した。しかし2000年代に入ると、製造業で中華人民共和国への投資による空洞化の進行が目立ち、2001年のITバブル崩壊の影響を受け、2002年には中華民国の台湾移転後初のマイナス成長を記録した。台湾の電子工業はOEM、ODMなど先進国企業からの委託生産に特化し、独自のブランドを持たなかった。そのため、先進国市場での知名度が低く、知名度の高い大企業も存在しない。中華民国政府は、自国企業による中華人民共和国への投資を未だ完全には開放していない。また、中華人民共和国市場での利益の自国回帰も呼び掛けているが、目立った効果は見られない。一方、陳水扁政権は新十大建設を打ち出し、新たなインフラの整備と次世代産業の育成を掲げた。政府はライフサイエンスも重要視しているが、ライフサイエンスがITほどの経済規模を見込めるのかどうか、疑う声も強い。日本経済との強い関連下で発展してきた台湾経済は、日本経済と互換性のある面が強い。即ち技術力、工業生産力を利用し、世界市場で優位に立てる製品を開発提供することによって、外貨を獲得する加工貿易が基本である。しかし日本と異なる面も多い。それは漢民族の伝統やアメリカの影響によるものと考えられるが、代表的なものは起業指向であろう。台湾では有能な人ほど起業を志し、それが経済に活力と柔軟性を与えている。個人主義的なのであるが、反面、社会道徳の弱さという弱点も持つ。また、華僑ネットワークに支えられた、全世界ネットを駆使した世界戦略も中華民国独特の強みである。アメリカや日本で注文を取り、中華人民共和国やベトナムに製造させる仲介的戦略も、この華僑ネットを利用している。2010年には台湾と中華人民共和国との間で両岸経済協力枠組協議 (ECFA) が締結された。台湾の通貨はニュー台湾ドルである。台湾は旧日本領であり歴史的に関係が深く、地理的に近く自由主義陣営の国家であり、貿易を始めとした経済的交流が強い。民間貿易以外に台北国際金融センタービルや台湾高速鉄道(台湾新幹線)の建設など、台湾の主要公共事業も日本企業によるものがあり、台湾経済における日本への依存は大きいものがある。また日本企業による台湾進出以外にも、古くは衣料業関連、現在では電子工業関連を中心に日本進出を果たす台湾企業もある。台湾は道路、鉄道、航路ともに発達しており、日帰りで台湾を一周することも可能である。高速道路は基隆と高雄を結ぶ中山高速公路と、基隆と屏東を結ぶフォルモサ高速公路を中心に整備され、更に主要国道・省道が台湾全土にネットワークを構成している。これらの道路網を利用し、多くのバス会社が高速バスを運行し都市間輸送を担っている。都市間交通は台北や高雄という大都市以外に、地方都市間を連絡する路線も整備されており、鉄道輸送が整備されていない地区の主要交通手段である。バス輸送はかつては国営の「台湾汽車客運」(中国語の汽車は自動車の意味)が高速バス事業を担っていたが、2001年の民営化に伴い「国光汽車客運」に再編された。それと同時に高速バス事業の自由化が進み、複数事業者による競合の結果、二列シート・軽食・飲物のサービス付き・カーテン・トイレ完備などの豪華なバスが大都市間で24時間運行されるようになっている。このために、民営バス会社は台湾における旅客輸送の重要な地位を占めているが、台北や中などでの慢性的、連休期間中の渋滞などによる遅延が発生している。都市部では市内バス路線が整備されている。以前は旧型車両が多用され、慢性的な市内渋滞や乗客の乗降がスムーズでないなどの理由で利用頻度は高くなかったが、近年は台北市を中心に新型車両への更新、バス専用レーンの設置などで輸送能力に大幅な改善が見られ利用者も増加傾向にある。これら交通網が整備されているが、特に市内交通での交通網が未完成であり利便性に問題があるため、タクシーや自家用車の利用が多く、簡便に移動可能なスクーターの利用が多いのも台湾の特徴である。これら各種車両が入り乱れる市内地域では激しい渋滞と、運転マナーに起因する交通事故が多発している。