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ヒシマサル (1989年生)

ヒシマサルとは日本の競走馬。アメリカで生まれ日本で調教を受けた外国産馬である。1955年生まれで安田記念を制した同名の競走馬がいるため、血統表などでは「ヒシマサル II」と表記されることがある。なお、1955年生まれの競走馬の馬主は阿部雅一郎の父の阿部雅信である。本来、重賞を勝ち、さらに繁殖にあがった競走馬と同じ名前をつけることは許されないが、馬主の阿部雅一郎は血統登録を生産国のアメリカで行ったうえで日本に輸入したことでこれを回避した。なお、馬齢は旧表記で統一する。阿部雅信・雅一郎父子は、父子二代の馬主として活躍したが、雅一郎に代替わりしてから、父から引き継いだ血統の牝馬の仔が走らなくなり、ヒシスピードも種牡馬としては不振で、競馬場に出て来られる産駒すらあまりいないという状態であった。このため、外国産馬などの新しい血や新しい人脈を求めて再起を図るなか、雅一郎が初めて知り合った関西の調教師である佐山優を連れて向かった1991年春のバレッツセールで、セクレタリアト産駒の3歳馬を購入した。父はアメリカ競馬史上屈指の名馬、近親に重賞勝ち馬も数頭おり、値段はおよそ32万5000ドルであった。雅一郎はこの馬に父ゆかりの「ヒシマサル」の名を与え、佐山厩舎に預託した。1991年11月9日、京都競馬場での新馬戦は角田晃一の騎乗で4着に敗れたが、中1週で臨んだ11月24日の新馬戦では田島信行とのコンビで、2着に8馬身差をつける勝利。続く中京3歳ステークスでは角田晃一の騎乗で3着。明けて1992年春、4歳となったヒシマサルは、500万下条件戦の寒梅賞を武豊の騎乗で制すると、そこから先は初勝利を飾った田島信行とのコンビできさらぎ賞、毎日杯、京都4歳特別とGIIIレースを3連勝。当時外国産馬にクラシック競走への出走が認められていなかったため、別路線を走り続けた。同年の皐月賞・東京優駿(日本ダービー)はミホノブルボンが逃げ切り勝ちを続けており、ヒシマサルは差し、追い込みの脚質と対照的な勝ち方をしていたため、その後の対決が期待されていた。しかし郷原洋行に乗り替わったニュージーランドトロフィー4歳ステークスでは1番人気に推されたものの2着。その後、武豊に乗り替わったが京都大賞典、ドンカスターステークスと連続して2着。これらのレースの優勝馬はオースミロッチやレガシーワールドだったため、決して弱い相手ではなかったもの勝ちには恵まれなかった。その後、ジャパンカップでは5着で辛うじて掲示板を確保するものの、有馬記念は9着に敗れた。5歳となった1993年は脚部不安のためほぼ休養にあてられ、11月28日のトパーズステークスで復帰するが大敗し、それを最後に現役を引退した。引退後は種牡馬となったが、日本であまり成功していないボールドルーラー系の血統が不安視され、優秀な牝馬を集めることはできなかった。それを差し引いても産駒成績は期待外れの結果に終わり、重賞勝ちどころかオープン入りした産駒すら出していない。オーナーの強い意向により、ヒシアマゾンの繁殖初年度に種付けされたことが話題になった程度である。そのヒシアマゾンの仔(ヒシアンデス)は4戦して入賞なしに終わっている。2000年限りで種牡馬としても引退し、現在は引退名馬けい養展示事業助成対象馬として、うらかわ優駿ビレッジAERUで繋養されている。姉キルマジはフランスで走り重賞2勝、G1サラマンドル賞とモルニ賞でマキャヴェリアンの2着。母の姉ティーヴィーヴィクセンはアメリカG2ファンタジーステークスなど20勝、G1(当時)デラウェアオークス・デラウェアハンデキャップに2着した。本馬の活躍後、姉弟や母が相次いで日本に輸入されたが、今のところこれといった活躍馬は出ていない。

出典:wikipedia

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