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矢賀村

矢賀村(やがむら)は、かつて広島県安芸郡に存在した村である。明治22年(1889年)の町村制発足により設置され、昭和4年(1929年)4月1日、広島市に編入合併して消滅した。「矢賀」は「矢加」「屋賀」とも書き、鎌倉時代以来の古い地名である。『和名抄』に見える「駅家」(やが)に比定し、古代の駅の所在地とする説(秋長夜話)もある。室町時代には安芸国守護の武田氏の支配下にあり、天文10年(1541年)、大内氏が銀山城を攻撃し武田氏を滅ぼした際、大内軍が武田方である白井氏(府中の領主)攻略のため矢賀・中山・尾長3村の境界にある峠を通り、それが「大内越峠」(おおちごとうげ)の由来になったといわれる。この後、矢賀は太田川河口の戸坂・牛田とともに大内氏から毛利元就に委ねられ、水軍の拠点として毛利氏重臣の児玉氏・乃美氏に宛われた。近世初期の矢賀村では、村の南端である岩鼻の先に広島湾が広がっていたが、次第に東部・南部の干潟が干拓されて新開地となり、耕地が拡大した。この新開地は矢賀新開、ついで蟹屋新開と称され、非常に紛らわしいがのちに広島城下に属し「矢賀村」と呼ばれるようになった(従来の矢賀村は安芸郡)。さらに元禄年間、矢賀新開の東に大須新開(現在の南区大州)が造成されると、従来大内越峠を通っていた西国街道は、岩鼻の南側を通る(そして尾長村・愛宕町・猿猴橋町を通り猿猴橋へと抜ける)ルートに変更され、岩鼻には城下町の東端を示す大門が設置、矢賀村は陸上交通の要地となった。明治22年(1889年)の町村制発足により安芸郡矢賀村が設置され、大正4年(1915年)には芸備鉄道(現在のJR芸備線)が開通、昭和4年(1929年)矢賀駅が開業した。国道2号(当時 / 現在の広島県道164号広島海田線)近くでは人家が密集、村民の約半数は農業(養鶏・蔬菜栽培などの近郊農業が中心)に従事しており、残りは商工業および広島市内などに通勤する給料生活者であった。そして1929年の広島市編入に至る。近世以来の「矢賀村」がそのまま町村制による矢賀村へと移行したため、大字は編成されなかったが、比較的大きな集落の名として「上組」(現在の矢賀五丁目・新幹線車輛基地付近)・「市浜」(同・三丁目付近)・「中組」(同・二丁目付近)、「下組」(同・一丁目付近)がある。

出典:wikipedia

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