国際運転免許証に関しては、中華民国がジュネーブ条約に加盟していないため、外国人が台湾で運転する場合(台湾人が外国で運転する場合も)には現地での運転免許取得が必要であったが、日台間に関しては、2007年9月19日より日本と中華民国両政府の間で短期旅行者に限定して免許証の相互承認が認められるようになり、短期旅行者がレンタカーなどを運転できるようになり、2008年10月1日からは、現地の免許への切り替えも出来るようになった。ちなみに、日本以外の多くの国では、二国間の取り決めにより、早くから国際運転免許証の相互承認や、現地免許への切り替えが行われていた。2011年8月1日から小型車(車両総重量が3,500kg以下で乗車定員が9人以下の乗用車)において、運転席、助手席だけでなく後部座席もシートベルト着用が義務付けられた。違反すれば罰金を科せられる。タクシーにおいても例外ではなくなった。台湾の鉄道は、国営の台湾鉄路管理局(略称は台鉄)の路線が台湾を一周しており、自強号(日本の特急に相当)、莒光号(日本の急行に相当)、復興号(日本の準急に相当)、普快車(日本の普通列車に相当)が各都市を繋いでいる。また、日本の中距離電車に相当する区間車、区間快車があり、それぞれ日本での普通列車や快速列車に相当する。一部の自強号と莒光号、復興号、普快車は機関車(電気・ディーゼル)が客車を牽引する編成であるが、それ以外は電車や気動車での運行である。これとは別に通勤電車と呼ばれる電車が大都市近郊を走っていたが、区間車へ発展的解消を遂げた。なお、台湾では列車のことを「汽車」ではなく「火車」と呼ぶ。市内や近接地区を結ぶ鉄道交通ネットワークとしては日本の地下鉄や新交通システムに相当する捷運 (MRT) が運行されている。1996年に台北市政府による最初の捷運として台北文山線が、翌年には淡水線の一部区間が開業した。2008年3月には高雄市において高雄捷運が開業し、他の都市でも捷運路線の建設または計画がされている。台湾を代表する台北・高雄を連絡する都市間鉄道として、2007年1月に両都市を最高速度300km/hで運行する台湾高速鉄道が開通した。日本の新幹線車両(700T型)を導入し、台湾初の大型BOTとして建設・運営が行なわれている(台鉄の路線ではない)。日本の新幹線技術の初めての海外輸出となったが、受注の混乱や、各国の技術が混在する折衷型システムにより開業までに様々な問題が発生した。開業後は既存の縦貫線で最速3時間59分であった所要時間を87分に大幅に短縮し、また料金も自強号と航空機の中間に設定するなど大きな競争力を有している(台鉄捷運化を参見)。高速鉄道の整備計画のない台湾東部の東部幹線に関しては車両の高速化と高速化に対応した軌道改修を行なっている。車両に関しては2004年に日本から885系新型車両を導入し太魯閣号の運行が開始された。またかつては34路線の軽便鉄道として糖業専用鉄道があったが、1980年代にそれらの旅客営業は全廃された。林業鉄道は1914年開業の阿里山森林鉄路が現在も運行されている。台湾本島と澎湖諸島、金門島などの離島との間は船便によっても結ばれており、航空路線が発達した今日でも利便性がある。台湾本島と澎湖諸島を結ぶ船便は高雄港(台華輪)・台南安平港(今日之星)・嘉義布袋港(満天星客輪)から毎日出ている。尚、台湾本島と緑島・蘭嶼を結ぶ船便は台東富岡港から、台湾本島と金門島を結ぶ船便(金門快輪というフェリー)は高雄港から、台湾本島と馬祖列島を結ぶ船便(台馬輪および合富輪)は基隆から、それぞれ出航している。日本からは沖縄・那覇新港から、宮古島、石垣島を経由し、基隆、高雄へ向かう航路が有村産業により運航されていたが、会社破産により運休(実質廃止)となっている。航空機は台湾本島と金門島などの各離島を結んでいる他、主要都市を結んだ高頻度運航サービスを提供しており、料金も割引チケットを使えば鉄道やバスと遜色ないので人気は高い。また日本各地や香港、フィリピンのマニラなどとの間には高密度な国際線が運航されている他、アジア圏内やヨーロッパ、アメリカなどとの間にも多くの国際線が運航されている。