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山内一弘

山内 一弘(やまうち かずひろ、1932年5月1日 - 2009年2月2日)は、愛知県一宮市出身の元プロ野球選手(外野手)・コーチ・監督、解説者・評論家。旧名「山内 和弘」(読みは同じ)。小学2年生の頃、自宅の近くにあった小学校の校庭で町内の大人達が野球をしており、そこでボール拾いをしながらキャッチボールを教えてもらったりボールを打たせてもらったりしたことが、野球を知ったきっかけであった。起工業高校ではエースで4番打者を務め、後に中京商や中京大学監督を務めた瀧正男の指導を受けていた。高校卒業後に中日ドラゴンズの入団テストを受験し合格したものの、球団の経営事情や、起工業高校が硬式ではなく軟式であったことなどから、山内を含めた数名の合格者は全員入団できなかった。その後、硬式野球のノンプロ川島紡績(現・カワボウ)に入社。外野手に転向し、都市対抗野球出場を果たす。、テスト生として毎日オリオンズに入団した。プロでは1年目から44試合出場ながら打率.336を残した。3年目のにレギュラーに定着し、5月中旬からは4番打者に定着。97打点を挙げて打点王のタイトルを獲得する。翌には打率.325・26本塁打・99打点の成績を残して2年連続の打点王に輝き、には打率.331・29本塁打の好成績で首位打者を獲得した。はシーズン途中まで三冠王を狙えるほどの活躍をしていたが、8月27日の対近鉄戦でグレン・ミケンズから顔面に死球を受けて担架で退場。1ヶ月の欠場を余儀なくされ、晩年まで軽い後遺症が残った。チームは8月後半に12連勝して南海を抜き去って首位に立ったが、主砲である山内の故障から一転して10試合で2勝7敗1分けするなど急失速して再び南海に首位を譲り、そのまま突き放された。山内自身はシーズン終盤に復帰して南海の杉山光平と首位打者争いを繰り広げる。10月20日、杉山が打率.323で首位を走り、それを追う山内が打率.319で直接対決最終戦となるダブルヘッダーを迎えた。杉山は出場せず、山内は出場。南海の投手はボールばかり投げてきたが、山内は第一打席で外してきた3球目のボールに飛びつきセンターオーバーの二塁打となった。山内の打率は.321に上昇し、あせった南海は、次の山内の打席からバットが届かない敬遠球で勝負を逃げた。1試合目は二塁打のあと3打席連続敬遠四球され、ダブルヘッダー2試合目も第1打席から3打席連続敬遠四球で、6打席連続敬遠を受けた。山内は結局打率.320で2位に終わったが、同年は25本塁打を残して本塁打王を獲得。また同年8月16日の大映戦では逆転サヨナラ満塁本塁打を放っている。には打率.313、32本塁打・103打点の好成績を残して2回目の本塁打王と3回目の打点王を獲得する。同年はパ・リーグMVPも受賞するなど活躍してチームのリーグ優勝に貢献し、田宮謙次郎・榎本喜八・葛城隆雄らとともに「大毎ミサイル打線」の中軸を担った。同年の打線は3番を打っていた榎本が打率.344で首位打者、田宮が2位の.317、3位が山内となり、大毎打線が打率ランキングの1位から3位を独占した。チームは6月5日の近鉄戦で勝った後、6月29日の近鉄戦までの18試合を92得点、44失点という成績で乗り切り、1954年の南海に並ぶ日本タイ記録となる18連勝を達成している。翌も112打点で4回目の打点王となった。その年のオフ、ファンから「『和弘』の“和”の字はまるいという表現があり、ぐるぐる回り道をしたり曲がった道を進むようだから変えたほうが良い。“和”の字を音が同じ“一”にすれば一から数が無限に続くので、選手としても良いし将来コーチや監督にもなれるのではないか」とアドバイスを受け、のシーズン途中に「和弘」から「一弘」に改名した。同年はリーグ2位の打率.334を残した。シーズンオフに「世紀の大トレード」といわれた小山正明との交換トレードが成立し、阪神タイガースに移籍。移籍後1年目のに青田昇を抜いて当時プロ野球記録となる通算293本塁打を記録した。同年は全試合に出場してリーグ3位の31本塁打を放ち、主砲としての活躍で阪神をリーグ優勝に導いた。