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町田樹

町田 樹(まちだ たつき、ラテン文字: Tatsuki Machida、1990年3月9日 - )は、日本の元フィギュアスケート選手(男子シングル)。主な実績に2014年ソチオリンピック5位入賞、2014年世界選手権2位、2010年四大陸選手権2位、2013年全日本選手権2位、2013年・2014年GPスケートアメリカ2年連続優勝、2006年全日本ジュニア選手権優勝など。神奈川県川崎市生まれ。愛称は「まっちー」。「樹」という名前は、大手家電メーカーのCM「この木何の木気になる木」の「あの木のように大きな存在に」と両親が命名した。血液型はO型。広島市立牛田中学校、倉敷翠松高等学校、関西大学文学部総合人文学科卒業。現在、早稲田大学大学院スポーツ科学研究科・修士課程2年制に在学中。家族で移住した広島市東区牛田で育つ。高橋大輔(バンクーバーオリンピック銅メダリスト)に憧れ、その母校であり通年リンクがある岡山県の倉敷翠松高等学校に毎日新幹線で通学し、2006年全日本ジュニア選手権で優勝。関西大学に進学後、2009-2010年シーズンにシニアデビューし、2012-2013年シーズンにグランプリシリーズのメダル獲得・初優勝を果たす。翌2013-2014年シーズンにグランプリシリーズ2勝、全日本選手権2位などの好成績をあげ、冬季オリンピック、世界選手権代表選手に初めて選出された。日本代表の男子フィギュアスケート選手としては比較的、遅咲きの選手である。2014年の全日本選手権を最後に競技活動を引退しており、アイスショーへの出演は大学院における研究活動の一環として行っている。また一大学院生の立場から、ファンレターやプレゼントの一切を辞退している。常に鞄に2冊の本を持ち歩く読書家で、その読書経験が反映した独特の世界観やコメント、リンク上での感情あふれる表現力から“氷上の哲学者”と称される。愛読書はドイツの哲学者ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルの『美学講義』。音楽鑑賞、ファッション、お茶・紅茶も趣味とし、好きなアーティストはm-flo。目標とする人物として、これまでのプログラムを振付けてきたステファン・ランビエール(トリノオリンピック銀メダリスト)、フィリップ・ミルズの名前を挙げており、自らも振り付けを手がける(『白夜行』、『Je te veux』、『継ぐ者』、『あなたに逢いたくて (Missing You)』、『“Ave Maria” by Chris Botti』)。千葉県松戸市に住んでいた3歳のとき、友達に誘われて自宅近くの新松戸アイスアリーナ(2002年閉鎖)でスケートを始める。小学4年9歳の時、父親の転勤で広島県安芸郡府中町に転居。府中町立府中中央小学校卒業後、両親の勧めで広島ビッグウェーブ近くの広島市牛田に引っ越し練習を積む。広島には通年リンクがないため、リンクが閉鎖する夏場は、岡山県や山口県、福岡県に遠征した。初めての国際大会は2002-2003シーズンのフィンランド・タンペレで行われたサンタクロース杯。スプリングスクラスで優勝。2004-2005シーズンよりISUジュニアグランプリに参戦。2006-2007シーズン、JGPリベレツで2位となり、初めて国際大会の表彰台に乗る。同年の全日本ジュニア選手権では初優勝を果たした。2007-2008シーズン、JGPジョン・カリー記念で優勝。2008-2009シーズン、JGPマドリード杯で3位となる。全日本ジュニア選手権では2位となり、シニアクラスの全日本選手権では7位となった。2009-2010シーズンよりシニアに上がる。3度目の出場となる全日本選手権で4位に入り、バンクーバー五輪選出は惜しくもならなかったが、自身初の四大陸選手権への派遣が決定。その四大陸選手権では自己ベストを40点以上更新する演技を見せ、準優勝を果たした。2010-2011シーズン、初戦のネーベルホルン杯ではフリースケーティングで自身初となる4回転トウループを成功させ、シニア国際大会初優勝を果たす。しかし、その後シニアクラスのグランプリシリーズのデビュー戦となった中国杯では5位に入るも、第2戦のロステレコム杯では11位に沈んだ。全日本選手権は前年より順位を落として6位となったが、アジア冬季競技大会の代表に選出された。アジア冬季競技大会ではショートプログラムは2位と健闘したが、フリースケーティングで6位と崩れ、総合4位となった。