台湾の航空会社としては、日本では成田空港や中部国際空港、福岡空港などに乗り入れているチャイナエアライン(中華航空)が有名であるが、最近では成田空港や関西国際空港、仙台空港などに乗り入れているエバー航空(長栄航空)も日本に浸透してきている。これらの航空会社以外にも、トランスアジア航空(復興航空)、立栄航空や華信航空などがある。なお、立栄航空はエバー航空(長栄航空)の子会社、華信航空はチャイナエアライン(中華航空)の子会社である。国際空港としては、台湾桃園国際空港、高雄国際空港、台中清泉崗国際空港、台南國際空港があり、最近では、花蓮空港を国際空港に昇格させる計画もある。台湾地域の住民は、混血民族と中国系に大別される。原住民族は平地に住んで漢民族と同化が進んだ「平埔族」(ケタガラン族、パゼッヘ族、バブザ族など)と高地や離れ島に住む「高山族」14民族(アミ族、タイヤル族、パイワン族、ブヌン族、プユマ族、ルカイ族、ツォウ族、サイシャット族、タオ族、サオ族、タロコ族、クバラン族、サキザヤ族、セデック族。クバラン族とサオ族は平埔族に分類されていたこともある。なお、「高砂族」は日本統治時代の呼び名)に分かれる。台湾の漢民族は、戦前(主に明末清初)から台湾に居住している本省人と、国共内戦で敗れた蒋介石率いる国民党軍と共に台湾に移住した外省人に分かれる。本省人が台湾で85%を占めており、本省人は福建(南)系と客家系に分かれる。外省人13%、原住民2%(タイヤル、サイシャット、ツォウ、ブヌン、アミなど14民族)。平均寿命は女性81歳、男性75歳で年々上昇の傾向にある。65歳以上の比率は10パーセントを記録するようになった。少子化が進んでおり、2009年の出生率は0.829を記録、合計特殊出生率は1と世界最低となった。2010年の合計特殊出生率は干支の影響もあり0.895とさらに低下した。2005年(民国94年)現在、在台外国人は約51万人で、うち在台ベトナム人が約15万人と30%を占める(民国94年の台湾の内政部統計処調べ)。内政部警政署「台閩地區居留外僑統計―按國籍及職業別九十九年 (2010)」によれば、2010 年現在、滞在日数180 日以上の長期ビザ取得者が申請できる「外僑居留証」を所持する日本人は、12,056 人(男性7,330 人、女性4,726人)である。その内訳は、商業人員(2,197 人)、15歳未満の者(1,853 人)、家事(1,687 人)、就学(1,003人)、⑤エンジニア(678 人)、⑥教師(640 人)、その他(3,472 人)となっている。台湾での総資産が500万ニュー台湾ドルを超えるか、あるいは仕事の技能や専業を例証すれば、台湾移民署に永住を申請することができる。台湾の公用語は中国語(北京語)であり、国内では国語と呼ばれている。国語は中華人民共和国の公用語である普通話と基本的に同一言語であるが、現在では語彙などの細かい部分に多少の相違点が生じている。他にも日常生活では台湾語(ホーロー語、河洛話、福語)、場所によっては客家語、台湾原住民の諸言語が使用される。台湾語は伝統的区分では福建方言(語)の一種である南語に含まれるが、平埔族の言語や日本語の影響を受けており、その意味でも南語とは分化し台湾語、福語などと呼称される。また、台湾原住民の諸言語はオーストロネシア語族の言語であり、多くは台湾諸語に属する(タオ語のみマレー・ポリネシア語派に属する)。その数は、1622年にオランダ人入植者がやって来た時には少なくとも30はあった。その後、日本語の配属下を挟んで二度の中国語の配属下にあったことで、その数は10程度に減ってしまった。また、その話者も2000人以下ということから、土着語は絶滅する危険にさらされている。中華民国の実効支配地域の言語としては、金門島では南語(台湾語)が話されているが、日本語の影響をほとんど受けていないなど、台湾本島の台湾語とは相異がある。馬祖島では東語が話されている。