宣弘社(せんこうしゃ)は、1950年代から1970年代にかけて日本のテレビ映画の制作を手がけていた制作プロダクションで、現在はその著作権管理(ライツ)を事業とする企業である。もともと、広告代理店として創業したが、2002年にこの部門は別会社「サン宣弘社(現:電通アドギア)」に譲渡している。戦後、ネオンサインなどの屋外広告事業を中心として発展。その後、ラジオやテレビの番組製作に携わり、街頭テレビの設置なども推め、日本の放送事業の発展に寄与した。国産初のテレビ映画『月光仮面』を企画制作したことでも知られる。厳密には、子会社である宣弘社プロダクションが制作母体であるが、企画部門は宣弘社にあった。『遊星王子』等の「製作」にクレジットされていた「小林利雄」は当時同社の代表取締役社長であり、脚本の「伊上勝」は当時の企画課長井上正喜のペンネームでのちに脚本家として独立した。のちの作詞家阿久悠は新卒から7年間、この企画課に所属した。2002年にサントリーとサン・アドが宣弘社の広告代理店事業を買収し、新設した「サン宣弘社」へ承継。宣弘社が著作権を有する旧作作品については宣弘企画へ社名変更のうえ引き続き権利管理を継続する形となった。2008年7月8日、旧宣弘社のテレビ映画製作50周年を記念し、宣弘企画が社名を変更、株式会社宣弘社となった。現在はテレビ番組の制作は行っておらず、過去に制作した番組の著作権管理や、DVDソフト・キャラクターグッズの企画が主な業務となっている。一方のサン宣弘社は2003年4月11日に電通が資本参画し、2005年4月1日に「アドギア」(株主構成:サントリー株式会社51%、株式会社サン・アド24%、株式会社電通15%)へ改称。中堅広告代理店として製作委員会への出資などを継続していた。2010年までに電通がサントリーから持分を買取し(電通67%、サントリー33%)電通グループとなる。2011年4月に屋外広告の製作とセールスプロモーション(販売促進活動)に特化した広告会社として再出発することになり「電通アドギア」へ改称。現在に至る。戦後、小林利雄の代となった宣弘社は、屋外広告の制作を中心に活動した。屋外看板やネオンサイン、駅構内の広告などを開拓したことにより、屋外広告のパイオニアとされる。小林は復員時に焼け野原となった東京を見て呆然とするが、アメリカの写真誌に掲載されていたタイムズスクエアのネオンを見て、廃墟と化した日本に「明るい光を与えたい」と思い、ネオン事業へとつながっていった。1946年、上野駅地下鉄ビルに設置された武田薬品のビルボードが屋外広告第1号である。1948年には東京駅に施したクリスマスデコレーションが仏教系の代議士によって国会で取り上げられるなど問題視されるも、首相の吉田茂が「単なる飾りだ」と一括したことによりさらなる宣伝効果を得たとされる。東京を明るくするという考えから、東北方面の玄関口である上野駅の開発にも尽力し、広告のほか大壁画や女神像の制作なども手がけた。1953年からはネオンサインの設置を推め、銀座を皮切りに全国展開していった。東京芝浦電気(現・東芝)の協力により電光ニュースを表示するシネサインなどを開発し、戎橋のシネサインは石川栄耀賞を受賞した。小林はテレビドラマ『快傑ハリマオ』のロケで訪れた香港で開拓のチャンスを見出し、香港でのネオン事業にも乗り出した。民間のラジオ放送やテレビ放送の開始後は、番組やCMの制作を手がけた。1951年、ラジオ東京の開局に伴い、宣弘社ではラジオ部を設立。『ちえのわクラブ』や『パパ行ってらっしゃい』などが人気番組となっていった。翌年、ラジオ部は宣弘社ラジオプロダクションへ改称した。1953年、テレビの民間放送開始に伴い、テレビ事業にも進出。1956年には、宣弘社ラジオプロダクションを宣弘社プロダクションへ改称した。1958年、放送枠を担当していた時代劇『ぽんぽこ物語』の打ち切りが決定し、枠継続のため次番組の準備に乗り出すが予算が少なかったため制作会社がつかず、宣弘社プロダクションでの自主制作に乗り出す。第1作『月光仮面』(1958年)は人気となり、時間枠を移動した後、同番組枠は武田薬品提供のタケダアワーとして1974年まで継続された。同枠では『月光仮面』『隠密剣士』などの自社作品のほか、ウルトラシリーズや『柔道一直線』などの人気作品を多く排出した。ネオンサイン制作などで繋がりのあった東芝の提供枠も担当し、『光速エスパー』『忍風カムイ外伝』を経て、後に国民的アニメと称される『サザエさん』の企画立案も行った。以下、電通アドギアの項を参照。
出典:wikipedia
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