尼子氏(あまごし)は、京極氏の一族で代々出雲守護代を務めた。京極氏から室町時代中期に分かれた家であり、京極尼子家とも呼ばれる。山陰地方で活動し、戦国大名となった一族である。通字は「久」(ひさ)。尼子氏は宇多源氏佐々木氏の流れを汲む京極氏の分家で、京極尼子家とも呼ばれる。家紋の四つ目結も、京極氏のそれである。南北朝時代の婆娑羅大名として初期の室町幕府で影響力を持った佐々木高氏(道誉)の孫・高久が、近江国甲良荘尼子郷(滋賀県甲良町)に居住し、名字を尼子と称したのに始まる。京極氏の出雲守護代を務めるも、後に自らが守護となる。室町時代に高久の次男・持久は、宗家京極氏が守護を務める出雲の守護代として同地に下向し、月山富田城(現在の安来市広瀬)に拠った。やがて出雲と隠岐の守護代を通して雲伯の国人を掌握し、次第に実力を蓄えていった。応仁の乱では東軍に属している。15世紀末に守護代を継承した持久の孫・経久は、室町幕府からの税の要求に従わなかったため守護職である京極政経により、文明16年(1484年)守護代の地位を剥奪され月山富田城を追われた。新たな守護代として塩冶掃部介が月山富田城に派遣されたが、文明18年(1486年)経久は奇襲により月山富田城を奪い返し、不在の守護・京極氏に代わって出雲の支配権を奪取して、尼子氏を戦国大名に発展させた。永正5年(1508年)に、前将軍・足利義尹(後の義稙)を戴き、大内義興が山陽・山陰・九州勢を率いて上洛すると、細川高国はこれに呼応し、共に入京した。この上洛に経久は従い、京では船岡山合戦に参加している。この時期に、次男・国久は細川高国から、三男・興久は大内義興から偏諱を受けている。さて永正15年(1518年)、経久の嫡男・政久は合戦にて討ち死にし、享禄3年(1530年)、三男・塩冶興久が出雲西部・南部及び備後の有力国人と結託し反尼子勢力として反乱を起こすと、これを鎮圧し首を取るなど子との関係には色々因縁があった。なおこの乱以降、天文8年(1539年)まで、大内氏とは表面上は和睦関係を維持しており勢力拡大の矛先は東に向けられている。主家の庶流とはいえ守護代から成り上がった経久であるが、出雲鉄の事業開発や海上交易を行ない、山陰を中心に勢力拡大に励んだ。天文6年(1537年)、経久は家督を孫の晴久(詮久)に譲っている。晴久の時代には、山陰・山陽八ヶ国(出雲・隠岐・伯耆・因幡・美作・備前・備中・備後)の守護、及び幕府相伴衆に任ぜられた。天文年間にかけて、尼子氏はほぼ備中を平定し、備前から美作・播磨への勢力拡大を図っている。天文8年(1539年)には、上洛の構えを見せていた晴久だが、いわゆる大内包囲網が瓦解し、西からの圧迫が強まったこともあり、出雲へ撤収している。天文9年(1540年)、3万の軍勢で安芸へ侵攻し大内氏方の安芸有力国人である毛利氏の本拠地・吉田郡山城を攻めるが、毛利氏への大内義隆援軍・陶隆房の活躍などもあって吉田郡山城を攻め切れず、翌天文10年(1541年)には兵を引いてしまう(吉田郡山城の戦い)。天文11年(1542年)、今度は大内軍が大内義隆を総大将として、毛利氏ら安芸、周防、石見の国人衆も集め、2万の兵で出雲に出兵してくる。この遠征は1年4ヶ月続いて月山富田城は攻囲されるが、尼子氏所領奥地に侵入した大内軍の補給線と防衛線をゲリラ戦術で分断しながら、大内氏配下の三刀屋久扶、三沢為清、本城常光、吉川興経ら国人衆を寝返らせて大内軍を弱体化させ、翌天文12年(1543年)敗走させた(第1次月山富田城の戦い)。