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平賀譲

平賀 譲(ひらが ゆずる、1878年(明治11年)3月8日 - 1943年(昭和18年)2月17日)は、日本の海軍軍人、工学者、華族。海軍技術中将従三位男爵、東京帝大総長、工学博士。東京府(現・東京都)生まれ、本籍地は広島県広島市。父は芸州藩士から維新政府に仕えた主計官。兄・徳太郎は海軍軍人。大正時代から昭和初期にかけて海軍艦政本部で艦艇設計に従事し、妙高型重巡洋艦などの画期的な重武装艦を設計したことで知られる。平賀の留学帰国後は海軍艦政本部で艦艇設計に従事し、第四部計画主任となってからは戦艦紀伊型、重巡洋艦古鷹型、妙高型、軽巡洋艦夕張、川内型、駆逐艦神風型、若竹型を設計した。夕張や重巡洋艦妙高型の軽量化は各国海軍艦艇造船官を注目させた。造船の神様、という賛辞も存在する。一方、海軍中枢部や他の造船官らからの反対意見には頑として譲らなかったため、平賀譲(ゆずる)ならぬ「平賀不譲(ゆずらず)」と皮肉られた。仕事上の問題で衝突があると、議論の相手が誰であれ怒鳴りつけることもしばしばで(すぐに赤熱するという意味で)「ニクロム線」とも渾名された。この態度が仇となり、周囲からの反感をかい、一時左遷されることもあった。軽量な艦体に重武装をほどこした平賀の設計は、諸外国からも脅威視された。ワシントン軍縮条約で巡洋艦の分類が主砲口径を基準とされたのは、古鷹型を重巡洋艦にカテゴライズして足枷をはめようという意図があったする説がある。続くロンドン条約では重巡を含む補助艦艇保有量制限がされたのも、妙高型やその改良型の建造を阻止するのが主な目的であったという説もある。山本開蔵が策定した八八艦隊計画は、40センチ砲装備の戦艦12隻の建造にあたって、連装砲塔58基分を共通にして大幅なコストダウンと工期の短縮を図っていた(土佐においては起工から竣工まで僅か24ヶ月)。この日本海軍の急速な海軍戦力の拡張は、ワシントン軍縮会議の原因のひとつとなった。しかし平賀は加賀の設計において連装・3連装砲塔混載という設計変更を希望した。小型軽量化・安定性向上などの利点はあるが、量産効果を台無しにするものであり、山本に拒否されている。大正9年12月に計画主任に就任してからの、紀伊型の舷側装甲の増大、川内型軽巡洋艦における重油専焼から石炭混焼への変更、安定性不足を理由とした駆逐艦の船体幅の増加は、前任者の行った艦型の整理による量産体制の否定であり、工期の延長や費用の高騰を招いた。結果、巡洋艦20隻の取得計画が、建造費の増加で12隻に削減された。また、大正10年度設計艦が平賀による設計変更により、重量増加により速力が2~3ノット低下している。3500トンで5500トンの巡洋艦と同じ戦力を発揮するとした、軽巡洋艦・夕張は、予定重量10パーセント超過により速力が低下。また船体規模の不足から、荒天性能の不足。軽巡洋艦の任務であった水雷戦隊司令部としての機能、人員の余裕不足。航続力不足(14ノット3300海里。ちなみに5500トン巡洋艦は15000海里)。航空機運用能力の付加ができないという欠点があった。ただ夕張は一隻のみ建造された試験的存在であり、後の重巡洋艦設計の礎となり実験艦としての意義はあったという評価もある。古鷹型も7500トンの予定が1000トン超過して速力低下している。また単装砲塔6基という設計にこだわり、艦政本部第一部の反対を退けて人力揚弾方式を採用。これにより砲塔内の即応弾10発を撃ちつくした後の給弾が追いつかないという欠陥を抱えていた(古鷹型の評価が高かったのは、この欠陥が知られなかったからという説もある)。妙高型は主砲の散布界が異常に大きく、連装3基の青葉に対し、連装5基で命中率が半分という欠陥があった。また水雷兵装を全廃した事も問題視された。これは国防の基本計画に関わる重大事であり、にもかかわらず平賀の独断で実行したからである。用兵側では主砲は8門でよしとし魚雷装備を求めたが、平賀は条約で戦艦の保有が制限されている以上、重巡洋艦は準戦艦たるべしという信念を持っていた。結果論としては時代の移行もあったとはいえ、平賀の独断と一致し、実戦で重巡洋艦の魚雷装備が役立つ事は少なかった。また他国の重巡の主砲が8〜9門に対し、平賀設計の重巡は門数・防御力とも優れていた。しかし、その性能は条約違反の排水量超過によるものであったのも否めず、現場を無視した平賀設計と、現場での尻拭い的改善が原因である。上述の失態や暴挙をかばい立てできなくなった山本は、大正12年10月1日付で平賀に欧州への技術調査を命ずるとともに、海軍を退職した。後任の藤本喜久雄の最初の仕事は、連装砲塔装備の改古鷹型である青葉型の設計、妙高型の水雷兵装の復活という、平賀設計の問題視された部分の改定であった。藤本は主砲10門はそのままに魚雷装備と両立させ、用兵側を大いに喜ばせた。だが、用兵側の要求より高い目標で応じる藤本設計が、後の悲劇となる。