日本シリーズでも2本塁打を放つなど活躍した。7月4日にプロ野球史上初の通算300本塁打、10月14日に昭和生まれでは史上初、プロ野球史上では川上哲治に次ぐ2人目の通算2000本安打を達成した。眼が悪かったため、ナイターの多かった阪神時代の4年間はシーズン最高打率が.261と振るわなかったが、その野球に取り組む姿勢は次世代の選手に多大なる影響を与えた。、根本陸夫に請われ広島東洋カープに移籍。同年は全試合出場を果たして王貞治、長嶋茂雄に次ぐリーグ3位の打率.313を放って自らの存在感を示し、通算10回目となるベストナインを受賞。山本一義、衣笠祥雄、山本浩司(浩二)、水谷実雄、三村敏之、井上弘昭、水沼四郎ら数多くの選手の生きた教材として活躍した。チームを活性化させ、広島は球団史上初の3位となった。、通算400本塁打まであと4本と迫りながらも現役引退。背番号8は山本浩二に受け継がれた。引退後は巨人(1971年 - 1973年二軍打撃コーチ, 1974年・1987年 - 1989年一軍打撃コーチ)、阪神(1975年 - 1977年・1995年一軍打撃コーチ)、ロッテ(1979年 - 1981年監督)、中日(1984年 - 1986年監督)、オリックス(1991年 - 1993年一軍ヘッド兼打撃コーチ)、フランス代表(1994年臨時コーチ)、和信(1998年 - 1999年打撃コーチ)、創価大学(2001年 - 2002年臨時コーチ)で監督・コーチを歴任。合間を縫って、日本テレビ解説者(1978年, 1982年 - 1983年)・スポーツニッポン評論家(1978年, 1982年 - 1983年, 1990年)を務めた。ロッテ監督時代には1980年前期、1981年前期で優勝を果たすが、惜しくも近鉄、日本ハムにプレーオフで破れた。1987年には個人事務所「エイトヤマウチ」(現・エイトワン)を設立し、同社の代表取締役社長に就任した。プロ野球マスターズリーグでは札幌アンビシャス初代監督を務め、2002年に野球殿堂入り。2007年3月24日、千葉マリンスタジアムでのロッテの開幕戦(対日本ハム)では、ロッテOBを代表して始球式を行った。2009年2月2日午後7時26分、川崎市の自宅で肝不全のため死去。。内外角のボールを左右へ巧みに打ち分けるバットコントロールの持ち主で、「シュート打ちの名人」と言われる職人的な技術を持っていた。特に内角球に対してヒジを折りたたんで振り出す独特の打法は、稲尾和久や野村克也から絶賛されている。野村は現役時代には、捕手守備時のマスク越しやオールスター戦のネクストバッターズサークルにいる時などに、山内の打席を穴があくほど観察し、そのフォームや内角捌きを参考・手本にして、自身の三冠王の獲得にも繋がったと語っている。同じリーグで同じ右のスラッガーであった中西太とは、互いに認め合うライバル関係であった。二人は当時の球界を代表する強打者であり、かつ打撃のスタイルが全く異なっていたことから、同世代・次世代の右打者たちの間で「中西流」「山内流」という言葉が生まれ、参考にされる存在であった。野村克也は、最初は中西のパワーと豪快な本塁打に憧れ「中西流」を真似したが合わず、業師で知られた山内の無駄な力を一切入れずに距離を測ってスタンドに入れるような「山内流」の技を試したところ、しっくりきたという。オールスターゲームでは毎年のように快打を放ち、「オールスター男」「お祭り男」「賞金泥棒」などと呼ばれた。オールスターには16回出場してMVPを3回受賞し、通算でも好成績を残している。またオールスターファン投票においては、両リーグ通じての最多得票を通算6回記録している(1956年、1957年、1959年 - 1962年)。これはパ・リーグの選手としてはイチローの6回(1995年 - 2000年)と並ぶ歴代最多であり、セ・リーグの選手を含めた歴代でも王貞治の7回(1963年 - 1965年、1976年、1978年 - 1980年)に次ぐ。打低投高の時代で長年にわたって好成績を残し続け、セイバーメトリクスにおける通算RCWIN傑出度、RC27傑出度では歴代4位、同様のXRなどの得点算出能力傑出度の通算指標においても5位以内を記録している歴代屈指の強打者である。