ザ・ビーチ・ボーイズ(The Beach Boys)は、1961年に結成されたアメリカのロックバンド。米国西海岸の若者文化、特に青い海、ビキニの娘、サーフィン、自動車などをテーマにした軽快な楽曲で知られている。しかし同時に、複雑精緻で非常にユニークな『ペット・サウンズ』のような作品も作り上げており、エルトン・ジョンやリンジー・バッキンガム、山下達郎、桑田佳祐など、ビーチ・ボーイズを敬愛するミュージシャンは多い。音楽的ルーツはR&Rや黒人のドゥーワップにあり、チャック・ベリーの「スウィート・リトル・シックスティーン」をアレンジ(歌詞の他、編曲の部分の変更を含む。ロイアリティの問題もあった)して「サーフィン・U.S.A.」を作ったことが典型的な事実と言える。「サーフィン・U.S.A.」のメロディーは「スウィート・リトル・シックスティーン」とほぼ同じであり、そのことはビーチ・ボーイズ側も認めている。この件は、映画『ドリームガールズ』でも題材として象徴的に取り上げられている。ウェストコースト・ロックの元祖に位置付ける見方もあり、アメリカン・ロックでは多くのバンドがそのハーモニーの影響を受けている。結成当時のオリジナルメンバー5名のうち2名は故人となっているが、明確な解散宣言はしておらず、オリジナル・メンバーを含む数名がバンド名を引き継ぎ、ライブを中心に活動を続けている。最盛期に多くのヒット曲を送り出した中心人物であるブライアン・ウィルソンは、ソロとして活動を行っている。現在は共和党大会に、保守的なカントリー歌手らとともに出演したりしている。「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」において第12位。バンド結成時当時流行していた、サーフィン&ホットロッドと呼ばれる楽曲群は、単純なコード展開にギターソロを加えたインストゥルメンタルが中心だった。ここにロックン・ロールと異なる分野の音楽と思われていたフォーフレッシュメンなどを代表とするコーラスによるハーモニーを乗せたところにビーチボーイズのオリジナリティがあった。初期の楽曲群はハーモニー以外の点で、大きく当時の流行とかけ離れたものではない。しかし、ソングライターでもあるブライアン・ウィルソン自身がアルバムのプロデュースをおこなうようになって以降、一見シンプルに感じられる楽曲でも、実際には複雑なコードやベース音の展開が使われていたり、アレンジにさまざまな工夫が施されるようになった。例としてよく取り上げられるものに「カリフォルニア・ガールズ」のイントロ部分や、「神のみぞ知る」のベース音の処理、「グッド・ヴァイブレーション」におけるテルミンの導入、「キャロライン・ノー」の犬の鳴き声や列車の踏み切り通過音などの効果音の使用がある。これらの特徴は、ブライアンが敬愛したフィル・スペクターの影響も見られるものの、オリジナリティが強く他人に真似ができないものが多かった。ザ・ビーチ・ボーイズは孤高の存在であり、フォロワーが多く発生したビートルズと、時代の音楽の流れの中での位置付けに大きな違いがあると思われる。1998年のビーチ・ボーイズ分裂前までに参加したメンバーのみを記す。1998年以後の参加は、マイク・ラヴとブルース・ジョンストンによるツアー・バンドに参加していたことを示す。などブライアン、デニス、カールのウィルソン兄弟はサーフィンで知り合ったジョン・マース(後のザ・ウォーカー・ブラザースのジョン・ウォーカー)よりギターの手ほどきを受け、いとこのマイク・ラヴ、高校の友人アル・ジャーディンと共に1961年にグループを結成する。グループの前途に不安を感じ一時脱退したアル・ジャーディンの代わりとしてデヴィッド・マークスが1962年から1963年まで在籍した。彼らは最初ペンデルトーンズ(それはマイク・ラヴが当時流行していたシャツから取った名)と名乗り、ウィルソン兄弟の父親マレーによってマネジメントされた。