条約時代の新型水雷艇や新型駆逐艦、新型軽巡洋艦は、平賀が左遷されていた時期に藤本が設計しているが、復原力不足で友鶴事件、第四艦隊事件を起こした。平賀設計に輪をかけた重武装が、トップヘビーを招いたのが原因であった。平賀が担当していれば事件は起きなかったという見解もあり、実際昭和19年11月のフィリピンを襲った台風によってトップヘビーだった米軍駆逐艦などが転覆する事故が起きたが、それに対し、平賀が復帰して改善した以降は事故はぴたりと止んだ。ただし、平賀の設計した駆逐艦早蕨も復原力不足による転覆沈没事故を起こしている。艦政本部長の山梨勝之進は帰朝した平賀を海軍技術研究所造船研究部長に任じ、設計部門への復帰を許さなかった。金剛代艦の設計時においては、技術検討会議の席上で設計部門ではない海軍技術研究所所長でありながら私案を提出し再び批判を浴びたが、副砲を高速航行時には使用できないケースメート式にする(対駆逐艦戦闘に使用する事ができない)、後檣楼が省かれたために予備の射撃指揮所が無いなど設計の内容でも酷評を受けている。平賀はこのときの設計案においても連装、3連装の混載を主張した。このころには「船作りは上手いが軍艦作りの能力の無い造船官」という評価であったという。昭和7年(1932年)には、既に採用されかけていた海軍駆逐艦の主砲高角砲統一案を廃案にしたとされ、これが仇となって太平洋戦争中、日本海軍は米国海軍に対し対空能力において大幅な劣勢を強いられることとなる。もっともこれは、平賀が左遷後、予備役に追いやられた時であり、この時期の平賀がどの程度影響力を行使できたかは疑問符がつく。また駆逐艦の主砲高角砲化は島風建造時にも検討され、松型駆逐艦において実現しており、これは左遷されていた平賀が復帰後の事である。藤本の急死後、後継者には同い年の江崎岩吉と福田啓二が挙がったが、平賀の弟子である福田が計画主任に任じられている。同年7月、特型駆逐艦がうねりによって船体にしわが発生する事件があった。これを調査した牧野茂造船少佐は船体強度上の重大な欠陥とし、同型艦すべての入渠修理を上申したが容れられず、豊田貞二郎艦政本部総務部長の決定の下、定例修理で対応する予定であった。9月に第四艦隊事件が発生すると、平賀は牧野造船少佐の上申を握りつぶした上で、藤本とコンビを組んでいた江崎を「事前の処置を図らなかった」として呉工廠に転出させる辞令を出し「将来のことを考え民間会社に移ってはどうか」と「忠告」したという。この頃、設計部門に返り咲いた平賀は戦艦設計の唯一の経験者として絶大な影響力を振るうようになっていた。軍令部要求に従って速力30ノット以上、主砲の艦首集中配備、充実した航空艤装を持った高速戦艦として藤本・江崎コンビによって設計が進んでいた大和型は、これ以降、平賀好みの重防御中速戦艦として設計変更が進むことになる(もっとも大和型の27ノットが、当時果たして中速だったのかは異論がある。事実、キングジョージV世級、サウスダコタ級戦艦も同速度である)。そしてこのときも主砲の連装、三連装を混載した設計案を提出し、軍令部から砲塔二種の生産余力なしと拒否されている。平賀は当時の列国の新造艦では廃止される傾向にあった中央隔壁をどの艦にも設けたが、これは船体を多少強固にする反面、魚雷命中等、何らかの要因で艦が浸水した場合に、隔壁によって片舷のみが浸水し、傾斜、沈没しやすくなる致命的な欠陥があった。太平洋戦争では、これが裏目に出て、日本の巡洋艦は一発程度の被雷(魚雷命中)で頻繁に傾斜、転覆するなど比較的損害が多くかった。(第一次ソロモン海戦における重巡洋艦加古の沈没がその一例)平賀は溶接工法に反対しリベット工法にこだわり、結果として被弾時の損害が増えたり(リベットの破損による他箇所への損害波及)また、船体のブロック工法等の新技術を取り入れにくくする、ディーゼルエンジンへの不信など、保守的な手法を用いるがゆえに古い技術による無駄の多い設計となっていた。また、彼が設計を指導した大和型は防水隔壁の数が過小(20年も古い長門型と同数の23)、被弾、損傷時に於けるダメージコントロールの研究も怠っていた(反して藤本はよく研究していた)。その一方でわずかな能力向上のためにコストを度外視し・造船の現場を無視した設計を行い、そして重量超過や工期の遅れについては厳しく「指導」した。平賀の上司であった山本は、敗戦の責任の多くが艦政にあり、その原因が平賀の艦政本部復帰にあると考えていたと言われる。戦後、造船協会が山本に名誉会員の称号を贈ろうとしたときはこれを固辞し、強行するなら協会を脱退する、自分はそのような名誉を受けるに値する人間ではない、と言ったといわれる。妻は原正幹の妹・カズ。三女は元サントリー社長の佐治敬三に、姪(原正幹の長女)は建築家の平山嵩(天文学者・平山信の次男)にそれぞれ嫁いでいる。

出典:wikipedia

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