4月に行われたトリグラフトロフィーではショートプログラム、フリースケーティングを通して全てのジャンプを成功させ、総合優勝を果たした。2011-2012シーズンよりアンソニー・リュウに師事。しかし連覇を狙ったシーズン初戦のネーベルホルン杯を怪我で棄権する。初出場したNHK杯では7位。クロアチアで行なわれたゴールデンスピンではフリースケーティングで全てのジャンプを成功させ優勝した。全日本選手権では4位となり、四大陸選手権への派遣が決まった。四大陸選手権では、ショートプログラムはクリーンで完成度の高い演技で自己ベストを大きく更新して4位につけるも、フリースケーティングで崩れ7位に終わった。2012-2013シーズン、初戦としてオンドレイネペラトロフィーに出場し優勝する。グランプリシリーズはスケートアメリカと中国杯にエントリー。スケートアメリカではフリースケーティングと総合得点で自己ベストを更新し3位、グランプリシリーズ初のメダルを獲得した。続く中国杯では、ショートプログラムと総合得点で自己ベストを更新してグランプリシリーズ初優勝。またそれにより初のグランプリファイナル出場を決めたもののファイナルは最下位の6位。全日本選手権も9位に終わった。2013-2014シーズンよりコーチ陣に大西勝敬を加え、練習拠点を米国から大阪に移した。また体幹を強化するため木村雅浩トレーナーの元で体幹トレーニングを行う。かつてフィギュア種目だった氷上で課題の図形通りに滑る正確さなどを競う規定種目(コンパルソリー)を重視し、基本練習を行い4回転ジャンプの精度を上げた。スケートアメリカではショートプログラム、フリースケーティングともに自己ベストを大幅に更新する演技で自身2度目のグランプリシリーズの優勝を飾った。続くロステレコム杯ではショートプログラムは2位、フリースケーティングでは1位となり逆転優勝。2年連続のグランプリファイナル出場を決めた。グランプリファイナルでは、ショートプログラムでジャンプのミスが影響し6位。フリースケーティングでは自己ベストに迫る得点を出すも、総合4位に終わった。全日本選手権ではショートプログラム、フリースケーティング共に全てのジャンプを成功させ、非公認ながら自己ベストを大きく上回る得点で総合2位となり、自身初の全日本選手権でのメダルを獲得。同時にソチオリンピック、世界選手権の代表にそれぞれ初めて選出された。その後、オリンピックでは帯同できるコーチの人数に制限があるため、メインコーチを大西勝敬に変更し、アンソニー・リュウ、秦安曇との師弟関係を解消した。2014年2月開催のソチ五輪・団体戦は男子シングルのフリースケーティングに出場し、3位(最終的に日本代表は5位)。個人戦・男子シングルではショートプログラムでミスが出て11位と出遅れたものの、フリーでは4位と大きく挽回、五輪メダル獲得はならなかったが総合5位入賞を果たした。同年3月、日本・さいたま市で開催の世界選手権では、ショートプログラムで完璧な演技を披露し、自己ベストを大幅に更新して首位に立った。フリーでもほぼミスのない内容で自己ベストをマークするも、羽生結弦(ソチ五輪金メダリスト)に僅か0.33点の差で惜しくも逆転されてしまい総合2位に下がったが、銀メダルを獲得(世界選手権男子シングルで日本人メダリストとしては史上6人目、世界選手権初出場で2位は日本男子シングルで歴代最高位となる。それ以前は2012年世界選手権が初出場だった羽生結弦の3位)。さらに日本男子シングル史上初となる、世界選手権でのワンツーフィニッシュを達成した。2014-2015シーズンは、初戦のスケートアメリカで2位に30点以上の差をつけて優勝。スケートアメリカ二連覇で、GPシリーズ4勝目を挙げた。2014年全日本選手権で4位に入り、2015年世界フィギュアスケート選手権(中華人民共和国:上海市)の男子シングル日本代表に当初2年連続で選ばれた。だが町田は、日本代表選手発表の場で突如自ら「全日本選手権を以て引退することを本日決断しました」と、世界選手権への出場辞退と同時に、現役を引退することを電撃発表した。これに伴い、世界フィギュア選手権代表選手は町田から無良崇人に変更された。電撃引退から4か月後の2015年4月、プリンスアイスワールド横浜公演でゲスト出演。しかし町田曰く「今後も研究活動の一環と、アイスショー等での演技や創作活動を必要最小限の数の舞台において、経験させて頂きたいと考えております」と、ファンからの花束・手紙・プレゼントを含め、記者会見出席等も全て辞退しすぐさまリンクを後にした。

出典:wikipedia

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