マレーの友人ハイト・モーガンが経営していた小レーベル、CANDIXと契約しデビューシングル『サーフィン』をリリースしたが、そのレーベルには彼らの知らない「ザ・ビーチ・ボーイズ」という名前がクレジットされていた。デビューシングルは全米75位止まりだったものの、マレーは大手のキャピトル・レコードとの契約を成功させる。キャピトル・レコードに移籍後の第一弾シングル「サーフィン・サファリ」は全米14位のヒットとなった。彼らの初期の曲のテーマはカリフォルニアの青年のライフスタイル(例えば「オール・サマー・ロング」「ファン・ファン・ファン」)、自動車(「リトル・デュース・クーペ」)そしてサーフィン(「サーフィン」「サーフィン・サファリ」)から取られたものであった。これらは主にデニスの趣味であった。リーダーで、ヒット曲の多くを書いたブライアン・ウィルソンには、サーフィンの趣味はない。1962年末にデビューアルバムとなる『サーフィン・サファリ』を発表してから1966年の『ペット・サウンズ』の前まで、彼らは3年間で10枚のアルバムを発表している。うち、ライブアルバムが1枚、企画アルバムが2枚で、オリジナルアルバムは7枚となるが、クリスマスアルバム用にもオリジナル曲を用意している。CDの普及により、アルバム1枚あたりの曲数が増えた現在と単純な比較はできないし、曲の重複もあるが、1年にオリジナルアルバムを2枚以上出していたことになる。また、2作目まではベテランのA&Rマンであったニック・ヴェネにプロデュースを任せたものの、1963年のオリジナルアルバム3作目『サーファー・ガール』からはブライアン本人がプロデュースまでつとめるようになった。このとき、ブライアンはまだ21歳であった。その後、ブライアンは敬愛するフィル・スペクターのウォール・オブ・サウンドや、効果音を取り入れたアレンジを見事に消化し完全に才能を開花させ、他のメンバーもそれに伴い成長した。この時期に、強力なスタジオミュージシャンをバックに初期の傑作である『オール・サマー・ロング』『ザ・ビーチ・ボーイズ・トゥデイ』『サマー・デイズ』が立て続けに発表される。しかし、順調に見えたビーチボーイズの前途にその後ずっと付きまとう影が現れる。1964年末のツアーに向かう飛行機の中で、ブライアンは感情の抑制がきかなくなってライブを欠席する。そしてこれをきっかけに、コンサート活動への参加を止め、スタジオでの音楽作りに専念することを宣言してしまう。このツアーではブライアンの代わりをグレン・キャンベルが務めた。その後、この役目を担うためにブルース・ジョンストンが参加し、結局そのまま6人目のビーチボーイとして以降の音楽生活を送ることになった。ブライアンはビートルズのアルバム『ラバー・ソウル』に衝撃を受け、対抗心を燃やした。そして、当時ポップ・ミュージックとしては珍しい完全なコンセプト・アルバムを作ることを考えた。これが『ペット・サウンズ』である。しかし、それまでの彼らのイメージとはかけ離れていた作品であるため、契約していたキャピトル・レコードから敬遠され、保守的な米国のファンにもなかなか受け入れられなかった。全米チャートでは10位にランクインし、早々に50万枚を売り上げたが、それまでの作品に比べて売上の伸びない状況に不満を感じたキャピトル・レコードは、ペット・サウンズの発売後すぐに、それまでのヒット曲を集めたアルバム『ベスト・オブ・ザ・ビーチボーイズ』を発表した。ベスト盤は瞬く間に100万枚を売上げ、ペット・サウンズよりもヒットしてしまう結果となった。この事実にブライアンは酷く傷つき、その傷はその後長くブライアンを蝕むことになる。しかしイギリスでは米国の反応と異なり好評であり、アルバムは全英初登場2位記録し、シングルがヒットチャート上位にランクインする結果となった。また、元ビートルズのポール・マッカートニーや、ザ・フーのピート・タウンゼント、エリック・クラプトンが好きなアルバムとして挙げるなど、一部には理解者がいたが、このアルバムが見直されるには、かなりの時間が必要だった。