ティレル(Tyrrell Racing Organization Ltd.)は、かつてF1に参戦していたイギリスを本拠とするコンストラクター。1970年代の日本ではタイレルと表記されていた。ジャッキー・スチュワートにより2度のタイトルを獲得し、名門チームとして名を馳せた。若手ドライバーが所属することも多く、ジョディー・シェクター、ミケーレ・アルボレート、ジャン・アレジなどが初期のF1キャリアをティレルで過ごした。中嶋悟や片山右京を始めとする日本人ドライバーが在籍するなど、日本と縁の深いチームであった。創始者はケン・ティレル。材木商として成功し、F3レースに参加していたケン・ティレルが1960年にFJチーム、"Tyrell Racing Organization"を結成。クーパーのマイナーフォーミュラチームとして活動し、ジャッキー・スチュワートやジャッキー・イクスらを輩出した。1968年には、マトラがフォード・コスワース・DFVエンジンを使用するセミワークスチーム、マトラ・インターナショナル("Matra International")を発足、ティレルはそのチーム監督として初めてF1に参戦し、愛弟子スチュワートを擁して1969年のドライバーズ、コンストラクターズ両タイトルを制覇した。しかし、マトラはフォードのライバルであるクライスラー傘下のシムカと提携したため、マトラではフォードエンジンが使えなくなる一方、スチュワートのテストでマトラよりコスワースDFVの方がコンペティティブだとの判断もあり、ティレルはマトラと決別し、新規のコンストラクターとしての参戦を決断した。1970年のシーズン当初はマーチのマシンを使用しつつ、ティレルはマトラのエンジニアだったデレック・ガードナーに新たなシャーシの設計を依頼し、極秘裏にマシンの開発を進めた。1970年の第11戦カナダGPで突然オリジナルマシン001を登場させ、優勝争いに加わる戦闘力をみせて周囲を驚かせた。続けて1971年シーズンに投入された、スポーツカーノーズを採用した003の実力も本物で、オリジナルマシンによるフル参戦初年度のこの年にいきなりダブルタイトルを獲得し、1973年にも005でスチュワートがチャンピオンになった。ケン・ティレルとスチュワートの師弟関係、スチュワートと愛弟子フランソワ・セベールのコンビなど、結束力を武器にF1界の驚異的な新興勢力となる。しかし、1973年の最終戦アメリカGPの予選中にセベールが事故死し、このレースがちょうど100戦目となるのを機に引退を決めていたスチュワートは、決勝レースに出走することなく引退した。両ドライバーを失ったことで破竹の勢いは消えたが、ジョディー・シェクターが新エースとなり、パトリック・ドゥパイエと共に優勝戦線で活躍した。1974年は新たにウイングノーズとなった007を第5戦スペインGPから投入、シェクターはモナコGPで2位に入ると、次のスウェーデンGPで優勝。この年イギリスGPにも勝利し、翌1975年の南アフリカGPと合わせて007は通算3勝を数えた。1976年には日本でも有名な6輪車P34を登場させ、再びF1界を驚かせる。だが周囲の好奇の目をよそに、P34は投入直後から確かな戦闘能力を発揮した。デビュー3戦目のモナコGPでニキ・ラウダのフェラーリに次ぐ2・3位、次戦スウェーデンGPではワン・ツーフィニッシュし、コンストラクターズ・ポイントで3位を獲得した。1977年にはシェクターの移籍に伴いロニー・ピーターソンが加わり、新たにシティコープがスポンサーとなったが、6輪車用のタイヤ開発が滞るなどして成績は精彩を欠いた。ピーターソンは1年でディディエ・ピローニへ交代した。1978年はオーソドックスな008を投入、ドゥパイエがモナコGPを制したが、この年を最後にエルフとシティコープの両スポンサーが撤退、また開発能力に優れたドゥパイエがリジェへ移籍するなどした後のチームの戦力は凋落傾向となった。1980年代に入るとターボエンジンへの移行に乗り遅れ、苦戦を強いられた。しかし、ミケーレ・アルボレートが健闘し、DFVエンジンで1982年最終戦のラスベガスと1983年のデトロイトの市街地コースで2勝を挙げた。1983年の勝利はチームの最終勝利であると共に、F1界に一時代を築いた名機DFVエンジンの最後の勝利にもなった。アルボレートはこれらの活躍が認められ、フェラーリへ移籍した。1984年は、前年までF3を戦っていたマーティン・ブランドルとステファン・ベロフの2人の新人を抜擢した。アメリカ東GPでブランドルが2位、雨のモナコGPではベロフがフェラーリを抜き3位に入るなどターボ勢に食い込む健闘を見せた。ブランドルはクラッシュで足を骨折したため、代役にステファン・ヨハンソンを起用。しかし後に、車検でティレルのマシンに「水タンク事件」が発覚しチームには84年シーズンからの失格が通告され、全成績・全ポイントを剥奪された。