ヒンドゥスターニー語は、インド・アーリア語派に属する言語で、一般にはインドの公用語・ヒンディー語、およびパキスタンの公用語・ウルドゥー語として知られる複数中心地言語である。インド亜大陸北部に「ヒンディー・ベルト」と呼ばれる方言連続体を形成しているが、デリー方言(カリー・ボリー)が中心的な方言であり、標準ヒンディー語、標準ウルドゥー語はいずれもデリー方言を基礎としている。南アジア(特に北部)のリンガフランカであり、話者の多く住むフィジーでも公用語のひとつとなっている。「ヒンドゥスターニー語」という語は、いくつもの異なった意味で用いられる。「ヒンドゥスターニー」の名称は当初第二の意味であり、「インドの言葉」を意味した。18世紀末にベンガル総督のマクファーソンの時代に、イギリス人によって命名された。新インド・アーリア語のひとつである(第一の意味の)ヒンドゥスターニー語を基盤としてウルドゥー語が成立したが、この言語には上層としてペルシャ語やアラビア語の語彙や文法の影響がきわめて強い。これらの借用語は多くの固有語を廃語に追いやった。後の『ヒンディー語』成立の際の言語純化でも、これらの固有語を復活させることはせず、代わりにサンスクリットからそのままの形の単語を新たに直接借用する形を取った。これらの分化は19世紀頃起こった。現在では、ヒンディー語とウルドゥー語の総称として、また両言語の話者が日常生活に用いる両言語の混交、中間形態をさす言葉としても用いられる。これはおそらく北インドから西インドにかけての事実上の共通語であり、各地域・言語別に大別されるインド映画のうち「ボリウッド」と呼ばれるヒンディー語娯楽映画においても通常用いられる。諸方言の中ではデリー方言がもっとも権威があり、ヒンディー語、ウルドゥー語共にデリー方言を基盤にしている。その地位の高さから、インド語派に属する近縁の言語のみならず、ドラヴィダ諸語に属する南インドの言語にも強い影響力を持ち続けてきた。上層言語としてサンスクリット、ペルシア語、アラビア語を持つ希有な言語であり、高級語彙の供給元の豊富な言語である。ガズニ朝のマフムードによるインド侵攻、およびその後のデリー・スルターン朝以来、テュルク=ペルシャ系のムスリム支配層はペルシア語を公用語として用い、それまでの古典語であったサンスクリットの地位は低下した。デリーとその周辺で話されていたカリー・ボーリーと呼ばれる言語が、ペルシア語やアラビア語の影響を受けて、ウルドゥー語が成立した。この言語はスーフィーの伝道者によって南部に広がり、そこで(14-15世紀)らによるウルドゥー文学が花開いた。この文学は民衆への布教を目的としており、ペルシア語の影響は比較的少なかった。ティムール帝国の末裔バーブルがインドに樹立したムガル帝国では、当初ティムール朝の伝統を引き継ぎペルシア語が公用語であった。ほかにチャガタイ語も公用語だったが、東テュルク語を基礎とした言語であったことから、ムガル帝国が遊牧国家としての性質を失ってインドになじむにつれ、急速に衰退していった。ムガル帝国下では、17世紀にウルドゥー語文学が発達してゆく。アラビア語やペルシア語からの借用語はさらに増大し、また学者達によって文法やつづりが整備されていった。なお、この言語が「ウルドゥー語」と呼ばれるようになったのは19世紀以降であり、それ以前はしばしば(混乱することに)「ヒンディー語」と呼ばれていた。インドに支配の手を広げたイギリスは、当初ペルシア語を公用語としていた。しかし、ペルシア語が民衆の言語と乖離しているため、ウルドゥー語から極端なペルシア語・アラビア語の影響を除いてこれを「ヒンドゥスターニー語」と名付け、ペルシア語にかえて公用語とした。イギリスはウェルズリーがカルカッタに創立したフォート・ウィリアム大学を中心にこの言語を発達させた。それまでのウルドゥー語の作品は大部分が韻文であり、散文は19世紀以降、イギリスの奨励によって発達した。ヒンドゥスターニー語はインド全域において初等教育の重要課目になった。イギリス統治の後半から、イギリスの分断政策もありイスラーム教徒とヒンドゥー教徒の間で確執が深まった。両者はインドの公用語となるべきヒンドゥスターニー語の正式な表記文字をデーヴァナーガリー文字とアラビア文字のどちらにするかをめぐって争い始めた。そもそも、インドの知識人はたいていの場合両方の文字を使えたため、デーヴァナーガリーとアラビア文字のどちらで表記するかについては本来ならさほど大きな問題ではなかった。