スタジオでの完全主義ゆえに彼は『ペット・サウンズ』以上の作品を作り出さなければならないという強迫観念に駆られ、ビートルズの『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』の録音と期間が重複していた『スマイル』の制作中にノイローゼになった。一日の大半をドラッグとアルコールに依存するようになったブライアンは、アルバム内の曲「エレメンツ」録音時にスタジオ内で消防士の格好をしたり、キャピトルの重役夫人を悪魔呼ばわりしてその重役のスタジオ入りを拒否したり、奇行が見られるようになった。また、スタジオでのエフェクトに凝り始めたブライアンと、グループの持ち味であるボーカル・ハーモニー路線を支持したマイクを始めとする他メンバーとの方向性に対する対立も深まった。モジュラー・レコーディングといういくつかの(実際には、中間部が異なる各曲数十テイクに及ぶ)テイクの断片を組み合わす方式は、編集段階でもさらに精神的混乱を巻き起こした。『スマイル』はキャピトル・レコードの再三のリリース要求にもかかわらず結局完成せず、1967年5月にキャピトルはこのアルバム発売をキャンセルした。キャピトル・レコードは、アルバムをリリースさせるために、レコーディングの途中にもかかわらずジャケットを印刷してプレッシャーを与えようとしていたが、大半が破棄された。『スマイル』用の曲のうちのいくつかは『スマイリー・スマイル』に収録されたが、そのバージョンは厳密には『スマイル』録音時のテイクではなく、ブライアンがドロップアウトした後に他のメンバーが手早くでっち上げた断片や残骸とでもいうべきものであった。当然、40年後にアウトテイクも含んだ形で発表されたボックスセット『グッド・バイブレーションズ・ボックス』に収録された同名の曲たちとは比べものにならない完成度で、「英雄と悪漢」、「グッド・ヴァイブレーション」(1966年ビルボードシングルチャート全米No.1)といった傑作曲が収録されたものの、『スマイリー・スマイル』の評価は惨憺たるものであった。ブライアンが『スマイル』を放棄した後、残りのメンバーが作り上げた『スマイリー・スマイル』は、彼らが嫌ったサイケデリック色の強いアルバムとなったのは皮肉な結果であった。ブライアンの精神状態の悪化や事実上のドロップアウトにもかかわらず、バンドはさらに活発に活動を続けた。『ワイルド・ハニー』『フレンズ』『20/20』までの作品をキャピトル・レコードで発表した。ただし、ブライアン以外のメンバーも平穏な生活を送っていたわけではない。この時期デニスは、後に女優シャロン・テート惨殺事件を起こすチャールズ・マンソンと共同生活を送った上に、楽曲の共作まで行っている。これは事件後スキャンダルとなった。1970年の『サンフラワー』でキャピトルレコードを離れ、ワーナーブラザース傘下のリプリーズに移籍する。また、本格的に自分たちのレーベルであるブラザーレコード名義で作品を発表するようになる。続いて1971年の『サーフズ・アップ』がリリースされた。そのタイトル・トラック「サーフズ・アップ」は才能あるシンガー・ソング・ライターのヴァン・ダイク・パークスとの共作で、元々は『スマイル』に収録される曲であったが、ブライアンの思った通りのボーカルが録音できず、カールが代わってリードボーカルを務めた。このように『スマイル』が頓挫してから以後に発表されたほとんどのアルバムには、分散する形で『スマイル』収録予定曲の別バージョンが収録されている。1970年代を通してブライアンの活動は低調で、1973年の『オランダ』も複雑な評価を得た。ブライアンは1976年にツアーに復帰したが、彼の精神病は1990年代まで問題のままだった。ただし、ブライアン不在の中、他のメンバーは精力的にツアーを続け、ライブバンドとしての地位を確立していく。また、ブライアンの穴を埋めるために、メンバーが作った楽曲の中には佳作、名作もありビーチボーイズが決してブライアン一人の才能によって成り立っていたわけではないことを示す結果となった。