ジョセフ・アンソニー・"ジョーイ"・バートン(Joseph Anthony "Joey" Barton, 1982年9月2日 - )は、イングランド・マージーサイド州ノーズリー出身のサッカー選手。レンジャーズFC所属。ポジションはMF。マージーサイド州ノウズリーのハイトンで、4人兄弟の長男として育つ。14歳の時に両親が離婚し、屋根職人の父親と共にセントジョンの祖母の家で暮らした。 憧れであるエヴァートンのユースチームに所属していたが、14歳の時に退団させられ、ノッティンガム・フォレストでトライアルを受けたが背が小さいという理由で落ちる。15歳の時にエヴァートンの元スカウトマンの目にとまり、マンチェスター・シティのトライアルに合格する。ユースチームで頭角を現し、ケヴィン・キーガン監督(当時)によって2002年11月のミドルズブラ戦でトップチームに抜擢される。しかしこの時は起用されず、翌2003年4月5日のボルトン戦でデビューを飾る。同月18日のトッテナム戦で初ゴール。一気に頭角を現し、2003-04シーズンにクラブのヤングプレーヤー賞受賞。マンチェスター・シティの若きタレントとして中盤のスタメンに定着した。また、U-21イングランド代表の招集を受け、マケドニア、ポルトガル戦に出場し1ゴールを決める。 4年目の2005-06シーズンには憧れのロビー・ファウラーがつけていた8番を受け継ぎ、クラブの象徴的存在に成長。2006年冬にはミドルズブラ、2006年夏にはアーセナルやモナコ、2007年冬には故郷のクラブであるエヴァートンなど多くのクラブがバートンの獲得に関心を示したが、いずれも断り残留を選択した。その一方、短気な性格が災いしピッチ外での問題行動(詳細)が目立つようになる。2007年2月、スペインとの親善試合でイングランド代表に初招集され、かつて公然と批判した相手であるフランク・ランパードとの交代で後半にピッチに登場し、代表デビューを果たした。2006-07シーズンは、チームが残留争いに巻き込まれる中で、バートンはチーム内トップの6ゴールを挙げる活躍をみせる。ところが、2007年5月1日の練習中にチームメイトの元フランス代表MFウスマーヌ・ダボを複数回に渡って殴打し負傷させるという事件を起こす。バートンは謹慎処分を言い渡され、シーズン終了後の放出が濃厚と報道された。これを受けてニューカッスル、ウェストハム、サンダーランドが獲得に興味を示した。2007年6月14日、ニューカッスルに移籍。番号は7番、契約期間は5年で、移籍金は580万ポンド(約14億円)。キャプテンマークを巻いて臨んだ開幕前の練習試合で左足第5中足骨を骨折したため、開幕から出遅れて10月22日のトッテナム戦で移籍後公式戦初出場。チームが低迷する中、サポーターに対してサム・アラダイス監督へのブーイングを止めるよう働きかけるが、かえって反発を買う結果に終わった。12月27日午前5時半、リヴァプール市内で暴行などの容疑で逮捕された。すでに他2件の容疑で保釈中の身分であったこともあり、年越しを留置場で過ごすこととなった。また、保釈後にアルコール依存症の治療を受けている。翌年5月21日、前年末の暴行事件で禁固6ヵ月の判決を受け、刑務所に収監された。6月にはウスマーヌ・ダボへ暴行を加えた事件で執行猶予4ヶ月の判決を受け、地域奉仕200時間に罰金形を科された。サポーターからは放出を願う意見が後を絶えず、ニューカッスルも放出を検討したが、マンチェスター・シティ時代の恩師でもあるケヴィン・キーガン監督の意向もあって残留となった。2008年7月28日、74日間の服役の後に模範囚として釈放される。相次ぐ騒動から2008-09シーズンは絶望と思われていたが、8月30日のアーセナル戦で交代出場し、ブーイングの中でピッチに復帰。9月にはウスマーヌ・ダボ殴打事件についてFAから12試合の出場停止(執行猶予付き)と2万5000ポンド(約480万円)の罰金処分を科された。出場停止が明けた後、サンダーランドとのタイン・ウェア・ダービーで戦列に復帰した。しかし、11月15日のウィガン戦でMFリー・カッターモールからタックルを受けて右ひざのじん帯を負傷した。年が明けた2009年1月のブラックバーン戦で2ヶ月ぶりに戦列復帰するが、古巣マンチェスター・シティ戦で右足第5中足骨を骨折し、再び離脱した。チームが残留を争う中、5月3日のリヴァプール戦で相手MFシャビ・アロンソに激しくタックルし一発退場になった。アラン・シアラー監督を激怒させ、クラブはバートンに対して無期限の謹慎処分を課した。2009-10シーズンは降格したチームと共に2部で戦い、1シーズンでの再昇格を勝ち取った。翌2010-11シーズンは、数シーズンぶりに故障や出場停止による長期離脱もなく、主力としてチームを支えた。2011年夏、ニューカッスルはバートンを放出する意向を明らかにした。バートンが自身のTwitter上でクラブの上層部を批判するつぶやきを発したことが放出の原因とも報じられた。2011年8月26日、クイーンズ・パーク・レンジャーズ(QPR)へ4年契約で移籍。キャプテンを任され、主に中盤の底でプレーする。2012年5月13日、1部残留がかかった2011-12シーズン最終節、古巣のシティ戦でカルロス・テベスにひじ打ちを見舞いレッドカードを受け、さらにセルヒオ・アグエロにひざ蹴り、ヴァンサン・コンパニに頭突きを食らわせた。この大乱闘によりFAから12試合出場停止と罰金7万5000ポンド(約975万円)の処分を受けた。また、チームからは背番号とキャプテンマークを剥奪され、フットボールリーグ2(4部相当)のフリートウッドでの練習を命じられた。バートンは処分を受け入れたが、マーク・ヒューズ監督を批判し、フランスのオリンピック・マルセイユへの移籍を希望した。2012年8月31日にステファーヌ・エムビアとの交換トレードの形でマルセイユにレンタル移籍した。イギリスで受けた出場停止処分はフランスでも適用されるため、すでに消化した3試合を除く9試合の間、フランス国内の公式戦に出場できないこととなった。9月20日、UEFAヨーロッパリーグのフェネルバフチェ戦で移籍後初出場。11月8日のボルシア・メンヒェングラートバッハ戦ではコーナーキックから直接決めるセンセーショナルなゴールで移籍後初得点を記録。定位置を掴むとリーグ戦25試合に出場した。一方で2013年2月3日のナンシー戦で退場処分も受けている。シーズン終了後はマルセイユ残留を希望すると同時に、2部に降格したレンタル元のQPRを「来シーズン彼らを助ける理由があるとは思えない」と批判した。2013年夏、QPRに復帰。中盤の要として昇格プレーオフを戦いぬき、チームのプレミアリーグ復帰に貢献した。ハリー・レドナップ監督は、バートンが「本当に影響力のある素晴らしい選手」で「常にフットボールのことを考えている」とし高く評価するコメントを残した。2014年12月28日のクリスタル・パレス戦から翌2015年2月10日のサンダーランド戦まで7試合連続で警告を受け、プレミア・リーグの新記録を樹立した。シーズン終了後、契約満了により退団が発表された。2015年8月27日、チャンピオンシップのバーンリーFCと1年契約を締結。38試合に出場し、クラブのFLチャンピオンシップ優勝に貢献した。2016年5月24日、4シーズンぶりにスコティッシュ・プレミアシップに復帰したレンジャーズFCへ移籍。
出典:wikipedia
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