胆振縦貫鉄道(いぶりじゅうかんてつどう)は、かつて存在した日本の鉄道事業者である。後の日本国有鉄道(国鉄)胆振線の一部を開業したが、1944年(昭和19年)7月1日の戦時買収により国有化された。内地の私鉄として唯一、鉄道省D51形蒸気機関車同等品を導入したことで知られる。本項では、関連の深い胆振鉄道(いぶりてつどう)についても記述する。胆振線は鉄道敷設法に規定された予定線であったが、さしあたり脇方にあった日本製鋼所倶知安鉱山から産出される鉄鉱石輸送のため、1919年(大正8年)11月に倶知安 - 脇方間に京極軽便線が開業していた。改正鉄道敷設法には、別表第131号に予定線「膽(胆)振國京極ヨリ喜茂別、壯瞥ヲ經テ紋鼈至ル鐵道」が載せられていたが、この地域の中心地はより南の喜茂別にあり、陳情もたびたび行われたが、国の建設への動きは鈍かった。結局、喜茂別郵便局長の藤川俊治を中心とする地元有力者が胆振鉄道を発起し、「村ぐるみ」の半強制的な零細株主の出資により、1928年(昭和3年)10月に京極駅 - 喜茂別駅(初代)間を開業させた。これを伊達紋別に延長すれば、函館本線と室蘭本線を結ぶバイパスとなり、倶知安鉱山から産出される鉄鉱石の輸送距離が従来の長万部経由から半分程度に短縮できることから、札幌や室蘭の資本家たちの注目するところとなった。1931年(昭和6年)には、小樽の酒造家である野口喜一郎らを中心とした胆振縦貫鉄道が西喜茂別 - 伊達紋別間の免許を得たが、折からの不況により会社設立が難航し、札幌鉄道局長を辞めたばかりの瓜生卓爾を担ぎ出し、その伝手で根津嘉一郎の出資を得、ようやく会社設立にこぎつけた。1940年(昭和15年)12月に伊達紋別駅 - 徳舜瞥駅(後の新大滝駅)を開業した後、1941年(昭和16年)9月に接続予定の胆振鉄道を合併、同年10月に徳舜瞥 - 西喜茂別駅(後の喜茂別駅(2代))間が開業し、予定線が全通した。その後、太平洋戦争の戦況の悪化とともに、資源輸送のため胆振縦貫鉄道の重要性が増したこと、改正鉄道敷設法の予定線と完全に重複していたことから、1944年7月1日に買収・国有化された。買収価額は9,484,302円、国債交付額は9,704,900円であった。1940年の胆振縦貫鉄道への合併時点で、タンク機関車2両、二軸客車4両、二軸貨車11両が在籍した。胆振縦貫鉄道は、開業時にタンク機関車2両、その後テンダ機関車5両、二軸客車6両、貨車44両を導入した。胆振鉄道引継車を含めて、蒸気機関車9両、二軸客車10両、二軸貨車55両が当鉄道に在籍し、1943年に譲渡された4号機を除き、この陣容でで国有化を迎えることになる。買収の対象となったのは、機関車6両、客車6両、貨車55両であった。
出典:wikipedia
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