LINEスタンプ制作代行サービス・LINEスタンプの作り方!

お電話でのお問い合わせ:03-6869-8600

stampfactory大百科事典

野村沙知代

野村 沙知代(のむら さちよ、1932年(昭和7年)3月26日 - )は、日本のタレントであり、元プロ野球監督として知られる野村克也の妻である。愛称は「サッチー」。これは『笑っていいとも!』でSMAPの中居正広と共演した際に中居から「サッチー」と名付けられたという。出生名は伊東 芳枝(いとう よしえ)。所属事務所は株式会社エフエンタープライズ(東京・千駄ヶ谷)。血液型はB型。1932年(昭和7年)、福島県白河(西白河郡西郷村)に生まれた。しばらくすると東京・荒川区に転居、父は都バスの運転手であったが、太平洋戦争(大東亜戦争)の激化に伴う疎開として、再び故郷の福島に戻った。この生い立ちについて野村本人は、「東京の田園調布出身で、皇族の出である」「伊藤博文の家系」などと自称し、周囲に言いふらしまわっていたこともある。しかし、実弟の伊東信義によれば、幼少時から虚言癖があったという。また、万引きの常習犯でもあり度々警察沙汰を起こしていたと語っている。野村の学歴は東京都荒川区立第二瑞光国民学校(現在の荒川区立第二瑞光小学校、つまり中等学校)で修了し、その後は旧制福島県立白河高等女学校(現在の福島県立白河旭高等学校)に入学しようとするも、進学を断念し白河市の電電公社に電話交換手として就職。しかし、この仕事をしていた時にミスコンに伊東芳枝名義で出場し、「ミス白河」に抜擢され優勝した事をきっかけに地元新聞に写真入りで紹介されているという。これを機に電話交換手の職を退職し、東京へと舞い戻り、しばらくは実家と音信不通の日々を送るようになる。終戦後の数年間には、東京・新橋の第一ホテルで皿洗いのアルバイトなどをしつつ、進駐アメリカ人兵士相手の「パンパン」として身を立てていたという。一方この時期、野村の自著によれば、野村はニューヨーク市にあるコロンビア大学"精神心理学部"を卒業し、同時通訳者になっていたとされている。その後しばらくしてから、家族に手紙を送ったり、妹や信義を第一ホテルに呼び寄せては米兵からもらったチョコレートやコーラを与えたり、後には妹や信義の学費の援助もするなど、家族関係は悪くなかった。東京での住まいや生活の子細、パンパンをしていることなどは家族に明かさなかったというが、信義によれば、野村の服装や化粧、持ち物、更にその収入を見ればパンパンをしていることは明らかであり、米兵に肩を抱かれてホテルの周りを闊歩する沙知代に遭遇することもあったという。1957年(昭和32年)、アメリカ軍将校として来日していた東欧ユダヤ系アメリカ人であるアルヴィン・エンゲルとの間に、息子・ダン (後の野村克晃)、翌々年にはケニー (同・野村克彦)をもうけた。1970年8月、プロ野球選手兼監督・野村克也の所属している南海チームは、後楽園球場で行われる東映フライヤーズとの三連戦のために上京し、原宿のホテルに宿泊していた。野村克也はホテルから程近く、行きつけにしてある高級中華料理店を訪れたが、その際に沙知代と相席になったことがきっかけで、一緒に食事を取りながら談笑した。これがふたりの出会いとなった。その後、1972年(昭和47年)頃には、沙知代は当時すでに既婚者だった野村克也と愛人関係になっている。自身の婚姻関係も解消されていなかったことから、ダブル不倫の状態であった。1973年(昭和48年)には、野村克也との間に男児、克則が誕生(後の野村克則)したが、非嫡出子である同児は実父・伊東巳之吉との養子縁組が画策されたという。その後、野村克也は克則を自身の子として認知している。この頃から、後の野村沙知代は、愛人という立場から野村克也が監督を務めるプロ野球球団・南海ホークスのチーム運営に口を出すなどの行為が目立つようになり、選手たちからは不満が渦巻くようになった。監督室に出入りしたり、コーチ会議に口をはさんだり、自らがつくった私的な会に選手夫人の参加を強要したりするなどし、克也は公私混同を理由に解任された。広瀬叔功は、「球場へ出入りするなどしたことも私は快く思っていなかった。以心伝心というものか彼女も私が嫌いだったのだろう。用兵にまで口出したかどうかは知らないが、73年頃から私の出番は確実に減っていった」と著書に記している。また、この頃までには既に、自身の名前を「芳枝」から「沙知代」へと改名していたという。1978年(昭和53年)4月、前妻との離婚が成立した克也と結婚。ダン、ケニーの二人も野村克也の子となった。高畠導宏(南海でも監督と選手・コーチの関係でもあった)は後に克也のヤクルト監督就任に伴ってコーチに就任したが、1年で辞任し、「相変わらず夫人の介入もありましたし」と語っていた。克也とヤクルト時代に監督・選手の関係だった古田敦也に対して「(夫が)ヤクルトの監督を辞める時、古田くんは『お世話になりました』の一言だけ。(略)古田くんを夫は愛弟子のように育てていましたが、息子(カツノリ)は育てられないのかと非常に不満でした。やっぱり古田くんは殺してやりたい」と発言した。1996年(平成8年)、野村沙知代は第41回衆院選に、新進党公認候補として、東京5区・比例東京ブロックから重複立候補した。選挙結果は落選(小選挙区で次々点、比例で次点)であったが、選挙後の1999年(平成11年)7月、選挙公報などに虚偽の経歴を公表していたとして、野村について公職選挙法違反(虚偽事実公表罪)で、計7件の告発が東京地方検察庁にされた。