しかし、1983年12月28日、ウィルソン三兄弟の次男であるデニスが事故死する。泥酔状態でクルーザーから水中に飛び込み、溺死したのである。当時、それぞれがソロアルバムを出すなど、すでに分裂の危機にあった彼らは、デニスの死をきっかけとして一時的に以前の結束を取り戻すかのように見えた。1985年7月13日に行なわれたライヴ・エイドに出演する。亡くなったデニス以外のメンバー5人(ブルース、カール、マイク、アル、ブライアン)がフィラデルフィア・JFKスタジアムに集結し、「カリフォルニア・ガールズ」「ヘルプ・ミー・ロンダ」「素敵じゃないか」「グッド・ヴァイブレーション」「サーフィンU.S.A.」を披露した。これにより残された5人での活動に大きな期待が寄せられたが、同年リリースされたアルバム『ザ・ビーチ・ボーイズ』以後、ブライアンはマイクとの共作をやめ、精神面での主治医ユージン・ランディの誘導により、ソロ活動に重きを置くようになっていった。1988年、亡くなったデニスをはじめとして、マイク、カールもソロアルバムを発表済みだったが、とうとうブライアンがソロアルバム『ブライアン・ウィルソン』を発表する。このアルバムは精神分析医ユージン・ランディの強い影響下で作られたものであった。ブライアンの才能が発揮された佳作で、一部で熱狂的に迎えられたものの、一般に大きな反響をもたらすものではなかった。皮肉なことに、同年ブライアン以外のメンバーがビーチ・ボーイズ名義で発表した映画『カクテル』の主題歌「ココモ」が22年ぶりの全米No.1を獲得する大ヒットとなる(ブライアンはレコーディングに誘われていたがスケジュールが合わずに不参加。その後、この曲のスペイン語バージョンのレコーディングに参加した)。なおテレビドラマ『フルハウス』の中でブライアンは久々にメンバーと共演し「ココモ」を披露している(「ビーチボーイズがやって来た!」の回)。また、この年グループは「ロックの殿堂」入りを果たす。なお、後に「ボーカルグループの殿堂」(1998年)入りも果たしている。その後もメンバー同士で、さまざまな理由で互いに訴訟合戦を繰り広げながら、音楽上の交流は若干ながら続いていた。しかし、バンドとしてのビーチ・ボーイズにとって最大の悲劇が起こる。演奏面での実質的なリーダーだったカール・ウィルソンが肺癌で1998年2月6日に死去したのだ。これで、ブライアンを除くメンバー間に残っていた結束も失われてしまった。マイク・ラヴとブルース・ジョンストンは、ブライアンの承認を得て「ザ・ビーチ・ボーイズ」の名前を引き継ぎ、主にライヴを中心に精力的に活動するようになった。アル・ジャーディンは、ブライアンの娘たちや、自分の息子などとともに「アラン・ジャーディン・ファミリー&フレンズ」というバンドを結成し、他のメンバーとは離れていった。ユージン・ランディの影響から脱したブライアンのソロ活動も徐々に軌道に乗りはじめた。彼を尊敬するワンダーミンツやジェフリー・フォスケットなどのミュージシャンによるサポートを受けて、ザ・ビーチボーイズ時代の作品や、当時レコーディングに失敗した多くの作品にふたたび命を与えるライブをおこなっている。事実上3派に分裂し、別々に活動してきた1998年以降も、現存するビーチ・ボーイズの3人のオリジナル・メンバーは、今なおブラザー・レコードの共同経営者であることに変わりはなく、過去の音源や映像のリリースに関する発言権や決定権を有している。また、各メンバーのツアー開催地や開催日程がバッティングしないよう、各メンバーの代理人、時にはメンバー本人間のミーティングは続けられた。ブライアンやアルにとって、正式に脱退してしまうと、相対的に現在ビーチ・ボーイズの名義を使用しているマイクの発言権が最も大きくなってしまう。そのためにビーチ・ボーイズからのである。