烏島では本来は莆仙語が話されていたが、現在は南語(台湾語)が話されている。音声言語の他、日本の手話と類似点の多い台湾手話を母語とする人たちがいる。国語は普通話と同様に漢字で表記されるが、中華人民共和国で使用されている簡体字ではなく、伝統的な繁体字(正字体)が用いられている。ただし、日常生活ではある程度略字の使用が行われている(「臺灣」を「台灣」と表記)。また発音記号としては注音符号という発音記号を現在でも教育現場で使用しており、小学生向けの教科書にルビとして振られている他、鉄道貨車の形式を表したりするのに使われている。それ以外にもラテン文字系の通用ピンインや注音符号二式、ウェード式のような発音表記方式も存在している。日本統治時代に教育を受けた世代ではひらがなやカタカナを利用している例もあるが、21世紀初頭では仮名文字を使用して台湾語を表記(台湾語仮名)している台湾人は極めて限定的となっている。パソコン等の文字入力方法は、マイナーなものも含めれば十数種類の入力方法が存在しているが、習得が容易なことから日本のかな漢字変換に似た注音輸入法がもっとも一般的である。注音輸入法はパソコンだけでなく携帯電話での文字入力にも利用されている。また、習得が困難だが入力速度の速い倉頡輸入法、嘸蝦米などもプロ向けの入力方法として人気がある。高齢者や農村部では台湾語または客家語、日本語のみで北京語が話せない者がいる。民主化以降になって、国語以外の言語、即ち台湾語、客家語、原住民語の教育が義務付けられたが、日本統治時代は日本語で、中国国民党による戒厳令時代は北京語で教育することが定められていた。若い世代では基本的には「国語」と台湾語の両方とも話せるが、在中年世代以下では北京語のみで台湾語を「聞いて理解できるが話せない」という者も少なくない。外省人が人口に占める割合の多い都市部でその傾向は大きい。従って、同じ「台湾人」であるはずなのに世代間でコミュニケーションが成り立たないということも珍しくない。この他、外国語の教育熱が高く、幼稚園時代から英語のみ使用する施設などに子供を預ける者も多い。アメリカやヨーロッパへの修士号への取得、学士号の取得を目標とする留学者も多い。台湾では政教分離を基本とし、また中華民国憲法(第二章第十三条)により宗教信仰の自由が保障されているため、国内では各種宗教が自由に存在し、布教されている。台湾における宗教は、道教・キリスト教・仏教が特に盛んであり、人々は今日でも宗教と深く結び付いている。道教は二大系統のうち、正一教(天師道)の系譜に連なる。キリスト教は、プロテスタントが多数派であり、なかでも長老派教会が最も信徒の多い教派である。仏教は、1980年代頃から信徒数が急増し、なかでも仏光山・慈済・法鼓山・中台禅寺・霊鷲山の台湾仏教五座山の諸派が盛んである。政府統計で正式に分類されている主な宗教は、以下の通り。現在の台湾の教育制度は、中華民国憲法の規定(第二十一条、第百六十条)と各種の教育関連法に基づいて体系化されている。学制は6・3・3・4制が採用され、国民小学6年、国民中学3年、高等中学3年、大学4年となっている。ただし大学の教育、建築学部は5年、歯学部6年、医学部は7年となっている。普通学校と並行して特殊学校(盲学校、聾学校、養護学校など)と補習学校(専科学校や語学学校など)がある。義務教育(台湾語では国民敎育)は、当初は国民小学の6年のみであったが、今は国民中学3年も含めて9年制となる。2001年より小中一貫教育が全国的に実施されるようになり、2006年、幼稚園の義務教育化が始まった。学年度は9月1日 - 8月31日まで、日本の4月1日 - 3月31日とは異なる。中華民国には20歳の男子国民に兵役の義務があるが、大学と専科学校の在学生は卒業まで徴兵延期が許されている。一般に台湾人は教育に熱心であり、国語(中国語)識字率は98.29%(2012年度)に達する。しかし教育熱心な人が多いゆえに台湾は学歴社会となっており、就職では日本以上に学歴が重視される傾向にある。