1985年は開幕を前年同様、フォードDFVエンジンを積んだ012で迎えるが、シーズン途中からルノーターボエンジンを搭載した014を投入する。このティレルの「ターボ化」により、F1に参戦する全てのマシンがターボエンジン搭載マシンとなり、ターボ隆盛の象徴的な出来事となった。しかしチームの成績は以後も平凡なリザルトに終わった。ドライバーはベロフとヨハンソンで始まったシーズンだったが、ヨハンソンは開幕戦を終えるとフェラーリに引き抜かれ、ベロフはF1と並行して参戦していたWECのスパ1,000kmでのレース中にオー・ルージュでクラッシュし命を落としたため、前年の負傷から復帰したブランドルとイヴァン・カペリがティレル014をドライブした。1986年はほぼ変わらぬマシンをブランドルとフィリップ・ストレイフが駆り、シーズン途中に改良版015シャシーも投入されたが、最高位は最終戦で記録したブランドルの4位が精一杯であった。1987年、2年後のターボエンジン禁止に先駆けて自然吸気エンジンへ回帰。フォード・コスワース・DFZエンジン(3000ccのDFVを3500ccへ排気量アップ)に変更した。残留したストレイフと、ザクスピードから移籍加入したジョナサン・パーマーが安定した走りを見せ、自然吸気エンジン搭載車を対象としたドライバーズ(ジム・クラークカップ)、コンストラクターズ(コーリン・チャップマンカップ)の両タイトルを獲得した。1988年はストレイフが去ったため、新人ジュリアン・ベイリーを起用しパーマーとイギリス人コンビとなる。しかし前年よりも自然吸気エンジンに移行したチームが他にも増え、相対的にティレルの成績は下降していった。1989年にターボが禁止になり、同時にハーベイ・ポスルスウェイトをデザイナーとして迎え入れたことにより、ティレルは再浮上のきっかけを掴んだ。フロントサスペンションのダンパーを通常の2本から1本に変更した「モノショック」を採用した018は、非力ながら軽量なコスワース・DFRエンジンと合わせ軽快な操縦性を備えていた。メキシコGPでは、6年ぶりにフェラーリから戻ってきたミケーレ・アルボレートが3位表彰台へ上がり、018のポテンシャルの高さを証明した。第7戦のフランスGPからキャメルのスポンサードを得たため、マールボロの支援を受けていたアルボレートが離脱し、代わりに国際F3000に参戦中の新人ジャン・アレジが起用され、デビューレースで4位に入賞し注目を浴びる。アレジがF3000に出場する際の代役としてジョニー・ハーバートも018をドライブしたが、足の負傷を抱えており結果が残せなかった。シーズン終了後、チームを3年間支えたパーマーがマクラーレンとテストドライバー契約を結び移籍していった。1980年代末から1990年代前半まで、バブル景気を背景にF1界にジャパンマネーが流れ込んだ。ティレルは日本のドライバー、エンジンメーカー、スポンサーを積極的に導入し、体制の向上を目指した。1990年、ポスルスウェイトがデザインし、中嶋悟とジャン・アレジがドライブした019は、現在のスタンダードであるハイノーズやアンヘドラル・ウイングと呼ばれるアイデアを実現したものであった。また開幕戦の直前にタイヤを参戦以来使用していたグッドイヤーからピレリへ変更し、アイルトン・セナらとバトルを繰り広げたアメリカGPとモナコGPでアレジが2位を獲るなど荒れた路面では強みとなったが、シーズン全般でタイヤパフォーマンスに苦しんだ。中嶋もコンスタントに入賞を重ね、アレジと中嶋の2人で計16ポイントを獲得した。1991年にはブラウンがメインスポンサーとなり、前年マクラーレンのダブルタイトル獲得の原動力となったホンダV10エンジン(ホンダRA101E)の供給を受け、大きく期待されるシーズンとなった。初戦のアメリカGPでこの年より加入したステファノ・モデナと中嶋がダブル入賞を果たした他、サンマリノグランプリではモデナと中嶋が中盤まで3位、4位を維持し、カナダGPでモデナが2位になる活躍もあったが、シャシーとのバランスが悪く、駆動系のトラブルにも苦しんだ。またピレリタイヤも安定した性能を発揮せず、夏場以降は下位に低迷し12ポイントの獲得に留まった。メインスポンサーのブラウンとホンダのエンジン供給はこの年のみで終了し、中嶋悟はこの年をもって現役を引退した。1992年はエンジンをイルモアV10に変更し、ドライバーはアンドレア・デ・チェザリスとオリビエ・グルイヤールとなった。前年のホンダよりも小型・軽量なエンジンを搭載したマシンはバランスが良く、また駆動系のトラブルも大幅に減った。ブラウンや中嶋の引退に伴う日本企業の撤退(カルビーとクラブアングルは継続)が響き資金難に陥る。昨年末にはチーム売却と言われたが、資金面で折り合いがつかず破談となる。グルイヤール(エルフ、マルボロ等)とチェザリス(マルボロ)の持参金により何とかシーズンを終えることができた。