2005年5月、故郷ホーソーンのウィルソン兄弟生家跡が、カリフォルニア州の史跡に制定され、その記念碑の除幕式に、ブライアン、アル、初期メンバーのデヴィッド・マークスが出席し、まずはブライアンとアルの和解が公に示された。その後、メンバー本人間で数度ミーティングを行ったことが伝えられるなど、ゆるやかな歩み寄りの動きがみられ、その成果の1つとして、2006年5月、ホールマーク社より期間限定で、1974年と1989年のライヴ・テイクに加え、ブライアン、アル、マイクがソロ曲を1曲ずつ持ち寄ったビーチ・ボーイズ名義のアルバム『ソングス・フロム・ヒア・アンド・バック』が発売された。また2006年6月13日、キャピトル・レコード本社屋上で開催された、ベスト盤『サウンズ・オブ・サマー』(2003年発売)ダブル・プラチナム獲得記念セレモニーに、ブライアン、マイク、アル、ブルース、デヴィッドが出席し、2001年2月21日の第43回グラミー賞功労賞授賞式以来、5年ぶりに公衆の面前でオリジナル・メンバーが揃った。険悪な雰囲気であったグラミー賞当時とは打って変わって、プラチナ・ディスクを囲んで相互ににこやかに談笑する、微笑ましい姿を見せた。2006年11月1日、ロサンゼルスのUCLA・ロイス・ホールにて行われた、ブライアンの『ペット・サウンズ』発売40周年記念ライヴにアルが客演し、ブライアンがビーチ・ボーイズのライヴに完全に参加しなくなった1996年9月以来、10年振りのステージ上での共演を果たした。アルのブライアンのライヴへの客演は2007年1月まで続いたが、その後アルは自身のソロ・アルバム制作を理由に離脱した。以降、各メンバーは個々の活動を継続してきた。ブライアンとアルは、2010年1月31日に行われた第52回グラミー賞授賞式に出席、さらに翌日の「ウィ・アー・ザ・ワールド」25周年リメイク版のレコーディングに揃って参加した。マイクは2009年9月、2011年2月に5人の現存メンバーによる再集結コンサートを、カリフォルニア州シミ・ヴァレーにあるロナルド・レーガン・ライブラリーにて行う計画があることを表明 。同コンサートは2011年2月5日に同地にてほぼ予定通り行われたが、ブライアンとデヴィッドは不参加で、アルが単身マイク&ブルースに13年ぶりに加わり、20分ほどのステージを行うという形にとどまった 。2011年に入り、再集結への動きは加速する。4月には東日本大震災へのチャリティ・シングルとして、「フレンズ(アカペラ・ヴァージョン)」と、アルのソロ・アルバム『ア・ポストカード・フロム・カリフォルニア』収録曲であるビーチ・ボーイズの未発表曲「ドント・ファイト・ザ・シー」をカップリングしたアナログ7インチシングルを自主制作にて発表。次いで11月には全メンバーの合意の下、1966~70年のビーチ・ボーイズの音源で構成された『スマイル・セッションズ』をキャピトル・レコードより公式発表、全米27位まで上昇した。2012年2月12日には第54回グラミー賞授賞式にて5人の現存メンバーでは初の公式パフォーマンスを行い、「グッド・バイブレーション」をマルーン5、フォスター・ザ・ピープルと共に演奏した。2012年4月より9月まで、デビュー50周年リユニオン・ワールド・ツアーを開催。6月には新作アルバム『ゴッド・メイド・ザ・ラジオ』をリリース(全米最高3位)、8月には来日公演(千葉・名古屋・大阪)を行った。同年10月以降はマイクとブルースが再びブライアンらと袂を分かち、前年までのバンドを率いてツアーを再開。一方ブライアンとアルはリユニオンの継続を希望したものの受け入れられず、二者でのライヴ活動を散発的に行うようになり、現状では二分裂の状態となっている。196119621963196419651966196719681969197019711972197319741975197619771978197919801981198219851986198819891990199220112012
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