大学への進学率は70.07%(1997年度)。特に有名高等中学校・大学への入試は熾烈を極める。大学進学・卒業後に海外の大学・大学院へ留学する学生も多く、台湾には日本やアメリカの大学・大学院が出した学位・博士号を持つ者も多い。大学には総合大学のほかに短期大学(2年制)、工科大学、文科大学、国立空中大学(日本の放送大学に相当)があり、2012年度時点で大学総数162校、学生総数は約136万人に及ぶ。このような大学増設の影響から、最近では大学合格率が100%を超える問題も生じている。文科系進学者よりも理科系進学者が、優秀とみなされる。理科系における名門大学は、台北市の国立台湾大学(台北帝国大学,昭和3年)(1945年改編)、新竹市の国立清華大学(1955年復校)・国立交通大学(1958年復校)、台南市の国立成功大学(1961年創立)である。理科系に比べて落ちるものの、文科系では台湾大学のほか、台北市の国立台湾師範大学(台北高等学校 (旧制), 大正11年)(1946年改編)や台北市の国立政治大学(1954年復校)が、一流の進学先とみなされている。国外には華僑子息・子女のための教育機関として、約3750校の華僑学校(日本での名称は中華学校)が設置されており、日本には横浜中華学院、東京中華学校、大阪中華学校の3校がある。日本の華僑学校は歴史が古く、1897年(明治30年)に孫文が設立した私塾に由来する。華僑学校は中国語教育および中華文化の普及を目的としている。教育対象の年齢は各学校によって異なる。台湾は伝統的には夫婦別姓であるが、相手の姓に変更することも可能となっている。また、1985年民法において、冠姓が義務づけられていたが、当事者が別段の取り決めをした場合はその取り決めに従うとされていた。その後1998年の改正で、原則として本姓をそのまま使用し、冠姓にすることもできると改められた。職場では以前から冠姓せず本姓を使用することが多かったという。子供の姓は、原則的に父系の姓が適用されていた(入婿の場合は逆)が、1985年の改正で、母に兄弟がない場合は母の姓にすることもできるようになった。この結果、兄弟別姓が可能である。これも男女平等原則の違反とされ、2008年の戸籍法改正で父の姓か母の姓か両親が子供の姓を合意し、両方の署名を入れ役所に提出することとなった。合意に至らない場合は役所が抽選で決める。2003年10月末に、行政院(台湾の内閣に相当)が「人権保障基本法」の中で同性結婚を認める草案を作成したが、閣僚と立法委員が反対し、採決は行われなかった。2012年に同性愛者の権利擁護団体が同性結婚を法制化する草案を新たに提出したが、廃案となっている。2015年台湾の司法省がインターネットを通じて昨年実施した世論調査では、同性婚の合法化を支持するという回答が71%に上り、それまでの調査よりもさらに増えました。現在でも台湾では同性カップルに対する政府の承認する法律が存在していませんが、台北や高雄など主要都市では法的拘束力はないものの同性カップルをパートナーと認める取り組みが始まっています。台湾住民の大部分の文化的基盤は漢民族文化である。しかしその内容は豊富であり、ホーロー系住民は福建南部系のホーロー文化に、客家系は客家文化に、外省人は出身省それぞれの文化に属し、近年は通婚などにより相互影響や融合が深まっている。なお原住民族はマレー・インドネシア文化に属しているが、これも漢人文化の影響を受けている。台湾におけるいずれの文化においても顕著な現象として、伝統的要素が色濃く残っている点が挙げられる。社会主義化に伴う文化表現の規制、弾圧により中国では廃れていった漢人の伝統民俗が今日まで数多く残存している他、ヤミ(タオ)族を始めとする各原住民でも民族独自の文化が保持・継承され続けている。漢民族の間では、各出自の共通概念として家族が社会組織の重要な社会単位となっており、祖先崇拝などの伝統家庭行事が現在でも重要な役割を担っている。また二十四節気を基とした旧正月や、清明節(ただし客家人の一部などは祝わない)、中秋節などの季節行事も毎年盛大に行なわれている。