虚偽とされた内容は、「コロンビア大学留学」、「1972年に野村克也と結婚」などの記載で、告発者は女優・浅香光代らであった。検察の捜査員が、現地コロンビア大学で調査したところ、大学の事務当局には当時の留学生の学籍原簿や単位認定記録等自体が残っておらず、経歴詐称の証拠は得られなかった。また、婚姻歴については、息子・野村克則の誕生日から逆算し、1972年当時には野村克也と事実婚の状態であったと認定された。これらの事実を受け、本件は全件7件のすべてが、嫌疑不十分により不起訴とされた。しかしながら野村はその後、選挙結果に伴って生じていた繰上げ当選の権利を辞退する意向を示した。この学歴詐称の疑いについては先に、テレビ番組 『ザ・ワイド』(日本テレビ・読売テレビ)が取材し、同大学の同窓会による卒業生名簿に、該当する名前がないことが判明していた。また、週刊誌の取材を受けた野村は、「読売(読売ジャイアンツ)の陰謀」、「コロンビア大学ではなく、コロラド大学に留学した。間違えたのは編集部のミス」などと答えるなど、曖昧で非合理な対応に終始していた。1999年(平成11年)、共演した舞台における確執に始まる女優・浅香光代とのバトル、批判合戦が、長期に渡ってワイドショーなどで繰り広げられた。これには、「アンチ野村沙知代派」、「野村沙知代擁護派」などとして、複数の芸能人、著名人らが連日の舌戦に参加、マスメディアは格好のネタを提供することとなった。野村は2001年(平成13年)12月、約5億6800万円の所得を隠し、法人税と所得税、合計 2億1,300万円を脱税したとして、法人税法違反(脱税)などの疑いで東京地検特捜部に逮捕された。野村の拘留期間は、起訴される後までの23日間に及んだ。当時プロ野球・阪神タイガースの監督を務めていた夫・野村克也は続投が決まっていたがこの事件の発生を受けて妻の逮捕直後に監督を辞任した。また、野村のこの逮捕を受け、先述の「ミッチー・サッチー騒動」は世間的には浅香側の勝利という形で収束した。翌年3月に行われた初公判で、野村は起訴事実を全面的に認め、野村本人に対しては懲役2年・執行猶予4年、罰金2100万円(求刑・懲役2年、罰金2600万円)、経営していたノムラとデイーアンドケイーの2社に対しては、罰金3200万円(求刑・罰金3900万円)(罰金総計5300万円)の、それぞれ有罪判決が出された。この公判の中で野村は「今後、芸能活動はしない」と語ったが、その後芸能界復帰を果たしている。この事件の発覚には、前夫とのあいだの二男ケニー(克彦)が大きな役割を演じていた。母親の逮捕・起訴前にケニーは、本件について母親から自分にかかってきた口止めを求める電話の録音テープなどを捜査当局やマスメディアに提供、これが事件の立件に繋がったのである。母親の有罪判決を受けてケニーは、自分の執筆した告発本が母(野村沙知代)を追いつめたことに寄与したとして、「正義が勝った」との感想を述べた。野村はかつて、少年野球チーム(リトルシニア)「港東ムース」(後に解散)のオーナーを務めていた。このチームにはG.G.佐藤、ごく短い期間だが井端弘和が在籍していた。佐藤について野村は「日本一になったときのメンバーですから、そりゃあもう、かわいがりましたよ。張り飛ばして、ぶっ飛ばして育てたんですから」と語っている。前夫との間の二男であるケニー(克彦)は、後に自身の妻となった女性の息子がかつて同チームを退団し、その後の野球人生を野村沙知代に潰されたことを自著で明らかにしており、これはその後の親子絶縁の一因ともなった。また、2001年(平成13年)に発覚した脱税事件では、野村が親らから集めた金を所得申告していなかったことも指摘されている。有罪判決の翌年となる2003年(平成15年)1月、それまでメディア出演が無くなっていた野村は、『サンデージャポン新春SP』(TBS)で、テレビ出演に復帰した。翌年11月には、『クイズ!ヘキサゴン』(フジテレビ)に出演、また、『世界絶叫グランプリ』(同)では、全米の超恐怖と言われる4大マシーンを、表情変えずに完全制覇する姿が放送された。2005年(平成17年)8月3日、20歳若返り美容整形手術を、同年10月末に行うとの記者会見を開いた。『週刊新潮』は2010年(平成22年)6月、同年の大相撲夏場所4日目に、野村が「砂かぶり」席で暴力団組長の妻と談笑しながら観戦していたことを報じた。これに対して野村は「隣にいた女性は全く見知らぬ人であり、記事は暴力団と密接な関係にあるとのイメージを与え著しく名誉を傷付けた」として、同誌の発行元である新潮社を相手取って、3,300万円の損害賠償請求訴訟を東京地方裁判所に提訴した。前夫でユダヤ系アメリカ人であるアルヴィン・エンゲルとのあいだの息子、ダンとケニーは、1978年(昭和53年)に現夫・野村克也と再婚した際にも子供として戸籍に入ったものの、確執を経て、それぞれ絶縁関係となった。アルヴィン・エンゲルはその後ハワイで自殺。次男のケニーは2001年(平成13年)、母・野村沙知代との決別の書たる暴露本を著している。また、自身の実弟である伊東信義も、それに先立つ1999年(平成11年)に暴露本を出版、「野村沙知代」に係わる嘘の数々を告発している。過去に出演したのも含む。

出典:wikipedia

LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。