シャシーは前年の020をイルモアエンジン用にモディファイしただけの020Bであったが、デ・チェザリスが8ポイントを獲得した。1993年ラルースより片山右京が移籍。この年から4年間ヤマハからV10エンジンの供給を受け、日本たばこ産業(キャビン)など日本企業のスポンサーも獲得して資金事情は改善されたが、ハイテク競争の開発費には十分ではなかった。シーズン中盤まで3年落ちのマシン(020C)で戦うが、ニューシャシー021も失敗作となり、ノーポイントに終わった。1994年はメインスポンサーがない状況は変わらなかったが、スポンサーブランドをキャビンからマイルドセブンへ変更し、白と爽やかなブルーの配色となった。この年はハイテク禁止と、セナの死亡事故以後に車体レギュレーションが変更されたが、022はしばしば上位を掻き回す活躍を演じた。特に片山は予選で度々上位に進出し、ドイツGPの序盤に2位を走行した。またスペインGPでは1991年のカナダGP以来、ヤマハエンジンにとっては初めての3位表彰台をマーク・ブランデルが獲得した。マイナートラブルで好機を逸する場面も多かったが13ポイントを得た。ヤマハエンジンは頻繁なアップデートにより通常想定される年間の伸び幅を大幅に上回るパワーアップを果たしたが、後半戦はトラブルが増えた。1995年は、片山のチームメイトにミカ・サロを迎え、サロの母国のフィンランドの大企業のノキアがメインスポンサーとなった。ハイドロリンクサスペンションを搭載した023を投入したが、期待に反して熟成に手間取り、元の仕様に戻すなど5ポイントの獲得と低迷した。ポルトガルGPでは片山がスタート直後に大クラッシュを起こし、ヨーロッパGPではテストドライバーのガブリエル・タルキーニが代役で出場した。ノキアはこの年のみでスポンサーを撤退した。1996年には重量95kgといわれる超軽量コンパクトなヤマハ・OX11Aエンジンを搭載するも信頼性とパワー不足に悩まされ、ドイツGPでは空気抵抗を減らすため全輪にフロントタイヤを装着するという奇策にトライした。メインスポンサーが無い状況では十分な開発とテストが出来ずに、年間5ポイントに終わった。この年をもってヤマハエンジンとの契約が終了し、翌年以降は再びフォード・コスワースのカスタマーエンジンを使用する事になる。1997年にはチームとして「ティレル2000」と銘打って2000年までに勝利とチャンピオンを獲得することを目標として中嶋企画と提携し、元ドライバー中嶋悟をスポーティング・ディレクターに起用した。また高木虎之介とテストドライバー契約を結び、日本からの資金導入でチームの活性化を図った。右京はこの年よりミナルディに移籍、エンジンもフォードに変更されたが、モナコグランプリでミカ・サロが他のチームのリタイアに助けられ5位入賞した以外はノーポイントに終わり、これがティレルとして最後の入賞となった。またダウンフォース不足を少しでも補おうと、シーズン途中でサイドポンツーンの上にウイングを取り付け「Xウイング」と呼ばれた。1998年のシーズン前に、ブリティッシュ・アメリカン・タバコ (BAT) などによる買収が発表された。この買収は新チームブリティッシュ・アメリカン・レーシング (BAR) の参戦権確保を主目的にしたもので、一部の人材を除いてティレルの資産は引き継がれなかった。チーム代表にBARのクレイグ・ポロックが就任し、高木とリカルド・ロセットをレギュラードライバーに起用したが、ケン・ティレルはヨス・フェルスタッペンが採用されなかったことに激怒してチームを離脱した。ポスルスウェイトやマイク・ガスコインら主要スタッフも相次いで離脱し、開発資金が乏しい上に、スペインGPよりXウイングが禁止されたためエアロダイナミクスのバランスが崩れてしまった。最終年はポイントも挙げることなくその歴史に幕を下ろし、翌1999年よりBARへと移行した。ティレル公式サイトの、別れを告げるあいさつの文末には、「sayonara(さよなら)」と記されていた。ポスルスウェイトはホンダのワークス参戦計画に参加し、ホンダ・レーシング・ディベロップメント (HRD) でホンダ・RA099をデザインしたが、 1999年にテストで訪れていたスペインバルセロナで死去した。2001年にはチーム創設者のケン・ティレルがすい臓癌の為他界した。ケン・ティレルの死去から数年後、ケンの遺族やジャッキー・スチュワートら元ティレル・レーシング関係者達は、競売に掛けられていたティレルの初期のF1マシンのいくつかを買い戻し、「チーム・ティレル」という事業とティレルミュージアムを設立した。現在は各地のヒストリックカーイベントに参加し、ティレル・001を始めとする初期の名マシンのデモ走行などを行っているという。
出典:wikipedia
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