1955年の日米野球では、全日本チームのメンバーとして8試合に出場して打率.379、2本塁打の好成績を残し、ニューヨーク・ヤンキース監督のケーシー・ステンゲルから「(山内の打撃は)メジャーリーグでも通用する」と称賛された。二塁打を得意とし、通算二塁打記録(448本)は福本豊に破られるまで日本記録で、現在も歴代3位・右打者歴代1位の記録である。同じく1956年に作ったシーズン47二塁打の日本記録は42年間破られなかった。また、1970年に引退するまでに史上最多の39球場で本塁打を放った選手でもある。ほとんどの試合で左翼手を務め、たまに右翼手を守ることもあった。1962年はシーズンを通して中堅手を守り、レンジファクター系の指標でリーグ1位の中堅守備得点を記録。正確な送球にも定評があり、外野手最多通算補殺(175補殺)の日本記録を保持している。教え出したら徹底的に指導することから、「かっぱえびせん」(カルビーの同名商品のCMキャッチフレーズ「やめられない、止まらない」から)の異名をとった。気が付けば唾を飛ばして試合前の相手チームの選手にまで指導してしまう熱の入れようだった。巨人コーチ時代には報知新聞付録のプロ野球名鑑プロフィールの『趣味』欄に「コーチ」と書かれていたほどで、実際に本塁打を打ってベンチに戻った直後の呂明賜に指導する姿が、テレビに映し出されたこともある。掛布雅之、水谷実雄、高橋慶彦、田淵幸一、真弓明信、原辰徳といった選手達を指導し、その打撃理論で数々の名打者を育てた。また、阪神の助っ人選手として活躍したハル・ブリーデンやマイク・ラインバックなどには、「阪神が弱くなったのは山内コーチを辞めさせたせいだ」とまで絶賛されている。特に阪神入団当初に「タイガース史上最低の外国人選手」のレッテルを張られたラインバックは、熱心に自分の面倒を見てくれた山内に、強く感謝していた。中日監督時代、1年目の1984年は前年ふるわなかった中日打線を強打線に仕立て上げ、巨人に14連勝するなど巨人を優勝争いから脱落させた。残り10試合を切った9月末には、首位を走る広島と0・5ゲーム差の状態で広島市民球場での天王山を迎えた。連勝すれば逆転優勝もありえた同試合前、山内は相手チームである広島の1番打者であった高橋慶彦に打撃指導し、高橋はその試合で2本塁打を放った。試合は広島がサヨナラ勝ちし、この負けが響いて中日は2位に終わった。相手選手の高橋に打撃のアドバイスをした山内は、新聞などの各メディアで叩かれたという。山内本人はこれについて、「同じ野球人、悩んでいたら助けてやらにゃいかんやろ」と語っている。中日監督時代の2年目は5位、3年目も下位に低迷。更に選手起用、作戦ともに不可解な采配が目立ち、チームは混乱。一部選手との軋轢も生じ、シーズン途中で休養(事実上解任)となった。また、ランナー一塁の場面で代打のコールを「バッターヒットエンドラン」とコールして作戦をばらすという、長嶋茂雄のようなエピソードもある。ロッテ監督時代、新人だった落合博満の打撃指導をしていたが、「俺のことはほっといてください」と言われる。1982年、落合が三冠王を獲得した祝賀パーティの席で、山内は「一目見た時からいい打者になれそうな予感があったから指導したんだ、けれどもまさか三冠王を取るバッターになるとは思っても見なかった」と話した。落合本人は、後に「当時は山内監督の高度な打撃理論が理解できなかった」と語るなど、あくまで当時の山内の指導が自分に合わなかっただけであることを認めており、山内の人柄・打撃理論、また指導してくれたことなどに関して、自著で感謝の意を述べている。実際にその後に出来上がった神主打法を改めて見てみたところ、山内から教わったものが自分のバッティングにも生きていることが分かったという。落合は山内から伝授された打撃練習法(カーブマシンを自分の真正面に置き、自分に向かって飛んでくる球を左に打ち返すというもので、左脇を締めて壁を作る練習など)を現役晩年まで実践していた。また、落合は現役時代7人の監督の下でプレーしたが、その中で「野球」を教わったのは山内と稲尾和久だけであると語っている。