アルフォンソ6世(Alfonso VI, 1040年6月以前 - 1109年7月1日)は、レオン王国の王(在位:1065年 - 1109年)およびカスティーリャ王国の王(在位:1072年 - 1109年)。勇敢王と呼ばれる。カスティーリャ王としてはアルフォンソ1世とも呼ばれ、「ヒスパニア皇帝」を名乗った。多くの伝説的な物語をまとった人物である。カスティーリャとレオンの王を兼ねるフェルナンド1世とレオン王女サンチャとの間に生まれた。父フェルナンドは領土を分割し、アルフォンソにレオン、兄のサンチョにカスティーリャ、弟のガルシーア()にガリシアを与えた。サンチョはアルフォンソと組んでガリシアを攻めたが、のちにアルフォンソを裏切ってレオンを征服した。しかし、サンチョは1072年に暗殺され、ガルシアはその翌年捕らえられた。これにより、アルフォンソはカスティーリャとガリシアの王位を継ぎ、カスティーリャ=レオン王国を再び統合した。アルフォンソは婚姻によってフランス貴族と関係を結び、ローマ典礼を導入して教皇との関係を強化した。イスラム教諸国(タイファ)に対しては、始めのうちは領土を征服しようとせずに、貢納を強要し、諸国間の争いに介入することで影響力を行使した。しかし、トレドで内紛が発生するとそれに乗じて都市を攻囲し、1085年に征服した。これにより、キリスト教国の支配地はタホ川まで南下した。セビリャ王国を支配しようとアルフォンソが圧力をかけると、タイファ諸王はムラービト朝のユースフ・イブン・ターシュフィーン()に救援を求めた。ユースフはこれに応えてイベリア半島に上陸し、1086年10月23日にバダホス北東のサグラハスの戦いでアルフォンソ軍を敗走させた。これ以降ムラービト朝に対して敗退を続けたが、トレドは守り抜いた。この時期にムラービト朝との戦いに勝ち、その北上を妨げることができたのは、英雄エル・シッドの軍だけであった。アルフォンソが後継者に指名した子サンチョがムラービト朝との戦いで死亡したため、カスティーリャ=レオンの王位は娘のウラカ(アルフォンソの妹ウラカとは別人)に引き継がれた。アルフォンソは英雄叙事詩『わがシッドの歌』において、中世の詩人が偉大な王に与えた役割を演じている。抑圧者となったり、勇ましく身勝手な貴族たちの犠牲となったりする。トルバドゥールが理想とするタイプの支配者である。兄によってサアグンの修道院に囚われたが脱走し、騎士道的な友情を結んだ「ムーア人の騎士」トレドのアルマムン(アルマウン)にかくまわれた。彼は妹ウラッカ()と近親相姦関係にあった。こうした伝説は、彼を英雄化した詩人によるものであろう。また、アルフォンソは兄を暗殺した疑いをかけられ、ブルゴスでエル・シッドを代表とする貴族たちに暗殺を否定する宣誓を要求され、これを恨んでエル・シッドを追放した、とも伝えられる。少なくとも5回結婚している。成人した子供は6人いる。テレサとエルビラ(レーモン4世妃)は、愛人ヒメナ・ムニョスの子である。ウラカの最初の夫レーモンとテレサの夫エンリケは、フランスからポルトガルに移住してイスラム教徒と戦った。エンリケはポルトゥカーレ伯に叙せられ、ブルゴーニュ王朝の祖となった。
出典:wikipedia
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