この他にも出身地ごとの伝統文化が存在しており、例を挙げれば福建系の伝統文化としては布袋劇(人形劇)や歌仔戯(台湾オペラ、コアヒ)などがある。また、外省系移民が台湾に与えた文化としては、中華民国政府のイデオロギー的影響や中国各地の料理などが挙げられる。中国以外の外来文化としては日本とアメリカの影響が大きい。日本に関しては過去に日本による統治を受けていたため温泉、演歌、日本酒、弁当、おでん、武士道などの伝統的な日本文化が残留する以外に、戦後の日台関係の中で新たに流入したカラオケ、J-POP、漫画、アニメ、テレビゲーム、ファッションも台湾で根付いており、1990年代後半には日本文化に傾倒する台湾青年層を哈日族と特に称すようになった。また古くから日本からのテレビ番組を多数放送しているため、日本人の芸能人の認知度が高い。これは台湾人が中国大陸に住む中国人よりも、日本人に顔が似ているため親しみやすい部分もある。実際、台湾・日本どちらにも台湾と日本のハーフの芸能人が多く、本人が発言しないとハーフですらわからないほどである。現在は台湾固有の文化、外来文化を総称して台湾文化と捉える傾向が強くなってきている。元来の台湾郷土料理に、中国大陸の廈門に由来する福建料理が混ざったものが伝統的に作られており(例えば料理に芋粥が添えられる点を福建系の人々の食習慣の反映として指摘している資料がある)、一般にはこれらの様式の料理を指して「台湾料理(台菜)」と呼ぶ場合が多い。また、福建省出身の開拓民と同時期に台湾に渡ってきた、中国大陸の広東省北部出身の客家や湖西地方出身者の料理も今日の台湾料理根底の一部をなしていること、さらには過去約50年間に及ぶ日本の台湾統治時代の日本文化の影響や、第二次世界大戦後の中華民国政府の台北遷都に伴い中国各地から来た人々からの影響を受けたことなどが、現在の多様性に富む台湾料理の形成につながっている点なども指摘されている。食材ではカラスミや新竹地方の米粉(ビーフン)、また料理では台南地方の担仔麺などが著名であり、台湾茶と総称される独自の茶文化も存在する。また、これらの台湾料理を出す料理店は、本格的な店舗を構える高級料理店だけでなく、ナイトマーケットなどに出される屋台がポピュラーな存在として親しまれており、これらの屋台を目当てに各国から観光客が訪れるほどである。世界遺産は、1972年のユネスコ (UNESCO) 総会で採択された通称「世界遺産条約」に基づいて、世界遺産リストに登録された普遍的な価値を持つ遺跡のことである。しかし、中華民国は1971年に国際連合における「中国の国家」としての代表権を喪失し、以来ユネスコへの加盟を認められていないことから、中華民国政府の統治下にある台湾地域では世界遺産が一つも登録されていない。「世界遺産条約」成立以来、永らく中華民国は国内遺産の世界遺産登録に向けた行動を起こしてこなかった。しかし、2000年の台湾総統選挙で民主進歩党の陳水扁政権が発足すると、中華民国行政院・文化建設委員会(今・文化部)は「中華民国は世界遺産条約を締結はしていないが、地球村の構成員であり、遺産を継承・保護しなければならない」との方針を打ち出し、2003年に国内で世界遺産登録の候補地を募集した。その結果、世界遺産登録の基準を満たす可能性がある遺産として12か所の遺産が選定され、現在では、将来の世界遺産登録に向けた資料作成や住民向けの講座開設等の教育活動、考古学、地理、建築などの専門家で組織する世界遺産諮問委員会の設置等の活動、およびに国際的なPRを進めている。なお、世界遺産登録候補の内訳は、自然遺産が6か所、文化遺産が9か所、複合遺産が3か所となっている。ユネスコが主導・支援する国際的な文化選定事業は世界遺産以外にも複数ある。世界遺産同様に運営団体へ加盟できず登録・認定が困難な場合と、NGO組織が窓口を務めることで参加が実現している例もある。