天文23年(1554年)、惣領である晴久の元から政治的に距離を置くようになっていた「新宮党」(出雲にも多くの直轄地を持つ独立集団と化していた)を率いる尼子経久次男・国久、誠久親子を滅ぼす(毛利元就による謀略説もある)などの集権化を進め、さらなる尼子氏の勢力拡大を図った。弘治3年(1557年)に大内氏の内紛後の混乱を制した毛利元就は、安芸から防長を手中にしたいわゆる戦国大名となり、やがて石見東部へ侵攻を始めた。晴久は石見銀山を巡る戦いでは優勢であったが、永禄3年(1560年)に晴久が急死する。晴久の跡を継いだ嫡男・義久は、この事態に際して将軍・足利義輝に毛利氏との仲介を依頼し一旦、和睦したものの毛利元就はその後、一方的にこれを破棄し永禄5年(1562年)より出雲侵攻を本格化させた(第2次月山富田城の戦い)。義久は月山富田城に籠城し、尼子十旗と呼ばれる防衛網で毛利軍を迎え撃った。しかし永禄6年(1563年)に、元就は支城である白鹿城を攻略すると、月山富田城を包囲して、兵糧攻めに持ち込んだ。同時に、元就は謀略を開始し、疑心暗鬼となった義久は、重臣である宇山久兼をも粛清してしまう。ついに永禄9年(1566年)11月、義久は降伏を余儀なくされ、ここに戦国大名尼子氏は滅亡した。その後、尼子氏の遺臣である山中幸盛や立原久綱らは、尼子一族の尼子勝久を擁立して、織田信長の援助を受けながら各地で抵抗し、一時は城を得て尼子氏を再興した。しかし天正6年(1578年)に播磨上月城を毛利軍に落とされて勝久は自害し、幸盛は誅殺されたため、尼子氏は完全に滅亡した。一方、義久とその兄弟は毛利氏に降った後、安芸で配流生活を送り、子孫は関ヶ原の戦いの後に毛利氏から知行を給されて長州藩に仕えた者、水戸藩に仕えた者などがいる。義久は、慶長15年(1610年)8月28日、長門で死去(享年71)したが、毛利家の意向により、養子の尼子元知(弟の倫久の長男)が尼子氏を継ぎ、尼子氏は代々系譜し存続する。就易の代(曽祖父隆慶の母が国久の娘)から、晴久が粛清した国久の系統が尼子の血脈を後世に伝えることになった。1940年(昭和15年)に最後の当主・寅介が嗣子なく東京・高輪の毛利家別邸で亡くなったため、尼子高久から続いた尼子氏は断絶した。ただし、寅介とは別に佐佐木甚五朗・忠雄系統を尼子宗家とする説もあり、そちらの系統は現在も存続している。また、義久の直系の子孫は、毛利の重臣福永氏として、末代まで残る。尼子氏の拠点であった福永要害の所在地名である、現広島県神石郡神石高原町福永から、福永姓を名乗ったとも、先祖である佐々木源氏の所領近江国福長(永)荘から名乗ったとも言われるが詳細は不明である。直系子孫は昭和初期、福長(永から長へ)に改姓、昭和30年代まで山口県防府市に在住していた。嫡流子孫は現在広島市安佐南区中須に在住。庶流は山口県、広島県、愛媛県等に在住している。幕末の長州藩士来島又兵衛政久(旧姓喜多村氏)の養父政常は、尼子経久の子・森親久を祖とする来島(きじま)氏の末裔とされる。尼子氏は大名としては滅亡しているが、囚われの身とはいえ、当主尼子義久は健在であり、尼子勝久は当主ではない。尼子一族会は、全国の尼子氏の子孫・関係者が一堂に集い、集会を開く。5年に一度行われる。
出典:wikipedia
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