だが、おりしも世界的なナショナリズムの高揚期にも当たっていたため、文字表記の問題はイスラーム教徒とヒンドゥー教徒の間の格好の火種となり、問題は単なる文字表記にとどまらず、言語規範そのものにまで及ぶことになった。ヒンドゥー教徒側はウルドゥー語中のアラビア語やペルシア語からの借用語をサンスクリットにかえ、ヒンディー語という規範を構築してゆくことになる。このことは独立運動における両教徒の関係の疎遠化をも招き、結果的にはインドとパキスタンの分離独立という悲劇的結末を迎えることとなった。祖国分断を回避するため、マハトマ・ガンディーはウルドゥー語とヒンディー語という二つの規範の再統合を訴えた。また彼は、全てのインド国民がアラビア文字・デーヴァナーガリー文字の両方を学ぶことを主張した。しかし彼の主張は、あくまでお互いの文字に固執する両教徒の側から受け入れられなかった。現在インドではヒンディー語を公用語とし、ウルドゥー語は憲法の第8附則において定められた22の指定言語のひとつとして、またジャンムー・カシミール州の公用語でもある。パキスタンでは母語話者が少ないにもかかわらず、ウルドゥー語を国語としている。ヒンディー語とウルドゥー語は共にデリー方言を基盤として整備された経緯があるため、書記言語としては多少の溝はあるものの、日常言語としては依然として一体性を持った一つの言語である。また、イギリス統治以後は英語が新たな上層言語としてヒンドゥスターニー語の上にかぶさった。前述の歴史的経緯から、ヒンディー語はデーヴァナーガリー文字、ウルドゥー語はアラビア文字系のウルドゥー文字で表記される。互いの言語の話者が文字でコミュニケーションを行う場合、ラテンアルファベットを用いた代用表記を用いることがあるが、この表記は標準形が確立されておらず、話者によってまちまちな綴りとなる。ガンジーの夢見た統一インドを未だに理想とする一部の知識人の中には、ヒンドゥスターニー語の再統合を主張するグループが存在している。また、実用的な観点からこの意見を支持する人もいる。この意見に沿えば、まずはムスリム・ヒンドゥー両教徒にとって中立な文字であるラテンアルファベットを用いた正書法をインドとパキスタンが共同で定め、両方の国民にそれを教えることになる。この場合、ウルドゥーとヒンディーの話者が文書で意思疎通する際の表記法が標準化されるため利便性が増し、ヒンドゥスターニー語の一体性を強く保ち、言語の分裂を阻止するのに役立つと考えられる。それに続いて、ウルドゥー語とヒンディー語という二つの文語規範を調和させ、インド亜大陸のすべての住民が自らの言語として使うことのできる共通語としてのヒンドゥスターニー語を復活させることになる。現状でも、ボリウッド映画では両言語の混交体が使われていることから、これが共通規範構築の参考になるものと考えられている。ヒンドゥスターニー語の印パ間差異も参照ヒンドゥスターニー語はインド・パキスタン系移民の海外進出に伴って広く世界中に拡散した。定着した場所によって周辺言語の影響を受けつつ、独自の変化を遂げている。とりわけフィジーのヒンドゥスターニー語は同国の公用語のひとつとなっており、ヒンディー、ウルドゥーとは別個の第三の言語規範となる可能性を持っている。海外のヒンドゥスターニー語の諸方言では、たいていの場合ヒンディー語と同様にデーヴァナーガリー文字で正書法を定め、言語規範はほぼヒンディー語式であるが、これは印パ間の国力差やヒンドゥスターニー語話者の比率を反映しているとされている。インド系移民の子孫が多く暮らすフィジーでは、ヒンドゥスターニー語(フィジー・ヒンディー語)が公用語のひとつとなっている。フィジー・ヒンドゥスターニー語と呼ばれるこの言語は、主に南東部の方言(ボージプリー方言)を基礎に成立したため、規範としてはウルドゥー語よりヒンディー語に近く、正書法もデーヴァナーガリーのみを採用している。フィジー語やピジン英語などの影響を受けている。マレーシアやシンガポールには英領統治期に移住させられたインド人移民の子孫が多く居住している。彼らの間では一般的にタミル語が用いられているが、ヒンドゥスターニー語も広く使われている。マレー語や中国語の南方方言からの借用語が多く見られるのが特徴である。正書法はほぼヒンディー語と同じ。
出典:wikipedia
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