打撃理論が非常に高度であるという点は高橋慶彦も同意見で、過去を振り返った際に「『ボールには打つところが5ヶ所ある。内側、外側、上、下、真ん中だ』と言われたが、そんな話は初めて」「打撃練習についても『試合のための練習をしろ。ケージから前に飛ばんでええんや』と言われた」などといったエピソードを披露し、「駆け出しの頃だったら高度すぎてわからなかったと思う」と語っている。川又米利は山内から“バケツ指導”を受け、満々と水をたたえたバケツを振って、水をまく練習をさせられた。川又は「体重移動のタイミングとか、バットの始動の練習だったようだけど、最初は驚いた」というが、その成果もあり、1985年に7年目で初めて規定打席に到達し、「私にとっては大恩人。プロで19年できたのも、山内さんが使ってくれたから。」と山内に感謝している。彦野利勝には内角打ちの極意を伝授した。彦野は「現役時代、内角打ちを徹底的に指導された。特に右ひじ、左ひじの抜き方なんて、それまで教えてもらったことがなかったから今も印象に残っているし、財産になった」と語り、プロ初出場、初安打、初本塁打に初打点とすべてが山内が指揮をとっていた1985年だった。若い頃の上田利治の指導者としての能力を高く買い、根本監督との意見の対立から広島を退団した上田を、毎日時代の先輩である阪急の西本幸雄監督に推薦したことでも知られる。1991年から1993年シーズンまでオリックス・ブルーウェーブの一軍打撃コーチ兼ヘッドコーチをつとめた。かつてイチローの才能を見出せなかったと非難されていたのは当時監督だった土井正三であったが、振り子打法を発案した河村健一郎は、「イチローを二軍に落とすよう主張したのは、ダウンスイングに打法改造するよう指示した山内であり、土井監督は山内の意見を尊重せざるを得なかったにすぎない」と述べている。イチロー自身も同様の証言をしており、実際にイチローの打法に対してしつこく干渉してきたのは山内だったという。創価大学臨時コーチ時代には小谷野栄一を指導した。愛称は「山さん」「シュート打ちの名人」「オールスター男」。打撃に対して非常にストイックで、「打撃の職人」とも呼ばれ、現役時代は徹底した体調管理を行っていた。酒を絶ち、自費でマッサージ師を雇ったり、当時としては珍しいビデオ撮影での分析を行ったり、足腰のために自転車通勤をしたり、庭にバッティング練習場を作ったりしている。1956年、チームの主力打者だった山内は、大阪に来たときはナインが泊まる旅館とは別のところに下宿したいと球団に申し出た。当時、毎日オリオンズが遠征で使っていた旅館は大阪の道頓堀にあり、道頓堀は関西を代表する歓楽街であった。他の選手は街に繰り出したり、旅館から他のラブホテルを覗き見したりしていたが、山内はそれを避けるために他の選手とは離れての下宿を希望した。山内の言い分は正当であるため、球団も簡単に許可したという。オリオンズ時代は同じく職人気質であったチームメイトの榎本喜八と仲が良かった。谷沢健一によると、山内は現役時代から打撃談義を強く好み、特にベテランになってからはオールスターでもお構いなく、いつ終わるとも知れぬ調子で、ベンチの隣の選手に打撃についてずっと話しかけていた。そのため他のベテラン選手は、山内の近くには腰を下ろさなかったという。中西太は「ワシもよく喋るが、ワシよりも喋りだしたら止まらんのが山さんだ」と語っている。釣りが趣味で、中日監督時代にはシマノの釣竿のラジオCMに出演していた。1952年に毎日オリオンズに入団したころは、ニューヨーク・ヤンキースの捕手ヨギ・ベラモデルの35インチ約940gの重いルイビルスラッガー社製バットを使用していた。1954年頃から34.5インチ、910g~930gの短く軽いものにした。1960年7月19日に開かれた東映対大毎(駒澤野球場)の試合で、満塁のチャンスで入った打席で三振を喫したが、捕手が投球を後逸し、振り逃げとなるも、相手チームの勘違いからそれが事実上本塁打と同じ結果になった(詳しくは振り逃げの項を参照)。

出典:wikipedia

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