元老(げんろう、)は、第二次世界大戦前の日本において、政府の最高首脳であった重臣である。大日本帝国憲法は元老についての規定を明記しておらず、憲法外機関とされる。法制上にその定めはなかったが、勅命または勅語によって元老としての地位を得て、主権者たる天皇の諮問に答えて内閣総辞職の際の後継内閣総理大臣の奏薦(大命降下)、開戦・講和・同盟締結等に関する国家の最高意思決定に参与した。元老には、皇室儀制令(大正15年[1926年]皇室令第7号)第29条において、宮中席次第一階第四(枢密院議長の次位)と定められ、「元勲優遇ノ為大臣ノ礼遇」を与えられた(元勲優遇)。明治維新に功績のあった人物を「元勲」と呼ぶが、彼らが明治政府において長期間に渡って事実上政治を牽引していたことから、主にマスコミ周辺から誕生した略称だと言われている(維新の元勲→元勲→元老)。「元勲諸老」の略との説もある。又、明治初期の最高諮問機関は麝香間祗候と錦鶏間祗候である。総裁・議定・参与の三職制度廃止後に最初に元勲待遇の詔勅を受けた政治家は、伊藤博文と黒田清隆である。当初は伊藤博文が枢密院議長の職を辞することから、明治天皇が詔勅を出そうとしたのだが、これでは薩長の藩閥において薩摩に不公平であることから、黒田清隆も指名された。この時点では「元勲」と呼ばれることが多く、当初、彼らの集まりは「元勲会議」と報じられた。次第に、「元勲」と「元老」が混用されるようになる。第1次桂内閣以降、元勲や元老が総理大臣となることはなくなり、「元勲」の代わりに「元老」の呼称が通例となった。年月の推移と共に、元老の数は減っていった。松方正義の死後、元老は西園寺公望のみとなり、「元老」は西園寺を指す代名詞となった。政界では元老の再生産を行おうとする動きがあり、松方も存命中に新たな元老を補充しようと考えていた。しかし、最後の元老となった西園寺は、山本権兵衛や清浦奎吾といった有力な候補たちに難色を示し、また別に重臣会議が設けられたこともあって、結局補充は行われないまま、1940年(昭和15年)の西園寺の死と共に元老の制度も消滅した。なお、昭和天皇即位の際に閑院宮載仁親王が西園寺への元勲優遇の詔勅と類似の詔勅を受けているが、皇族かつ現役軍人であったことから政局には関与せず、閑院宮が元老とみなされることはない(ただし元帥・議定官として天皇の諮問機関の一員ではあった。1945年(昭和20年)没)。以後、天皇の最高諮問機関としては、議定官、枢密顧問官、宮中顧問官の制度が太平洋戦争(大東亜戦争)終戦まで存続した。西園寺以外は薩摩藩・長州藩いずれかの出身である。なお、第1次山縣内閣の総辞職後に山田顕義(長州)が元老に相当する元勲とともに後継総理大臣の奏薦を行っており、これについて歴史学者の佐々木隆は、山田が早世(1892年に49歳で死去)のために正式な任命の手続を得られなかった事実上の元老であった可能性を指摘している。なお佐々木は、後になって任命された桂・西園寺を除いた7名と山田を加えた8名をもって帝国憲法下における「薩長元勲」と位置づけている。「元老」という語は、君主国で政府の中枢において、君主の補佐、または任命・承認に携わる少人数の特権的地位に対する訳語として用いられることがある。君主制ではないが、1990年前後の中華人民共和国においても、第一線から退きながらも最高権力を握り続けた中国共産党の建国の元勲が「八大元老」とよばれたことがあった。また、特に二院制などで、世襲もしくは長期の任期を与えられ特権的立場で立法を行う上院の議員に対しても用いられることもある(元老院議員)。しかしこの多少古めかしい響きであるこの語は、たびたび西洋史の記述に登場するローマ元老院議員に対して用いられる以外では、あまり使われることがなくなった。日本でも明治初期に元老院が設けられたことがあった。なお、これらの議員が「元老」と呼ばれることはなく、「元老院議員」「元老院議官」などと称される。また、第二次世界大戦後の日本では、“明治維新を指導した政治家”以外にも、“長い間一つの部門の内で仕事をしてきた功労のある人”の意味でも用いられるようになっている。たとえば、1977年に南海ホークス監督を更迭された野村克也は「鶴岡元老の圧力」と口にしている(鶴岡とは、1960年代まで20年以上南海の監督を務めた鶴岡一人を指す)。この野村の発言は、普通名詞としての用法というよりも、第二次世界大戦前における元老の暗喩であろう。
出典:wikipedia
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