記憶遺産は歴史的事象を証明する記録の保存とデジタル公開化を促進するもので、世界遺産のような条約に基づくものではなく、国家のみならず自治体や個人での申請も可能な開かれた制度だが、台湾は2010年に甲骨文字コレクションを申請したものの受理されなかった。一方で、韓国が申請を目指している従軍慰安婦に関して台湾との連携を模索しており、台湾の代行申請も視野に入れている。記憶遺産と連動するのが、国際的電子図書館事業のワールド・デジタル・ライブラリーである。台湾からも国家図書館蔵書が協賛しているが、2009年の開幕式に出席した国家図書館長らが列席を拒否された。世界遺産ほど知名度はないが、ユネスコが推進する事業に創造都市ネットワークがある。創造産業による都市振興施策で、国家ではなく都市単位での申請になることから、台北が食文化部門での登録を目指している。ユネスコが後援するNGO活動として世界で最も美しい湾クラブがあり、澎湖諸島の澎湖湾が2014年に加盟を認められた。やはりユネスコが後援するNGO組織国際かんがい排水委員会には台湾も加盟しており、2014年からかんがい施設遺産の選定を始めた。100年以上経過した農業用水路が対象であることから、2030年に築100年を迎える烏山頭ダムと嘉南大圳の登録が期待される。詳しくは「灌漑#灌漑の顕彰と保全」を参照。この他、2014年にが推進する気候リーダーシップ賞に台北が選ばれるなど、環境分野での国際的アピールも行われている。世界でも有数の博物館として知られる国立故宮博物院は海外での展示を推進しており、2014年には日本で初となる大がかりな展覧会が催された。また台湾南部の嘉義県にアジア文化をテーマとした国立故宮博物院南部院区 - アジア芸術文化博物館(故宮南院)が設けられ、日本の伝統工芸品についても紹介される予定である。フランス・ルーブル美術館におけるランス別館のような収蔵品分散機能に加え、アジア芸術文化という従来にはない新機軸を打ち出している。1960年代から中国で吹き荒れた文化大革命による伝統文化や文化財の破壊から歴史遺産を守る役割を果たした台湾の故宮だが(台湾島それ自体が民俗・伝統の避難保護区として機能した)、世界に向けた文化発信基地として新たな段階を迎えている。台湾で人気のあるスポーツとしては、プロリーグが存在する野球、準プロリーグが存在するバスケットボールが挙げられる。政治的な問題から、オリンピックなどの国際大会には通常チャイニーズ・タイペイとして出場する。台湾は、その経済水準の割にスポーツのレベルは高くなく、国際舞台で活躍する台湾人選手は目立たなかったが、2004年のアテネオリンピックではテコンドーで台湾に史上初の金メダルがもたらされた。台湾では新聞、テレビ、雑誌、インターネット等のメディアに対する政府検閲は存在せず、また諸外国メディアによる報道も原則的に自由に行われている。テレビは台湾電視公司、中国電視公司、中華電視公司、民間全民電視公司や公共電視文化事業基金会などの全国ネット地上波局のほかに、ケーブルテレビ局も多数存在し、各種専門チャンネルによる放送が24時間行われている。新聞は『聯合報』や『中国時報』、『自由時報』の三大紙のほかに、近年は香港資本による全面カラー『蘋果日報』や英字新聞の『Taipei Times』や『Taiwan News』などが発行され、各新聞ごとの独自論調を展開した読者獲得競争が行われている。近年ではインターネットの普及により新聞メディアの低調が目立つようになっているが、人口当たりの発行部数は世界有数のレベルを現在でも保持している。政府系ニュースサイトとして、Taiwan Todayが存在する。(この書籍には台湾積体電路製造(TSMC),聯発科技(メディアテック)、鴻海(ホンハイ)、群創光電(イノラックス)、華碩エイスース)の企業研究が掲載されている)(この書籍には中華電信、国泰FH、ジャイアント、エイサー、HTCの企業研究が掲載されている)

出典:wikipedia

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