LINEスタンプ制作代行サービス・LINEスタンプの作り方!

お電話でのお問い合わせ:03-6869-8600

stampfactory大百科事典

中田羽後

中田 羽後(なかだ うご、1896年9月9日 - 1974年7月14日)は、日本の牧師、音楽伝道者、福音歌手、詩人、作詞家、作曲家、編曲家、言語学者、指揮者、聖歌の編者。福音主義・超教派の教会音楽のために生涯をささげた。「おお牧場はみどり」の作詞者として有名であり、ヘンデルの『メサイア』の訳者、研究家、演奏家としても知られる。日本ホーリネス教会の中田重治監督は実父。1896年9月9日 秋田県北秋田郡大館町(現大館市)生まれ。父で牧師の中田重治と母で伝道師のかつ子の次男として生まれた。長男は択捉島で生後1か月で亡くなったため、羽後が後を継ぐ。羽後国にちなんで羽後と名づけられた。叔父の中田久吉が軍隊式のスパルタ式で重治を教育した影響で、父重治は羽後をスパルタ式に鍛錬しようとしたが、逆効果を生んだと、後に羽後が語った。1901年 中田重治がホーリネス運動を始め、羽後も幼少期より日本ホーリネス運動の中で育った。1911年に青山学院中等部在学中に母親が病死する。半年後に、父が再婚し、今井あやめが義母になる。1917年聖書学院の修養生であった時に、きよめが分からなくなり、大島行きの船にのり、大島で無人のぼろ小屋に住みながら自殺をしようと考えた。大島で伝道をしていた日本ホーリネス教会伝道者である安部千太郎の使いが、安部の命により羽後を安部のもとに連れて行った。安部に村はずれの共同墓地に連れて行かれそこで安部より自我に死ぬということを教えられ、きよめを悟った。その時、「賛美歌もって主に仕えよ」という御声を聞いて音楽伝道への献身を志した。その後、復学し聖書学院を卒業する。1918年に日本ホーリネス教会の牧師になる。1919年10月より姫路で開かれた山陽修養会で、父の恩師ルーベン・トーレーの説教を聞きに行った時、トーレーから勧められて、ロサンゼルス聖書学院(現在の、バイオラ大学)に留学することになり、トーレーと同じサイベリヤ丸で渡米した。1919年ロサンゼルス聖書学院の合唱隊に参加してメサイアを歌う。1920年にアメリカで東洋宣教会・北米ホーリネス教会の牧師になる。父中田重治が渡米した際に、シカゴの教会で共にメサイアの演奏を聞く。父重治はメサイアに深い感銘を受け、それがホーリネス・リバイバルの原動力になる。1921年4月 中田重治は羽後に、ムーディにとってのアイラ・サンキーのようになって欲しくてシカゴ音楽専門学校で音楽を学ばせた。父重治も同伴していた。1921年9月 帰国途上ロサンゼルスの北米ホーリネス教会の最初の受洗式に出席した後、中田重治と共に帰国。1923年にホーリネス運動のために編集されたリヴァイヴァル聖歌を出版する。1927年8月28日 アメリカのインディアナ州ワイノナで今井朝子(後の中田あさ)と結婚して、1928年6月11日 長女純が誕生する。1931年4月ホーリネス・リバイバルの最中に父中田重治から、「流れに添わぬ」という理由でホーリネスの退会を命じられ、聖書学院を去る。義母あやめとの確執が原因であったと言われる。その後、神経衰弱を病む。その頃、大館町の町長より羽後に秋田犬が送られてきた。羽後は毎日散歩に連れ出すようになり、徐々に健康を回復したので聖歌の編纂に取り組み、ついに昭和7年版の「リバイバル聖歌」を編纂を完成させることができた。1932年に東京ヴォランティア・クワイアを指導しヘンデルのメサイアを公演する。以降、11年間メサイアの公演は続けられ、メサイアの中田として知られるようになる。次第に父重治との確執は深刻化し、重治からは戸籍上でも親子の縁を切られる。しかし、1939年の中田重治と中田あやめの死去の際には、羽後は両親と和解することができた。1943年 東京ヴォランティア・クワイアが解散する。1944年には国内でのメサイアの演奏は不可能になったが、戦時下にあって元団員を集めてJOAKからの海外放送を聞きながら継続する。戦後になり、1947年より、1960年まで東京チャペルセンターの音楽主事を努め、同校閉鎖までの10年間進駐軍、軍属、家族、日本人の会衆の音楽指導を行う。進駐軍の要請により、クリスマスシーズンのメサイアの演奏を再開する。また、同時に1946年2月、聖書学院(後の千葉英和高等学校)を創立し、初代学園長に就任する。さらに東京都昭島市宗教法人啓明学園音楽教師をも兼任する。1946年の11月30日の伝道説教で尾山令仁がイエス・キリストを信じた1953年にヘンデルの『メサイア』の日本語訳「救世主」の無伴奏版を出版し、チャペルセンター・クワイアにて演奏する。1958年 聖歌を編纂、翻訳して出版する。中田は聖歌委員会の委員長をつとめる。1960年日本イエス・キリスト教団に参加して、森山諭と荻窪栄光教会を開く。1969年、和田健治と共に、月刊「聖歌の友」を創刊して、主筆になる。森山諭と共に荻窪栄光教会を建て上げ、日本の教会音楽に大きな貢献を残し、その功績が認められ1967年11月11日に安部正義、木岡英三郎、津川主一と共にキリスト教功労者を受賞する。1974年7月14日 荻窪栄光教会で説教中に急逝する。死後、遺言が残されており、それによって聖歌の資料等の財産が和田健治に託された。

出典:wikipedia

LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。