高山 岩男(こうやま いわお、1905年(明治38年)4月18日 - 1993年(平成5年)7月7日)は、日本の哲学者。山形県山形市生まれ。京都帝国大学哲学科卒。西田幾多郎、波多野精一、田辺元、和辻哲郎ら、京都学派の全盛期にそこで哲学を学び、特に田辺から多大な影響を受ける。卒業後、第三高等学校講師、1938年(昭和13年)より京都帝国大学文学部助教授、1945年(昭和20年)3月に教授となるが、8月の敗戦とともに退官。息子は日本製紙クレシア元社長の高山武彦。西田幾多郎、田辺元の著書に触発され、京都帝国大学に入学する。西田幾多郎より俊秀と評され、京都帝国大学を首席で卒業する。31歳の時の著書『ヘーゲル』は、高坂正顕の『カント』とともに、後に廣松渉によって、同時代の研究書として世界最高水準と評価され、両書が外国語で書かれなかったことを惜しまれた。「文化類型学」、「哲学的人間学」などへと思索の領域を広げながら、歴史哲学へと踏み入り、『世界史の哲学』を著す。第二次世界大戦のさなか、1942年(昭和17年)から翌年にかけて『中央公論』誌上で、「世界史的立場と日本」座談会(「世界史的立場と日本」昭和17年1月号、「東亜共栄圏の倫理性と歴史性」昭和17年4月号、「総力戦の哲学」昭和18年1月号)を京都大学の同僚、高坂正顕、西谷啓治、鈴木成高と行い、戦争を大東亜共栄圏の建設という至上の理想、「近代の超克」のために止むを得ないものと肯定した。特に海軍に対し、協力的な姿勢を示した。陸軍に協力を強要されるくらいなら、よりリベラルな海軍と手を結んで、という彼らの思惑もその背後にはあった。戦後、公職を追放される。その間、浜名湖の畔に隠遁していた。その後、静岡新聞にコラムを執筆する傍ら、神奈川大学・日本大学・東海大学などで教職を歴任、最後は秋田経済大学(のちに秋田経済法科大学、ノースアジア大学に改称)の学長を務める。晩年は、東海大学に在籍した。当時、京都大学の同窓の小原國芳の依頼で玉川大学大学院に係わるようになり、広義の哲学的人間学、教育学への関心を深めた。その中心には、田辺元の「種の論理」に対して、自ら提唱した「呼応の論理」が据えられている。高坂正顕、西谷啓治、鈴木成高と共に「京都学派四天王」と呼ばれている。京都大学時代の教え子には、武内義範、大島康正、上山春平、辻村公一などがいる。
出典:wikipedia
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