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里見忠義

里見 忠義(さとみ ただよし)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての大名。安房館山藩2代藩主。里見義康の長男。徳川秀忠より偏諱を受け、忠義と名乗った。文禄3年(1594年)、安房館山藩初代藩主・里見義康の長男として誕生。慶長8年(1603年)、父・義康の死により家督を相続する。慶長11年(1606年)には、江戸幕府2代将軍・徳川秀忠の面前で元服し、従四位下・侍従・安房守に叙任され国持大名の列に加えられる。慶長16年(1611年)、老中大久保忠隣の孫娘を室として迎えた。しかし、重臣たちは正木頼忠ら保守派と印東房一ら改革派に分裂し、また忠義も若年ゆえにその治世は困難を極めた。そんな矢先の慶長19年(1614年)9月9日、重陽の節句の賀儀を述べるため江戸に参府した忠義は、江戸城への登城を差し止められた。大久保忠隣の失脚事件に連座させられ安房一国(9万石)分の減封となり、常陸鹿島領3万石のみの領地となった。さらに日を置かず伯耆倉吉藩3万石に転封を言い渡され、山陰への移動を余儀なくされた。老中・土井利勝らの派遣した使者に改易を宣告された。原因は忠隣の失脚事件への連座であった。その後、伯耆倉吉藩に流され4,000石とされたが、大岳院に3石1斗8升の寺地寄進をするなどの身分を保っていたと思われる。ところが元和3年(1617年)、因幡鳥取藩主・池田光政によりその4,000石もとりあげられ、百人扶持の知行とされた。元和8年6月19日(1622年7月27日)に病死。常光寺の川原で火葬され大岳院に葬られた。嗣子がないとされ、大名家としての里見氏は滅亡した。しかし、実は側室との間に3人の男子を儲けていたという。子孫は他家に仕え、そのまま明治維新を迎えた(孫の義旭が間部氏に仕官。利輝―義安―義旭)。これ以前に、山下貞倶・広部義次の子孫は、里見姓に復していたという(ただし、本当に忠義の子なのかについては疑問を持つ者もいる)。貞倶の子孫は旗本になっている。また、忠義の叔父の里見義高(外記、讃岐守)は、酒井家次の婿であったため400石取りの酒井家の家臣となる。上記の3人の男子以外にも元和8年6月19日の段階で5歳の忘れ形見がいたとされ、土佐国高岡群浦ノ内村東分に居所を定めたと伝わる。この子孫は十一家に分かれ、若宮八幡を氏神として祀っている。忠義が死去した時、8人の側近が殉死し、忠義とともに大岳院に葬られ「八賢士」と讃えられた(6人、7人説もある)。彼らが『南総里見八犬伝』の「八犬士」のモデルだという。以下出典は参考による。※ただし、山下貞倶、広部義次の2名については忠義の実子かどうか疑問とする説がある。

出典:wikipedia

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